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時間

ニイニイゼミが鳴きはじめた。昨年の夏、大学の構内でやかましくクマゼミが大合唱していたのが、つい昨日のようにさえ思える。良いのか悪いのかわからないが、年々、時が経つのが速くなっていく。小学生のころはそうではなかった。1年は長かったし、6年間はとてつもなく長かった。途中、ぼくはなんども、これは永遠に続くのではないかと思ったほどなのだ。

時間というのはなにかの間隔なのだけど、それを(それなりに印象深い)経験と経験の間隔だとすれば、その間隔が長ければ長いほど時間は長く、短ければ短いほど時間は短い、ということになる。長い時間は退屈だとなり、“ずらりと狭い間隔で並んだ好ましい経験の束” を後から振り返れば、楽しい、充実した時間だったなぁということになるのだろう。

そういう意味では、小学生のころはドラマティックな経験のない、とても退屈な時間をすごしていたから長く感じた、ということになるが、それはなにかちがうように思う。次々と新しい経験をしていたのは、今よりもむしろ幼いころだったはずだからだ。

by enzian | 2008-06-28 00:03 | ※その他 | Trackback | Comments(50)

尋源館

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by enzian | 2008-06-27 23:15 | ※写真 | Trackback | Comments(4)

断末魔の声

神社には鎮守の森があって、森のはずれには「お宮さんの池」と呼ばれる池がありました。小さな池で、どこから水が流れ込んでいるのかわからなかったのですが、いつも満々と水とたたえていたものです。魚はほとんどいなかったのですが、アメリカザリガニとカメがいた。ザリガニ釣りは子どもたちの好きな遊びの一つでした。神社に面した広場での野球に疲れると、子どもたちは喜び勇んでお宮さんの池にザリガニを釣りに行きます。赤くて大きなザリガニを釣ることが、子どもたちにとっては大きなホームランを打つことにも匹敵したのです。ザリガニを釣るのに大した道具は必要ありません。粗末な凧糸の先に餌(エサ)をくくりつけて投げるだけ。餌はザリガニでした。池の縁でぼんやりしているザリガニをなんとかして捕え、その尻尾(胴体)の部分を餌にするのでした。

ある日、池の底に大きな大きな緑色のイモムシが落ちていました。ザリガニたちは先を争ってイモムシを食べていましたが、やがて黒くて丸い影が近づいてきて、あっと言うまにザリガニたちを追っ払ってしまいました。ザリガニやカメたちは、池に落ちてきたすべての蛋白質を食べ尽くしていた。池に落ちたのが人間であっても、同じことだったのでしょう。

ザリガニを餌にしても十分に釣れたのですが、ザリガニ釣りには特別の餌がありました。カエルでした。ザリガニの尻尾であれば1匹ずつしか釣れないザリガニも、この餌を使えば、3匹も4匹もいっぺんに釣れるのでした。カエルは田んぼや小川にたくさんいましたが、できればこの餌は使いたくなかった。餌にするには殺さねばなりませんが、ぼくはカエルが好きだったのです。でも、好きなカエルでも餌にしないといけないときがありました。負けられないときがあったのです。手のひらのなかで冷たくすべすべした生き物がぴんぴんと飛び跳ねています。それをぼくは地面に叩きつける。生き物はゲフッという断末魔の声を出しました。殺したカエルの脚に凧糸をくくりつけ、ぼくは黙ったまま、辺りがうす暗くなるまでザリガニ釣りを続けるのでした。

by enzian | 2008-06-27 00:00 | ※山河追想 | Trackback | Comments(2)

鼻で笑う

下手なことをしたら鼻で笑われそうで怖い、と方々で指摘を受ける。ぼくに限ってそんなことせんもん、と反論を試みるが、「する!」と盛大な大合唱で反論を封じられる。そんなはずはないだろうと思いつつも、あまりにも異口同音にみんなに言われたものだから、人と話しているあいだ、自分がどういう対応をしているか、しばらく注意するようにしていた。

結論。笑っている。こんなに頻繁に笑っているのにこれまで気づかないでいたとは、自分の癖とは自分では気づけないものだなぁと痛感した次第。

だけど、言い訳しておきたい。ぼくが鼻で笑うというのは、攻めの強さにたじたじしているのをごまかしたり、なるほどわれながらあさましいなぁという気持ちをやはりごまかしたり、微笑ましいなぁと思ったときがほとんどで、相手を見下すという意図はあんまりないのだ。あっ、微笑ましいというのは上から視線で笑っているのか‥‥

by enzian | 2008-06-21 12:22 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

小さな粒子と大きな権力

「朝日新聞」、6月18日の夕刊、「素粒子」というコラムに以下のような文章が掲載された。

永世死刑執行人 鳩山法相。
「自信と責任」に胸を張り、
2カ月間隔でゴーサインを出して
新記録達成。またの名、死に神。

この文章のとなりには、「永世名人」として、羽生新名人の快挙を「将棋の神様」として賞賛してあり、死刑確定者の執行了承をしゅくしゅくと行っている法相の仕事ぶり(かつては自分の任期中には一切、刑執行の印を押さない法相もいた)を、それと対照的な「死に神」の仕事として揶揄(やゆ)している。

