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場所と人

b0037269_12382364.jpg一度行けば、たいていの場所が好きになることに気づいた。それまでは行きたくないと抵抗していたようなところでも。

テレビなどでその場所が映し出されると、あぁ自分が行ったところだ、また行きたいなぁ、と画面にかぶりついてむしゃむしゃするぐらいの勢いで観ている。こういうのを愛着がわく、と言うのだろう。

まったく同じことが人と会う場合にも当てはまる‥‥と言いたいところだが、なかなかそうもいかない。もう金輪際(こんりんざい)ごめん、ということもある。他者は、ぼくがそこに立つことのできるような場所ではないのだ。

by enzian | 2008-04-29 12:40 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

知らない世界

b0037269_0242952.jpg「mixiはしていないのですか?」
「以前、したことがあるけど、せっかく紹介してもらったのにすぐやめてしまって、今はやってないよ。きっと、もうしないと思う」
「どうしてですか?」
「‥‥どうしてだろうね」

いつもこんな感じでお茶をにごすが、自分ではその理由はわかっている。mixiをはじめれば、読者を限定できるのをいいことに、ぼくはきっとしゃべってはいけないことをしゃべって、書いてはいけないことを書いてしまうだろうから。ぼくが書いていいのは、このブログで書いていることまでなのだ。それが理由のひとつ。

もうひとつは、これ以上知ろうとしてはいけないと思うからだ。mixiをはじめてすぐ、ぼくは想像だにしない人たちがmixiをしていることに気づいた。そこには、ふだん学校では見せない顔、レポートには書けない意見、表の(?)ブログでは見せない考えがちりばめられているのだろう。たぶんぼくは、いろいろなことを告げられ、知ってしまう立場にある。なにもしない限り空気を吸うように知ってしまうのなら、自分からは知らないように努めることも必要なのだ。ぼくのまったく知らない世界がたくさんある方がいい。

by enzian | 2008-04-27 00:04 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

カンチガイにもほどがある。

出張。いつものように、行き当たりばったり。下調べなんかするかってんだ。どおってことはない。最寄りの駅で降りて、あとは、いかにも学校関係者という感じの、やぼったいおじさんたちに付いて行けばよい。

東京で乗り換え。よぉ知らん電車に乗り、すかさず爆睡。疲れているのだ。しばらく眠り、眠い目を少し開ける。右手にヨーロッパ風のお城らしきもの。“カップルを対象とした特定目的の宿泊ないし休憩施設” なのだろう。それにしても派手で巨大。まったく趣味が悪いにもほどがあるではないか、関東人よ。なんだか知らんが、またふてくされて眠る。

帰り。あの趣味の悪い建物が見えてきた。駅に止まる。うん?ネコ耳というか、ネズミ耳をつけた子どもたちが山ほど乗り込んできた‥‥

by enzian | 2008-04-26 00:10 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

子どもが水辺で遊ぶのを止めることはできない。

水辺で事故が起きて、ニュースが現場を映し出す。またか‥‥。池はすり鉢状のなめらかなコンクリート張りになっており、何かのひょうしで池辺で滑れば、一気に水面まで落ち込むような構造になっている。滑り落ちれば、どこにもつかまるものはない。大人であっても、はい上がるのはむずかしいだろう。子どもを助けようとした大人が亡くなるというニュースも多い。

こういうとき、なぜ池(や川辺)がすり鉢状になっているのだろうと思う。もともと水辺には危険がつきものだが、つるつるのコンクリートを張ってその危険を高めているのは人間なのだ。ともあれ、こういう事故を起こしてはならないと、どの池でもフェンスが張られるようになってきているが、子どもがそうしたフェンスを乗り越えて、かいくぐって事故が起こることもある。水の冷ややかな感触、水辺にいる生き物たち‥‥それを求めるなと言っても、好奇心旺盛な子どもには土台、無理な話なのだ。

