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法則性

(1)
どうしても答えを知りたい、知らずにはおれない問いがありました。その人の努力とはまったく関係なく、生まれながらにして幸せを約束されたような人と、逆に、その人にはなんの責任もなく、生まれながらにして不幸せを約束されたような人がいるのはなぜなのか?という問いです。そのような問いに対しては、どのような不幸せも考えようによっては幸せになるし、その逆もある、だから、そうした問い自体が無意味なのだ、という解釈があることを少年は知っていました。しかし、人の意見に耳を傾けようとしない少年は、そのような解釈を、あまりにも浅薄な、現実を知らぬ者の机上の空論である、と一笑に付していた。少年の言う現実とは、少年の母のことであり、少年自身のことでした。すでに彼は、他人とは、ひいては人間とは総じて信頼するに値せぬものである、という確信をもっていたのでした。

(2)
孤独な少年は、書物に答えを探すことにしました。小学校や地域の図書館で手当たり次第に読み漁り、やがてジャンルは「オカルト」と呼んでよいものにまとまりました。なかでも、時間を割いたのは、人の運命を推測する占いであり、さまざまな占いのなかでも四柱推命(しちゅうすいめい)でした。四柱推命とは、その名の通り、生年月日に相当する四つの柱(年柱、月柱、日柱、時柱)を中心にして運命を推測するものです。非常に複雑な体系をもつ占いですが、寝食を忘れて夢中になりました。そして、さまざまな占いに比較して、四柱推命にはそれなりの的中率があると判断したのです。少年の命式を詳しく語ることは避けますが、波乱万丈を暗示する命式には、星を散りばめた天空を意味する華蓋(かがい)と呼ばれる特殊星がついており、その星が、後に少年を危険に晒すことになります。

(3)
占いに的中率があるということは、人を操る運命に法則性があることでもあります。では、その法則性とはどのようなものか?占いに続いて読んだのは、インド思想関係の書物でした。インド思想でしばしば認められる業思想に興味をもったのでした。業思想とは自分自身の行為が未来にも影響を及ぼすという考え方ですが、これは、現在の自分のありかたは過去の自分の行為の結果であるという意味でもあります。現在を現世とすれば、業思想は、容易に、前世が現世を生じ、現世が来世を生じるという輪廻思想に行き着きます。このような思想からすれば、総じて、自分自身の現在の不幸は、他ならぬ自分自身の悪行の結果、“自業自得” だということになるのです。

(4)
インド思想のなかでも特に興味をもったのは仏教でした。仏教と業思想との関係は単純ではないのですが、少なくとも当初は、そういう観点から仏典を読みました。そうして何年かを費やし、すっかり仏教に魅せられた少年は、行き過ぎて、ついに家族を捨て、出家することを願うようになっていました。二つの道がありました。雪に埋もれる山寺の禅僧になるか、仏教系の特定の新興宗教で修行をはじめるか。選んだのは、後者でした。後者を選んだのは、新興宗教の教祖の著書を読んでいたからでした。その教祖は、四柱推命によって示される運命(業=カルマ)を絶つ修行法を示していた(と思えた)のでした。教祖の命式には華蓋があり(華蓋には、芸術家か僧侶になることによって運命を伸ばす、という意味がある)、僧侶になったが、悪い特殊星もあり、それを絶つ方法を見つけた、というような書き方でした。これにすっかり共感し、信じ込んでしまったのです。その後の顛末については、こちらをご覧ください。

(5)
すんでのところで入信を辞した新興宗教は、後に信ずるに値しないことが明らかになりました。あのまま入信していれば、せっせと教団のために働き、いったいどれほどの人に迷惑をかけていたことか‥‥。止むに止まれぬ動機からついに至った失態でしたが、この失敗から、自分の欠点がはっきりしました。なんの根拠もない占いや運命や業思想にしても、怪しげな新興宗教にしても、何事も容易に信じ込み、善悪を冷静に判断する能力を欠いていることでした。こうして、少年はまず哲学に学ぶことを決めたのです。仏教への未練を残しつつ。今日は大晦日。「ゆく年くる年」では、あのとき少年が憧れた、雪に埋もれた禅寺が映し出されるのかもしれません。(了)

言い訳と、1年の総括

by enzian | 2006-12-31 20:30 | ※山河追想 | Trackback | Comments(41)

