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秋の空

b0037269_0374396.jpg出版企画の提案が届いた。高校生でもわかるような、やさしい哲学の解説書らしい。ぼくのWeb上の文章を読んだのだという。そのコンセプトに少しぐらついたが、けっきょくやめることにした。手持ちの仕事があったこともあるけど、なにより、その書名に?を感じたからだ。すごく短い時間で哲学がわかる、というような題の本で、シリーズものらしい。

たしかに、ぼくはここで中学生にもわかるような哲学エッセイを書こうと(して、ほとんど挫折)しているわけだけど、ぼくの文章の意味がわかるということと、哲学することはイコールじゃない。ぼくの文章をすんなり短時間で理解して記憶しても、ぼくの結論のない文章に引っかかって、つまづいて、違和感を抱いて、ときには嫌悪感さえ感じて、それなりに時間をかけて自分で考えようとしなければ、哲学ははじまらないのだ。出版社には丁重にお断りしたが、返事はなかった。ぼくは、ほっと胸をなでおろした。

気づいたら、空がすっかり高くなっていた。

虫がおります、虫が‥‥

by enzian | 2007-08-31 23:29 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(54)

夏の幸せ

スイカの美味しい夏だった。今年はたくさんのスイカを食べた。スイカを食べるときは、できればトマトやマクワウリやらといっしょに流水でコロコロして冷やしたものを食べたい。もうその風景を見るだけで涼しい気分になれる。そうやって十分に冷えたスイカにがぶっ!とかぶりついて、口いっぱいに頬張る、これが夏の幸せなのだ。スプーンで少しずつじわじわと‥‥なんてことでは夏の幸せは半減する。だらしなく種を皿にペトペト落としているようでは先が思いやられる。プッ!プッ!とその辺りに飛び散らかすぐらいがちょうどいい。ぼくの祖母なんか、いつもスイカを種ごとがぶがぶと怪獣のように食べていて、毎夏、気合いが入っていた。

それまで見向きもしなかったスイカを好きになったのは、祖母がいなくなってからのような気がする。そういえば、苦手だったトマトの丸かじりを美味しいと思えるようになったのも、トマト好きの母がいなくなってからのことだった。夏の幸せには、すでにいない人の顔が見え隠れする。

by enzian | 2007-08-25 14:48 | ※山河追想 | Trackback | Comments(29)

『すてきな三にんぐみ』(トミー・アンゲラー)

b0037269_12211879.jpgトミー・アンゲラーの『すてきな三にんぐみ』です(原題は、The Three Robbers)。以前の記事(気になる本があったら、教えてください)で、あるブロガーさんに教えてもらって読んで以来の好きな絵本です。

絵は、もう表紙を見ただけでもその幾ばくかは伝わるかと思いますが、不思議な絵です。漆黒の闇に暗躍する盗賊たちの話で、黒と暗い青が基調になった絵なのですが、少しも暗さを感じさせません。むしろ、どこか、おちゃめな感じさえする絵柄なのです。

三人の盗賊の持ち物もおかしい。吹けばぷーぷー音が出そうなラッパ銃と、くしゃみが止まらなくなりそうな胡椒吹きつけ器、凶器と言うよりは夜に羽ばたく派手な鳥といったオレンジ色の大まさかり。三人は通りがかりの馬車を襲って金品を強奪して生計を立てているようですが、これらの持ち物で人間自身を傷つけたりしたことは、きっと一度もないのでしょう。

ある日、いつものように通りがかりの馬車を狙った三人でしたが、その日の馬車には、いじわるなおばさんのところへ送られる途中だった、みなし子のティファニーちゃんただひとり。おばさんのところよりもおもしろそう、とついてきたティファニーちゃんを大切に大切に抱きかかえ、隠れ処に連れて行ったときから、三人の新しい生活がはじまったのでした。

これから先はネタバレになるし、しかも長ったらしいのです。

by enzian | 2007-08-16 19:49 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(29)

赤とんぼ

b0037269_084443.jpg近所をほっついていたら、赤とんぼがふらりふらりと飛んでいた。もう秋なのだ。すぐにツクツクボウシも鳴き始めるだろうし、送り火も終わる。毎年のことながら、急に寂しくなってしまう。

この歳になって、ようやく気づいた。いい歳になっても、寂しいものは寂しいのだ。気持ちだけは永遠の18歳のつもりでも、ある朝とつぜん老眼になっていて愕然とせねばならぬ。まったく、不可逆性ほど残酷なものがあろうか。あとは夏の余熱を手のひらに包みながら、恐怖の秋と冬を過ごさねばならない。

