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王子さま、「星の王子さま展」に行く

b0037269_2117454.jpgキャー、王子さま、私を星の王子さま展に連れてって!などとすがりつく黄色い声たちを足蹴にして、「星の王子さま展」(京都大丸ミュージアム)に行く。ちなみに、学会の懇親会も行かなんだ(許せ、スティーブ、意味不明)。こんな時期、テツガクの王子さまはだまってひとりで星の王子さま展、と相場は決まっているのだ。黄色い声を相手にしているヒマなどない。しみじみ飲んでいるヒマなどないのだ(スイマセン)。

展の名称が示しているように、展は内藤濯に敬意を表していて、いままで知らなかった、内藤の翻訳の経緯がわかった。サン=テグジュペリのオリジナルイラストをいくつか見ることができたのもよかった。『星の王子さま』に使われたものでは、王子が訪ねた小惑星のひとつにいた実業屋のオリジナルイラストがあって、ホォと食い入るようにして見たもんだ。『星の王子さま』に使われるいくつかのメタファー(隠喩)の解釈もよかったと思う。水を “心の交流” のメタファーと解釈していたのなんかは勉強になった。ぼくは違うようにも解釈するけどね。

ちょっと残念だったのは、内藤の説明にスペースを割きすぎていたこと。レオン・ウェルト(『星の王子さま』の最初のところでサン=テグジュペリが献辞している人)の説明みたいに、コンスエロ(サン=テグジュペリが劇的な方法で口説き落とし、結婚した女性)とのこととか、時代背景と三本のバオバブの関係とか、彼の死の真相と本との関係とか、そういう、『星の王子さま』と大人の世界とのドロドロデロデロしたつながりについても、もっとつっこんでもよかったように思う。『星の王子さま』は、酸いも甘いも噛み分けられる大人向けの童話なのだから。

展の出口のところに、『星の王子さま』グッズの売り場がドーンと鎮座していて、まぁ商魂たくましい王子さま展だこと‥‥なんだかんだ言ったって、実業屋のイラストだからね‥‥とは思いつつも、大喜びで、手にかかえられないほどのグッズを買ってしまった。昨夜は枕元にグッズを置いて寝たもんだ。グッズを手に取り、にやけた、でもちょっとシニカルでもある王子さまは、今日もご機嫌である。こういうアホ記事は、たいてい30分で削除する。

by enzian | 2007-05-27 13:11 | ※その他 | Trackback | Comments(32)

循環バス

夜、片田舎の循環バスに乗る。自宅はもうすぐだ。引き続き、中村久子の本を開く。バスの発車を告げる声を聞いたような記憶がある。動き出した車窓から、昼間の雨で濡れた漆黒の路面をちらりと見た記憶もある。が、その後40分間の記憶はない。気がつけば、もとの駅前に戻っていた。酔っぱらって一つ前のバス停で降りた日も、居眠って二つ先で降りた日も疲れていたが、昨日はそうではなかった。集中して、一冊を読み切ったのだから。

違うのかもしれない。なにごとかに “没頭してしまう” ことは、むしろ他のなにごとかに疲弊(ひへい)していることの裏返しではないのか。中間管理職とはつまらぬものだ。

by enzian | 2007-05-26 08:56 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(16)

言葉のキレに酔う

「‥‥というようなつもりは微塵もありません」という言葉に力が漲(みなぎ)っていた。そのとき、その人は、曖昧さをまったく残さない自分の言葉のキレに酔っていた。よく切れる包丁でトマトをすっぱり切ることが快感であるように、一定の言葉の――こう言ってよければ、身体的な――アクションに酔ってしまうことがあるのかもしれない。

身に覚えがある。履修者が500人近い授業をしていたことがある。ざわついていた数百人が、こちらがしゃべりはじめるやいなや水を打ったように静まり返り、一点に集中する。大勢の聴衆を前にして調子に乗った三文役者(後に、そう学生に評された)は、愚かにも、意図的にキレのある言葉を繰り返し、授業の学問的厳密さなどそっちのけでひとり盛り上がっていた。ミュージシャンがコンサートで感じる高揚感とはこのようなものなのだろうか、とも思った。

話者だけでなく、それを聞いている者までも知らず知らずのうちに酔わせてしまう陶酔。事は、自分が “乗らない” だけでは済まされない問題なのだ。幸いなことに、それ以来、千鳥足三文役者の授業の履修者数は、下降の一途をたどっている。

by enzian | 2007-05-19 13:21 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(10)