池の近くで遊ぶな、フェンスを乗り越えるなと言われても、子どもは水辺で遊ぶ生き物なのだ。いまどき、水辺でどんどん遊びなさい、とはとても言えないだろう。だったら、せめて、すり鉢状の池→危ないからフェンスを張る、から、どうしても子どもは水辺で遊ぶもの→フェンスを張る+落ちてもはい上がれるように池に段差をつけ、つかまるところがあるようにする(要は、落ちても決して溺れられないようにする)、という風に考え方を転換できないだろうか。

by enzian | 2008-04-20 21:49 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

『釣れなくてもよかったのに日記』(福島昌山人)

b0037269_21343447.jpg「追悼 福島先生」。突然の文字に、パソコンの前でしばらく固まってしまった。まだ大丈夫だろうと思っていた自分の甘さを悔いた。

小学生から中学生にかけて、『釣の友』という月刊誌を定期購読していた。釣りが好きだったこともあるが、二つの連載を読みたかったからだ。福島昌山人さんの「釣れなくてもよかったのに日記」(以下、「日記」)と、山本素石さんの「釣山河」だった。

ひたすら純文学を避け、物心ついたときからへんてこりんな本ばかり読んできたぼくには、この人の文章にこそ影響を受けた、と言える人がほとんどない。福島さんと山本さんはその例外なのだ。「釣山河」からは情景描写を、「日記」からは遊び心を学んだ。

「日記」を読み返してみて、しかし、その認識には誤りがあると気づいた。情景を描く際にも、知らず知らずのうちに「日記」からの影響を受けていたのだ。その人の一生についてまわる景色を原風景と呼ぶように、その人に根強くついてまわる文章を「原文章」と呼ぶことが許されるなら、ぼくの原文章はまちがいなく二人の文章なのだ。

「命」という言葉はあまり使いたくない。より曖昧な「いのち」であれば、なおさらのことだ。それを継承性(世代を超えて伝えてゆくこと)とつなげる考え方にも一抹の抵抗がある。もしそれが尊いものなら、過去や未来を抜きにして、一瞬一瞬に存在するということだけですでに十分に尊いと考えたいのだ。もちろん、過去も未来もない現在の瞬間がないこと、他者なしの自分がないことは、わかっている。そのように命をほとんど使わないぼくだが、この度は禁を破って使いたい。福島さんや山本さんの文章の命はぼくの文章のなかにも生きている、と。

福島さんには、その気にさえなれば、いつでもお会いできるものだと信じていた。会いたいと思う人には会わねばならない。会えるチャンスを逃してはならない。

by enzian | 2008-04-19 23:20 | ※好きな本 | Trackback | Comments(0)

聖域としてのラーメン

b0037269_22493970.jpgラーメンがあまり好きではない。以前はそれなりに食べていたのだが、いつごろからかラーメンがブームになって “国民的な食” と言われはじめ、街のそこここにラーメン店ができ、しばしばそこに長蛇の列を見るようになってきてからは、めっきり食べなくなってしまった。

同じような理由で、ぼくは高校野球や高校球児が好きではない。ややこしいことを言うようだが、高校野球も高校球児も嫌いなわけではないのに、高校野球も高校球児も好きではないのだ。同じように、ぼくは赤ちゃんが好きではない。赤ちゃんが嫌いなわけではないのに、赤ちゃんが好きではないのだ。

それはこういうことだ。例えば、ぼくが、試合に負けて泣いている高校生を見て「あの光景のどこが美しいのですか?」とか、赤ちゃんを見て「どこがかわいいのですか?」と真顔で聞いたとする。すると、聞いた人の何割かは答え(どの部分が美しいとか、どの部分がかわいいとか)を考える前にぼくに恐怖し、警戒することだろう。ぼくは美しくないとも、かわいくないとも言ってないのに。このとき、高校野球や赤ちゃんは、それにかかわる者に議論の余地を与えない聖域となっている。問うべくもないものとして、答えはあらかじめ決定しているのだ。ぼくは、こういう批判を許さぬ聖域となったとき、とたんにある意味でそれが好きではなくなる。

