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青空の旨味

b0037269_18205471.jpgしばらくぐずついた天候が続いたが、今朝は青空がのぞいている。朝から、かちゃかちゃと今日で切りをつけたい論文を打ちながら、抜けるような青空をちらちら眺めている。雲が流れて来て、やっぱり白い雲が少しぐらいはあった方がいいのかな~と思う。おっといかんいかん、かちゃかちゃ。

第6の味覚として「カルシウム味」が見つかったかもしれない、という情報が流れている。第5の旨味はあるとき日本人が発見したのだ。味覚にいろいろあるように、視覚にもいろいろあればおもしろい。青や赤を見分けることができるのと同様に、空の色にはたんなる青でも赤でもない “視覚的な旨味” がある、というならおもしろいではないか。

視覚的な旨味のなかに “青空の旨味” と “夕焼け空の旨味” をさらに分けようか。青空の旨味は人を前へ前へと、新しい世界に進むように背中を押し、夕焼け空の旨味はしばしその場にとどまらせ、進んだ行程をもう一度振り返るように促す味わいなのだ。

しかしこうも考えられる。背中を押されながらも一歩も前に進めないのであれば、それほどの切なさはないのではないか、と。「こよなく晴れた 青空を 悲しと思う せつなさよ」(「長崎の鐘」、作詞:サトウ・ハチロー)。おっといかんいかん、かちゃかちゃ。

by enzian | 2008-08-31 10:50 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

季節の終わり

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ゴミ箱の縁にアブラゼミが落ちていた。

by enzian | 2008-08-30 22:49 | ※写真 | Trackback | Comments(8)

「ぼくを待っているから。」

テレビをつけたら、かわいらしい子牛たちに少年がミルクをやっているところだった。家は酪農家なのだろう。取材者が少年に問う。「なぜミルクをやるのが好きなの?」少年にはむずかしすぎる問いだとぼくは思った。たとえ答えられたとしても、「牛が好きだから」がせいぜいのところだろう。答えられそうにない問い、答えられたとしても一定の答えしか期待できそうもない問いなど、問う方が愚かなのだ。そう思った。

だけど次の瞬間、ぼくは驚いてしまった。少年はこう答えたのだ。「ぼくを待っているから」。愚かなのは取材者ではなく、ぼくであった。

番組は進み、以前から少年が登ってみたいと思っていた山にチャレンジする段になった。天候が崩れてしまい、少年は途中で登頂を断念しなければならなくなった。エンディングの場面になり、悔し涙を流す少年に同行していた父親がやさしく話しかける。「おばあちゃんも待っているし、牛も待っているよ」。この父親にしてこの少年ありなのだな、と思った。

by enzian | 2008-08-26 21:58 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(27)

地蔵盆

京都は地蔵盆の季節。お地蔵さん(地蔵菩薩)をお祭りし、子どもたちのすこやかな成長を願う。郷里では、子どもたちは地区のお寺に集まって福引きをさせてもらったり、お茶やらお菓子をもらったりした。餅撒きならぬ飴撒きというのもあった。この時期、子どもたちは何事にも優遇され、小さな神さまのように扱われた。

近くに住むおばあさんたちが、辻々にあるお地蔵さんの世話をしていた。毎朝お供えをして、手を合わせて熱心になにごとかを願うそのねき(すぐそば)を、学校へ行く子どもたちが通りすぎてゆく。

by enzian | 2008-08-24 00:17 | ※その他 | Trackback | Comments(8)

摩耗

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蓋のすり減り具合がよいのです。

by enzian | 2008-08-19 21:55 | ※写真 | Trackback | Comments(4)

繰り返し

これはよくないよなぁと思っていた曲なのに、テレビで何度か流れるのを聴いてるうちに知らず知らずのうちに好きになっているのに気づく。あぁまた商業主義に落ちてしまったと嘆くが、好きになってしまうものはどうしようもない。

繰り返し聴くと好きになるのはどうしてだろうかと思う。たぶん、見慣れない、聞きなれないものには心のバルブを絞めて警戒しているのだが、慣れてきてようやくバルブを開けはじめるのだろう。逆に言えば、何度聴いても好ましいと思えないのは、よほど相性の悪い曲だということになる。慣れれば好きになる曲と、慣れても好きになれない曲、その二つを分けるものはなんなのだろうか。

でも、ようやく好ましいと感じるようになっても、繰り返しの度が過ぎるとキライになる場合もある。ある程度、新しいものも取り入れないと進歩しないからだろう。むずかしいものだ。

by enzian | 2008-08-18 21:45 | ※その他 | Trackback | Comments(14)

インテリジェント・デザイン・セオリー

ID(インテリジェント・デザイン)、つまり知的存在によって世界が作られたという説を進化論にかえて(併記して)教科書に記載すべきだという議論がアメリカの一部の州で高まっていると聞いて驚いた。すでに数年前にバチカンが進化論を一部受け入れ、全世界の創造説をあきらめて、生物は進化してきたが、進化する生物の魂をはじめに創ったのは神であるという、“魂(のみ)の創造説” にトーンダウンしていたからだ。