忙しくなると、私はどうなるのか。

15分の余裕がなかった。時に不吉な文字が頭をよぎったけど、なんとか秋(から12月一杯)を乗り切ることができました。教育や自分の研究に忙しかった、と言うのではありません。ぼくにとってはどちらも趣味の一環ですから、趣味を「忙しい」と言うのは変な気がする。それ以外の「雑用」と言われるものに忙しかったのです。「雑用」とは、教育や自分の研究以外の諸々について大学教員が使う言葉ですが、一つの組織に所属するからにはそれもまた大切な仕事で‥‥と、そういうことを言おうとするのではなかった。忙しくなると、どうなるのか、でした。

(レベル1)
○自分の研究ができなくなる。
日本の大学の現状では、優先順序は以下の通り。雑用>>教育>>>>>自分の研究
○教育(この場合の「教育」とは、授業時間以外の学生へのサービスを含む)が低下する。
論文の相談、進路の相談、生活上の相談、また大学教育は今やかつての家庭での “しつけ” をも担っているわけですが、それもできません。
○ブログを書かなくなる。
○ものの見方が否定的になる。
○いたるところ、散らかす。
個研、書斎、寝室、食堂‥‥行く先行く先で書類を散らかすから、収集がつかなくなる。
○電車を寝過ごす。
○眉間に皺がよる。
○風邪を引きやすくなる。
正確に言うと、精神力で抑えるが、後でツケがまわって、小休止したときに熱を出す。

(レベル2)
○板書(黒板に書くこと)で誤字脱字を繰り返す。
今年の後期の授業は、自分史上最低、最悪だった。ごねんなさい、学生諸君。
○ものを忘れる。
例、会議を忘れる。会議をダブルブッキングする。
○ブログを書かなくても平気になる。
○食事のスピードが速くなる。
○身なりがどうでもよくなる。
○結石ができる。
そもそも結石体質なのですが、それにストレスが加わると‥‥

(レベル3)
○物を落とす。
特に、鍵を落とす。それに備え、スペアキーをいつも持ち歩いているが、それさえも落とす。
○歩行が蛇行しはじめる。
先日、学生に指摘されて気づいた。
○自宅の階段から落ちる。
○ブログの存在を忘れる。
○ろれつが回らなくなる。
書き間違え、ろくに喋ることもできず、ついに授業は崩壊する。
○鏡に向かってなにやら話しはじめる。
授業ではしどろもどろなのに、気がつけば、鏡には流暢に話しかけている自分がいる。

(レベル4)
??

そういえば、先日、ゴミ箱を持ちながらゴミ箱を探しました。(ーー )
来年の秋、レベル4に突入しないことを願うばかりです。その前に、1月を乗り切らないと。

by enzian | 2006-12-24 09:53 | ※その他 | Trackback | Comments(21)

前夜祭

今日は学祭の前夜祭。構内では学生たちが準備に追われている。“STAFF” と書かれたバーカーを着ている学生もいる。午前中の授業では顔を見たことのないようなのが朝早くからキビキビ働いていたりしてちょっとムッとするが、まぁよしとしよう。サークルのため、クラブのため、大学のため、みんな、それなりに祭を成功させようと懸命なのだろう。極度に “まつりごとギライ” のひねくれ者であっても、そういう表情を見るのはイヤではない。毎年、この時期(あるいはこの時期以降)、完全に消息を絶ってしまう学生がいるのが気がかりではあるが‥‥

自分より大きなものとの関係――あるいは、自分より大きなもの(全体)のどこに属しているのか――を定期的に確認する行事が “まつりごと” の意味だとすれば、そこでは、猛烈に帰属意識を求める者の熱狂と、帰属意識を拒絶する者の虚しい疎外感が入り混じって複雑な人間模様を呈している。学祭を首尾よく終え、胴上げをして嬉し涙を流す学生もいれば、ほかならぬこの時期に、大学から離れ、疎外感のなかで独自の道を決意する学生もまたいるのだ。

引きつけて一つのものを完成させようとする力と、遠ざけて新しいものを作らせようとする力。祭には、そのような二つの方向に人を振り分ける力があるのだろう‥‥そんなこんなを考えながら、悲喜こもごもの学生たちを横目にしながら、ちょっと疎外感も感じながら、さぁ、今日も会議、会議!