墓参りに行ったとき、以前から気になっていた小さな食堂に入ってみた。昔ながらの黒い札のメニューが壁に掛かっている。「中華そば」を頼んでみた。出てきた素朴なラーメンは、やっぱりとても美味しかった。

by enzian | 2008-04-17 23:12 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

サンドイッチ

墓参りに行ったら、ちょっと規模は小さくなったとはいえ、A屋はいまも店を続けていて、通りすぎる際に少しのぞき込んだら、あのおばさんがいた。たちまちにして一つの記憶がよみがえってきて、苦々しい思いで胸がいっぱいになった。

小学生のころ、A屋は最先端の菓子店で、地域の少年たちを集めて繁盛していた。A屋には最初、眉間に大きなほくろのあるおばあさんがいて、ぼくは仏さんのような人だと思っていた。あるときから、おばあさんに代わっておばさんが店番をするようになったのだけど、その方も、悪ガキたちが品定めしているのを黙って見ている、とても柔和な観音さまのような人だった。

ある日、ぼくはサンドイッチが欲しくなって、100円玉を握りしめ、A屋に駆けつけた。2種類のサンドイッチがあった。

「これ、いくら?」
「110円」
「こっちはいくら?」
「120円。えぇわ、100円に負けたげるわ」
「いいです」

そうして、ぼくはまた来たばかりの道を手ぶらで帰って行った。おばさんは、ぼくが100円しか持っていないことを見抜いて、そう言ってくれたのだろう。おばさんのやさしい言葉を、ぼくはいまでも感謝してる。だけど、その日を境にして、ぼくがA屋に行くことはなかった。

by enzian | 2008-04-13 00:02 | ※山河追想 | Trackback | Comments(58)

海だ、海が見える。

b0037269_22295041.jpg不意に見える海が好きだ。電車の車窓から見える町並みが不意に途切れて、思いもしない海が見えたとき。なだらかな坂道を自転車で登り切り、とつぜん、眼下に広がる海を見たとき。

そういうとき、「海だ、海が見える」と叫ばないでいられる人とは、どんな人なのだろう。山育ちのぼくには、想像できないのだ。そんな海なら、グレーでもいい。

ぼくの場合、「海だ、海が見える」の感動は、ちょっとほかにはないタイプの感動なのだ。たぶんその瞬間、コンマ何秒かは我を忘れて、なにか普段とはちがうものになっている。

by enzian | 2008-04-10 23:16 | ※海を見に行く | Trackback | Comments(0)

やわらかな空間

床屋で髪を切っていた。ひまだったので、隣に座っているおばちゃんと床屋の兄ちゃんとの会話を聞いていた。兄ちゃんが言うには、おばちゃんの小学生の息子もそこで髪を切ってもらっているのだけど、来ると必ず「なぁなぁ、話、聞いてぇな」と言って、ため口で話し出すそうなのである。聞き上手の兄ちゃんは、いつもじっと聞いてやっているらしい。おばちゃんは言う。「なかなか話を聞いてもらう機会がないから、聞いてやってください」。

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by enzian | 2008-04-05 22:10 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

ごめんなさい!

できるだけ「すいません」を減らせないものかと考えていた。「ありがとう」のときも「ごめんなさい」のときも「すいません」を使うが、感謝を伝えるなら「ありがとう」、謝罪するなら「ごめんなさい」と言った方がいいのではないかと思ったのだ。

でも、感謝の気持ちを「ありがとうございます」と言うのは簡単でも、改まってわびを入れる場合、子どもならまだしも、大人であれば「ごめんなさい」は、やはり使いにくい。しかたなく、「申し訳ございません」や「すいません」を使うことになる。

混み合う車両で「ごめんなさい!」という男性の大きな声が響いたことがある。電車が揺れて体が当たったりしたのだろう。それにしても、大人が「ごめんなさい」とは珍しいこともあるものだ。どんな人が言ったのだろうか? ちらりと見えたその人は、白い杖を握っていた。

by enzian | 2008-04-04 00:01 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)