おにぎり

b0037269_1049744.jpg以前、同僚同士で最後の晩餐をなににする?という話が出たことがあって、迷うことなく、おにぎりと答えた。おにぎりが好きなのだ。

今はたくさんの種類があってそれぞれ美味しいけれど、やっぱりぼくはプレーン(?)のおにぎりがいいな。熱々のごはんの甘みと塩かげんがいいのだ。

実家には、普通の塩とアジシオが置いてあった。アジシオは青っぽい長めの容器に入っていたと思う。母は塩を手に塗り込んで三角形のおにぎりを作った。祖母はときにはアジシオも使いながら、熱々のごはんで俵形のおにぎりを握ってくれた。どちらも美味しかった。

大好きなおにぎりだったけど、遠足に行って、友だちの弁当から勧められるのは苦痛だった。しかたなく、ひとつもらって、無理に飲み込む。ぼくは母か祖母の握ったおにぎりしか食べることができなかったのだ。いや正確に言えば、他の人のおにぎりでもなんとか “飲み込む” ことはできたけど、なにか不潔なような気がして、味わうことはできなかった。

あるとき、親しくなった女性がおにぎりを作ってきてくれた。食べないわけにはいかない。飲み込めばいい‥‥と思って食べれば、普通に美味しいのだ。世界中の誰も知らないだろうけれど、これは、ぼくにとっては新鮮な感動の瞬間だった。

いつの間にか、誰が握ったおにぎりでも美味しく食べられるようになっていた。それでも、最後の晩餐をなににする?聞かれれば、母か祖母の握ったおにぎり!と勢いよく答えるだろう。どこぞからケリを入れられるかもしれないけど。

by enzian | 2007-05-13 10:18 | ※山河追想 | Trackback | Comments(23)

入相の鐘

自分の存在感が希薄になることは離人感と言うが、遠い昔に自分と同じような人間がいたことをリアルに感じられないことはなんと言うのだろうか。それは、当たり前だろうか。古刹で何百年か前に描かれた僧の姿を見ながら考えていた。

以前、長く住んでいたところで縄文時代の住居跡が発掘されたことがあったが、そのときも、ひょっとするとどこかで自分と血の繋がった人のものかもしれないと思いつつ、そんな大昔に自分と同じ人間がいたことをリアルには感じとることはできず、ただぼんやりとして、気が遠くなるような感覚だけが残った。

夕暮れに鑑真の御廟に立った。瓊花(けいか)が一本、墓石に枝垂れかかるようにして咲いている。鑑真が遷化して1200年後に、国外持ち出しの禁を押して、故郷の揚州から贈られたものだという。また気が遠くなって立ちつくしていたら、ゴーンと入相の鐘が鳴った。

瓊花

by enzian | 2007-05-05 12:57 | ※山河追想 | Trackback(1) | Comments(13)

『地面の底がぬけたんです』(藤本とし)

b0037269_0225952.jpg著者の藤本としは、若くしてハンセン病に罹患(りかん)し、手足の指、ほぼ全身の身体感覚、視覚を失った女性。穏やかな語り口のなかに、隠しきれない気品を漂わせている。構成は、第1部の随想と第2部の口述筆記。

とりわけ随想38篇は珠玉の佳品。幾重にも積み重なった内省と葛藤の襞(ひだ)からようやく滲み出した一滴一滴を見る思いがする。外向きの感性の喪失がかえって豊かな内向きの感性を生み出したことは事実だとしても、それはやすやすと、時の経過につれて自然に、必然的に、著者のうちに生まれたようなものでは決してない。

「闇の中に光を見出すなんていいますけど、光なんてものは、どこかにあるもんじゃありませんねぇ。なにがどんなにつらかろうと、それをきっちりひきうけて、こちらから出かけていかなきゃいけません。‥‥自分が光になろうとすることなんです。それが、闇の中に光を見出すということじゃないでしょうか。」(第2部、322頁)

いつか自分が光になれるという保証など、どこにもない。ましてや、あなた自身が光になりなさい、と人を諭(さと)すことなど、できはしない。それでも、そのような人がかつて確かにいたことは、今を生きる者のかすかな励みになるかもしれない。

by enzian | 2007-05-01 19:31 | ※好きな本 | Trackback(1) | Comments(22)