*これは、とあるブログに書いた記事を転載したものです。また手抜きしやがったな!しかも、時期はずれ!(昨年の秋に書いたものなのだ。)

by enzian | 2006-12-19 00:18 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(10)

「間違い探し」の間違い

めったにやらない「間違い探し」(週刊誌掲載)を、どういう風の吹き回しかやってみた。間違いは3つだという。じっと見つめるが、見つからない。絵を斜めにしたり、下から見たりもするが、見つからない。ムカムカしながら見つめるが、見つからない。頭から湯気を出しながら穴が開くほど見つめるが、やはり見つからない。1時間を費やし、けっきょく1つの間違いも見つからず、自分も老いたものだとしみじみ冬の空を見たりする。

元来そうだったろうし、仕事上の悪しき習慣もあって、“あら探し” には慣れている。人はもともと、正しいことよりも誤っていることの方に敏感(なはず)だと思うし、なかでも器の小さい人間は、人から差し出された用紙やカードにいくつの間違いを見つけられるか、そして、いかに効果的にその間違いを問い詰めることができるか、に自尊心の存続を懸けるものだ。あら探しにだけは少々の自信をもっていただけに、今回の間違い探しの失態は応えた。

よほど頭に来ていたらしく、次の週、新しい号を読んでみた。「当方の手違いで、前回の間違い探しには同じ絵が2枚掲載されておりました。お詫び致します」。ガルゥゥ、他のことは許せても、この間違いだけは許せん!

by enzian | 2006-12-16 13:16 | ※その他 | Trackback | Comments(14)

「強い人」とはどんな人か?

人間には神並の知者はいなくて、いるとすれば、「自分がな~んにも知らないことを知っている」といった程度の知者だけだと考えた哲学者がいましたね。強引にいろんなことを端折って、人間がすべて弱いとする。そうすると、人間には三種類あることになるだろうか。

  1.自分が弱いことにそもそも気づかない弱い人
  2.自分が弱いことに気づいても、認められない弱い人
  3.自分が弱いことに気づいて、認められる弱い人

1と3は一般に「強い」と言われる人だけど、1には病的なナルシストも含まれる。3は人として理想的なんだろうけど、一週間ほどでいいから、1の人になりたいという気もする。こう考えること自体がヒュブリス(傲慢)で、じつは1なのかもしれないけど。

*これは、とあるブログに書いた記事を転載したものです。手抜きですな。

by enzian | 2006-12-15 23:32 | ※その他 | Trackback | Comments(20)

学生に注意される

優秀な学生に「底なしに腹黒い」と注意され、なにやら誇らしい気分になる。

まず、「底なし」と評される自分(ぼく)が誇らしい。人間、なにごとにも中途半端はいけない。善きにつけ悪しきにつけ、振り幅の大きい方がエネルギーの量も多いのだ。考えてもみなさい、学生諸君。たしかにぼくは今は悪しき教師かもしれないが、いつなんどき、この巨大な悪しきエネルギーがそっくりそのまま善の方へと振り向くとも知れない。

学生の洞察力も誇らしい。この学生はぼくが(^▽^ウケケッと吟味した対学生用の仕掛け(トラップ?)に気づいたのだろうけど、これに気づくには透徹した洞察力が必要なのだ。考えてもみなさい、学生諸君。世知辛い世の中を上手に生き抜くためには、人と、人の策略を見切る目が必要なのだ。それでも、ぼくが学校中に隈なく張り巡らしている仕掛けのすべてを見切ることは到底、不可能だろうけどね。(゜ー゜)

そう言えば、先週は「冗談が過ぎる」と注意されたのだった。

by enzian | 2006-12-09 19:20 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(10)

「批判」の意味

会議で「批判的に見なければならない」と発言したら、「批判的」というのを「否定的」や「非難的」の意味にとられて、あわてて訂正することになった。「批判」とはもともと「区別する」の意味なのに‥‥と一瞬思ったが、国語辞典を見れば、なるほど、ほとんど「否定的」の意味で説明してある。

ぼくが「批判」のもともとの意味を知ったのは、大学のゼミで読んだテキストからだった。「批判」と名のつく難解なテキストに四苦八苦する有象無象(うぞうむぞう)をよそに、すらすらとテキストを読みこなし得意気に解説するちょっと “哲学的な” 同級生がいて、ついには自分独自の解釈を図示するに及んだ。

あるとき、指導教授を訪ねた。進学するかどうかで迷っていた。本題を切り出すことはできず、同級生のことを話してお茶を濁そうとした。同級生への悪意を抱きつつ。「あの解釈、おかしいですよね?」話の乗り半分に頷いてもらえるかと思えば、指導教授は頑として首を縦に振らず、歳若い学生の解釈の妥当性を認めた。「あの解釈はおもしろい」。相手が誰であろうと、認めるべきことは認め、認めてはならないことは決して認めない――「批判」の意味を理解した瞬間だった。

by enzian | 2006-12-05 21:57 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(6)