もうちょっと明るい記事を書けって?やだ。

by enzian | 2007-08-13 23:59 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(19)

人を嫌いになるということ

ここしばらくは事情があって、自分で自分に、そんなに我慢することはないよ、人を嫌いになってもいいよ、と甘い声をかけ続けてきた。でもむずかしいもので、なかなかそう簡単には嫌いになれない。いや、もう少し正確に言うと、8割方嫌いという状態には簡単になれるのだけど、100パーセントまでは嫌いになれないのだ。例えば、ぼくが一番嫌いな人は父親で、この人のようにはなるまいと思ってこれまで生きてきたのだけれども、彼にしても、100パーセント嫌いになれるか?と問われれば、とたんに口ごもってしまう。

でも、そんなことはやはり当たり前のことなのかもしれない。ぼくは自分とそれなりに関係のある人を嫌いになるのだろうけど、関係があるからには、なにかしらお世話になっていて、愛情を注いでもらっているわけで、100パーセント嫌いになんて、なれはしないのだ。

ぼくは、ぼくとまったく関係のない人(Aさん)に無関心でいることはできるけど、「ぼくはAさんが嫌いです」とは言いにくい。Aさんは、好きでも嫌いでもない、ぼくとは無関係の人だからだ。ぼくはたとえわずかであっても好ましい要素のある人に「嫌い」と感じるのであって、「100パーセント嫌い」とか「純粋に嫌い」といった言葉は矛盾なのだろう。

by enzian | 2007-08-12 15:00 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(24)

立ち位置

b0037269_13317100.jpg極度に集中すると、自分がどこにいるかわからなくなる、というか、いまでも実家の部屋にいるような錯覚におちいることがある。

正面にはまったく風通しには役立たない小さな窓があり、いつもカーテンは閉じられたままになっている。小さな卓には分厚いノートパソコンが置いてあり、電灯が消された部屋に、モニターの光だけがぼぅっと浮かび上がっている。うず高く積み上げられた書物の山に囲まれた陰湿な青年が、テキストの誤りを探しながら、ときどきなにごとかカチカチと打ち込む‥‥10年間、夜に昼を継いで研究に没頭した実家の部屋で、暗い青年の視点といまの自分の視点が重なる。

人にはそれぞれ、一生涯その人にまとわりつく原風景とまではゆかなくても、心と体に深く刻み込まれた、その人なりの “立ち位置” があるのかもしれない。もちろん、そうした立ち位置は少しずつ変化していくが、心と体のどこかにはしつこく澱(おり)のように残り続け、すっかり新しい位置に移動するにはそれなりに時間がかかるのだろう。ここで暮らしはじめて数年、人にそういう位置があるなら、ぼくはまだ、あの圧倒的に濃密な時間を過ごした部屋でひとり立ち尽くしているのかもしれない。いつ、この明るい部屋に移ってくることができるだろうか。

by enzian | 2007-08-10 19:20 | ※その他 | Trackback | Comments(15)

オープンキャンパス

オープンキャンパスが好きだ。高校生と会えるのが楽しい‥‥なんてことは、当たり前すぎるから言わないとして(言ってるけど)、オープンキャンパスを手伝うボランティアスタッフの学生たちの姿を見るのが好きなのだ。オープンキャンパスの朝。すでにセミの大合唱がはじまった構内にはたくさんのボランティアスタッフたちが待機していて、不慣れな高校生たちに学校を案内したり、ベンチに座って話したりしている。じりじりと照りつける日差しに焼かれながら、大切な夏休みの一日を過ごすのだ。大学が嫌いなら、とてもできないことだろう。

建学の理念とか教育目標とか社会的使命の完遂とか大げさな言葉があるけど、要は――そう思えるときが来るのに遅い早いはあっても――自分の学校が好きだと思える学生を育てられれば、その学校の教育はいちおう成功していると言ってよい。そういう意味では、まさに、おのが教育の成功例を見ることができるのがオープンキャンパスだということになる。そうした “実例” が、かつてオープンキャンパスの学科相談コーナーで自分が話し込んだ学生であれば、なおさらの喜びなのだ。ほっと胸をなでおろすことができる。

4年前のオープンキャンパスで話した学生と再会した。けっきょく彼女はこの大学に来ることはなかったけれど、ぼくと話して哲学科に学ぶことを決めたのだという。ぼくはおそるおそる聞いてみた。「哲学科へ行ってよかったですか?」「よかったです」。こういうタイプの喜びもオープンキャンパスにあることを、今年、ぼくは発見した。

by enzian | 2007-08-07 21:51 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)