IDは(教科書の記述から特定の宗教思想を排除するため)、はっきり「神」と言わないところが “味噌” で、神が世界を創ったという創造説の代理として使われる。IDの支持者の論理はけっこう単純で、進化論には問題があるからIDしか残らない、ということだ。

ぼく自身は、進化論の問題を知らないわけではないが、かといって創造説をとるほどの “勇気” はない。進化論に飛躍(いわゆるミッシングリンク=進化の空白がある)があるから知的存在による創造を認めるというIDの考え方の道筋には進化論以上の飛躍があると考えるからだ。もちろん、答えはどこかにあるのだろう。IDか、進化論か、それ以外の考えか――答えはやっぱり、神の味噌汁、神のみぞ知る?

by enzian | 2008-08-18 21:27 | ※テレビ・新聞より | Trackback

マクワウリ

b0037269_18332021.jpg(1)いつだったか、モロコ釣りに凝っていたことがあります。モロコにはいくつかの種類があるのですが、通いつめていた木津川にいたのはコウライモロコと呼ばれる小さな魚でした。

薄い黄色がかった背中をした可憐な魚を釣るには、少々の工夫が必要でした。ふだんコイやフナ用に使っていた「伊勢尼」(いせあま)という粗野な大きな鉤(はり)は、小指ほどのモロコの小指の爪の半分にも満たない口にはかからないのです。

一軒だけ、町内に釣り具を置いている店がありました。といっても、それは釣り道具店なのではなく、もとはガス屋だったらしい荒物屋で、薄暗い店の奥まった一角にわずかばかりの釣り具が置きっぱなしになっている、という風でした。置きっぱなしになっているもののそばには、いつも「いらっしゃいませ」ともなんとも言わない親父が三本足の椅子に座っていて、お前は客なのかそれとも冷やかしなのか?とでも言いたげな灰色の目をして、まれにしかやって来ない客をギラリとにらみつけるのでした。

(2)
荒物屋にモロコ用の鉤はありませんでした。モロコには「モロコ針(鉤)」と呼ばれる専用の鉤が必要なのですが、親父の品揃えのなかにそんな気のきいたものがあろうはずもなかったのです。木津川を遡った数キロ離れた隣町にちょっとした釣具屋がある、という噂は聞いていました。ダンプカーがすぐそばをびゅんびゅん追い越して行く危ない国道を通り、自転車が着いた先にめざす釣具店がありました。数キロ離れたそこはまったくの異郷の地で、見たことはおろか想像したこともない釣り具が所狭しと並ぶ桃源郷でした。

モロコ針をもって得意満面の少年は木津川のすいば(秘密の場所)へと急ぎます。なにせ、はじめて使う “特殊アイテム” があるのですから。木津川は三重県を源とする淀川水系の一級河川で、住んでいた地域はその中流域にあり、流れはところどころに大きな河原をつくりながら蛇行していました。生い茂る濃い緑の夏草をかき分けて河原に降りると、見慣れぬおっさんがいました。おっさんは上下スーツ姿で、麦わら帽子をかぶって竿を振っています。たしか、河原に降りる手前には自転車もバイクもなかったはずです。どこから来たのか変だなと思いましたが、人の素性をせんさくするより、早く釣りたいのです。

いっこうに釣れません。麦わら帽子はポツポツとモロコを釣っています。鉤に問題はないはずです。なにが違うのかとおっさんの方を見ると、エサ箱にピンク色のうごめくものが入っています。「これはな、ベニサシや。これでないとモロコは釣れへんねや、ぼく」。それっきりおっさんはなにも言いませんでした。「ベニサシ」とはなんだろう?それに、このおっさんはどうしてこんなに生気のないしゃべり方をするのだろう?おっさんの声は抑揚のない、まるで機械が合成したような低い声で、それはおっさんの口から聞こえてくるというより、もっと下の方の地の底から響き上がってくるような音でした。少しそんなことを考えて、エサ箱をもう一度見ようとしたら、おっさんの姿はありませんでした。

(3)
釣れずに帰って調べれば、「ベニサシ」は「紅サシ」で、釣り餌用に飼育されたサシ虫(ハエの幼虫)を食紅(しょくべに)で赤く染めたものでした。おっさんがどうやって手に入れたのか知りませんが、そんなしゃれた餌は身近にはありません。その後もミミズを餌にして何日か通いましたが、さっぱりでした。祖母がやってきて言いました。「われ(お前)は、お盆やのに、よお毎日毎日ジャコ取り(魚釣り)にいくなぁ」。夏と言えば少年たちの遊びの筆頭は虫取りでしたが、盆には殺生(せっしょう)をしてはならぬという不文律がありました。お盆には、先祖が小さな生き物の姿をして戻ってくると信じられていたのです。