ぼくは簡単に死刑に賛成する者でもなければ反対する者でもないし、ここで揶揄されている鳩山氏を支持しなければならない縁者でもなんでもないが、一方的に特定の人物を「死に神」呼ばわりする記事を品性を欠いた文章だと思ったし、そうした文章を1面に載せ、おびただしい人の目に触れさせようとする報道機関の姿勢にも疑問をもった。

by enzian | 2008-06-19 22:08 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

警戒

エレベーターに女性と乗り合わせて、微妙な雰囲気から警戒されていることに気づく。こんなことはよくあることだから、いつものように、できるだけ驚かさないように、急に変な声を出さないように、急に変な身のこなしをしないように、息を殺して、身動きを止めるようにして、こちらも配慮している。配慮とかエチケットと言えば聞こえはよいが、こちらも犯罪者と思われてはかなわんということで、要は、どちらも警戒しているわけである。

ただ、四六時中、女性と二人でエレベーターに乗り合わせるわけではないのだから、こんなことはなんでもないが、基本的に人間を信用していない人であれば、その負担はいかばかりかと思う。人間だらけの世の中で警戒を解くひまなどないだろうからだ。

人間を信用しない、というほどではないが、ここ数年、小学生ぐらいの少女の警戒心が年々強くなっていることにしばしば気づかされる。もちろんそこには、ぼくの加齢に伴う “怪しいおっさん化” ということもあるのだろうけど。

ランドセルを背負った彼女たちの警戒心は驚くべきもので、電車に乗り込むまでに一度でもおっさん(ぼくのことですな)と目が合えば、十中八九、それまで乗ろうとしていた車両を変える。変え方も手が込んでいて、追跡をかわすためなのだろう、車両に乗り込む寸前まではなにごともない振りをして、乗る直前に、さっと両を変える。ぼくはおっさんをやめることはできない。少女がおっさんを警戒するのも無理からぬことだ。だから、ぼくはせめて、彼女らが気をつかわないですませられるようにと、早い目に、自分から乗り込む場所を変えてあげる。

by enzian | 2008-06-15 22:52 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)

定番

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駅の看板を見ると、なぜか落ち着く。

by enzian | 2008-06-12 23:15 | ※写真 | Trackback | Comments(0)

待っている文章

b0037269_14242138.jpg待てない。待てないのである。何事も鷹揚(おうよう)に構えておればよいものを、それができない。やるべきこと一覧表のチェックリストに “レ点” を打つのがこの上ない喜びだったりするぐらいだから、よほどのせっかちなのだ。

せっかちだと言うのは、じつは大切なことを隠しているのかもしれない、と思う。せっかちの理由はわかっている。器が小さいのだ。「そんな些細なこと、いいよ」とは言えずに、細かなことの因果関係を、おもちゃにじゃれる子犬のように飽きることなく追っかけ続けようとする物心ついたころからの性(さが)は、いまさらもう、どうしようもない。

待つことにたくさんのよいことがあるのは知っている。なかでも、待つことによって時間を与え、時間を与えることによって相手が考え、何かをする可能性となることが大切だと思う。この意味で、先に述べた器とは、自分の可能性ではなく、“相手の可能性を容れる器” の意味なのだ。ややこしい言い方をすれば、そうした器自体が自分の可能性になる。

以前、「書くということ」という文章で、「書くことによってぼくは自分の思いを明らかにし、書かれた文字は、ぼくがその思いと折り合いをつけるまでの時間を与えてくれる」と書いた。今日はちょっと思い上がった気持ちで、こうも希(ねが)ってみたい。自分だけでなく、たくさんの人をいつまでもいつまでも待っているような文章を書いてみたい、と。

by enzian | 2008-06-08 14:15 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

身分

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人が人の上に立つことを、より多くの責任を負うことで、それ以外ではない、と考えたい。

by enzian | 2008-06-08 13:42 | ※写真 | Trackback | Comments(0)

腸(ワタ)の味

朝から録りためたハイジを観ていたら、クララが「苦いお薬、キラ~イ」などと言っている。薬は苦いもので、子どもは薬をいやがるものだ――というのは、今でも当てはまる考え方なんだろうか、などと考えている。今の薬はけっこう甘くて飲みやすいものが多くなってきているし、家庭用の常備薬のようなものには、苦いものでも糖衣錠になっているものもある。

子どもは薬をいやがるものだという考え方も、ぼくにはあまりピンとこない。ぼくは注射器を見るとタスケテママタスケテとなる人なのだが、苦い薬には抵抗がない。小さなころから苦み走ったいい少年だったから(意味不明)、苦いものに抵抗がなかったのだ。ちょっと苦みがある食べ物が好きだった。

ぼくは昔から苦みのある食べ物が好きだけど、人の味覚は歳をとるにつれて変わるもので、苦みの美味(うま)さはあるていど歳をとらないとわからない、という話を聞いたことがある。鮎の苦みが美味しいと思えてやっと一人前だというようなことを言う地方があるようだが、「味覚が変わる」というのはどういうことなのだろうか。

それは、さまざまな経験を経てきて、いろんな意味での度量が大きくなって、苦みという苦しみにも耐えやすくなる、ということなのだろうか。それとも、同じ鮎の腸(ワタ)を食べても、感じられる味が子どもと大人とでは違う、というのだろうか。もし後者なら、驚くべきことだと思う。

by enzian | 2008-06-07 11:01 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(6)