頭に来て、ある日、紅サシに代わる餌を自作することにしました。土間にサツマイモが転がっていたので、蒸してマッシュポテトにし、つなぎに小麦粉を入れて練り餌(ねりえ)にします。食紅を加えて米粒大に丸めれば、まぁ紅サシに似ていないこともありません。おっさんは紅サシでないと釣れないと言いましたが、モロコは雑食性ですからこの餌でも釣れる可能性はあるはずです。祖母はあきれながらも、「米ぬかを煎って入れたらええ」と、手伝ってくれました。香ばしく煎った米ぬかは集魚剤になるのです。祖母は、少年がいったん事をはじめれば、それがどのていどまで可能でどのていどまで不可能なのか身にしみて感じ取るまでやめないことを知っていたのでした。

(4)
虫餌ではなく練り餌にすることにはちょっとばかりの自負がありました。サツマイモの餌なら生き物を殺生することもないのだから、おっさんの紅サシよりも、この “紅サシもどきイモ” の方がすぐれた餌なのではないか――。少年はひとつ大切なことを忘れていました。自分が夢中になっていた、魚がかかったときに伝わってくるあのグリグリという触感、それは鉤にかかった魚の命をかけた抵抗でした。自分の行為が生き物の命を弄(もてあそ)ぶ道楽であることを忘れていたのでした。

新聞を読みました。新聞の地方欄のようなところに、木津川のすいば近くで起きた事件が報じられていました。陰鬱な事件でした。大人の世界にはまだ自分の知らないことがたくさんあって、それらは複雑に絡み合っており、ときに人が身動きできないようにしてしまうものなのかもしれない。麦わら帽子のおっさんの姿が浮かび上がって、消えました。

(5)
迷いましたが、行くことにしました。河岸段丘に作られた茶畑のなかの道を自転車で走ります。昨日の新聞を見た今日ですから、すいばが近づくにつれ、鳥肌が立ち、総毛立ちます。こんな恐ろしい思いをするのならやめておけばよいのですが、新しい餌の効力を確かめないわけにもいかないのです。「まっすぐ前だけ見て、よけいなものを見るな」、自分に言い聞かせながらひたすらペダルをこぎます。

河原に降りても目的の場所だけを見つめて歩きました。冷蔵庫で一晩保存した紅サシもどきイモをつけて第一投。発砲スチロールの自作ウキがぴょこぴょこと踊って、胸も踊ります。グリグリという感触が手に伝わって、あっけなく黄色い背中の可憐な魚が釣れました。第二投。また釣れました。その後も、餌を投げ込むたびにウキが踊ります。そうです。あれほど苦労したのがウソのように、この魚は餌さえ変えればあっけなく釣れてしまうのです。食いしん坊の小さな魚は、手のひらのなかでぴくぴくと体を震わせています。

(6)
夢中で釣っていたら、黄色い楕円形のものが浮き沈みしながら流れてきました。マクワウリでした。畑にあるはずのマクワウリがなぜ川にあるのかわかりませんでしたが、どこも傷んでおらず、食べられそうです。祖母の大好物なので、持ち帰ることにしました。川で拾ったと言えば嫌がるかもしれませんが、畑で採って来たことにすればよいのです。

しばらくしてまた流れてきました。なにやら気味が悪くなって辺りを見回すと、河原の至るところに黄色のマクワウリやら、白のマクワウリやら、緑のカボチャやら、黒いナスビやら、ピンク色のなにかやらが流れ着いています。半ば腐りかけているようなものもあります。一瞬、「賽の河原」(さいのかわら)という言葉が思い浮かびました。ピンク色のものは家の仏壇にもあったハスの花の造花でした。マクワウリやらハスの花はお盆のお供えもので、お盆が終わって、上流の地域から川に流されたもののようでした。

モロコとマクワウリを流れに戻しました。モロコは一目散に逃げ、マクワウリは岸に向かう流れに乗ってしばらく近くを漂っていましたが、いつのまにか本流に乗って下流へと流れて行きました。モロコに限らず、さまざまな魚を釣るために通いつめていた木津川でしたが、この日を境に次第に足は遠のき、やがてまったく行かなくなりました。(了)

by enzian | 2008-08-16 18:17 | ※山河追想 | Trackback | Comments(0)

街の灯

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大きな観覧車から撮ったものです。ぶれているだけなんですけどね。

by enzian | 2008-08-16 00:00 | ※写真 | Trackback | Comments(4)

投げるということ

ある人の文章を読んでいて、幼時に体験した肉親の葬儀の際に、ほかのことはまったく覚えていないのに、埋葬(土葬)の際に一握りの土を投げ入れたことだけを覚えている、という文章があって、はっとした。

またも、おすすめできぬ文章でして。

by enzian | 2008-08-15 22:33 | ※その他 | Trackback | Comments(13)