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赤とんぼ

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by enzian | 2008-09-21 14:09 | ※写真 | Trackback | Comments(2)

人の話を聞かない人

講演を聞く。授業能力向上の重要性などを説いている。それについて異論はない。質疑応答の時間。質問者に対する講演者のあまりのつっけんどんな対応に驚き、あきれる。講演者からすれば、質問者はわざわざ自分の話に耳をかたむけ、あまつさえ、衆人環視のなか、勇気を振り絞って手をあげて、意見を言ってくれた人なのだ。であれば、その質問に最後まで耳をかたむけようとするのが常識ではないか。

なのに、質問の途中でとぎってしまって、つっけんどな仕方で切り返そうとする。その切り返しが速ければ速いほど自分に主導権があると考えるタイプであることがわかる。質問の度にそういったことをくりかえす様子をみて、ぼくはほとほと胸が悪くなってしまった。

この人はふだんつまらない授業をしているのだろうと思わせた。実際、話す技術は拙かった。それはいろいろな面から言えたが、ぼくが一番イヤだったのが冒頭に書いたこと、聞いてもらったのにもかかわらず聞こうとする姿勢がない、ということなのだ。聞く者の意見の尊重――それはイエスと答えることではなくて、最後まで全力で聞(聴)こうとすることだ――こそが、下手な話を少しでもましなものにするための基本中の基本だとぼくは考えている。そういう意味で、皮肉っぽい言い方をすれば勉強になった。

by enzian | 2008-09-16 23:34 | ※その他 | Trackback | Comments(22)

船釣りはしない。

b0037269_22332040.jpgぼくには悪いくせがひとつあって、もうアホかアホにちがいないとわかっているのだが、どうにもなおすことができない。それは、「勝つに決まっている勝負はしない」ということなのだが、悲しいことに、ぼくのなかではそれはもう鉄則のようになっている。

ぼくはその昔、魚釣りが大好きだったのだが、船釣りは絶対しなかった。船に乗れば船頭が必ず釣れる場所に連れて行ってくれるわけだが、たくさんの魚を釣ってくる人たちを尻目にぼくはひとり、砂浜や防波堤で糸を垂れていた。もちろん、砂浜や防波堤にも定評のある釣り場があるのだが、決してそういうところに行こうとはしなかった。しかも、そこでそんな釣り方をする人はいないだろうというような、釣果を上げるにはきわめて不利な方法でいかに釣るのかに血道を上げていた。

当然のことながら、さんざん工夫したあげく、いつも一匹も釣れなかった。そうしてまた何時間もかけて来た道を引き返すのだったが、そのあまりのバカさかげんをしみじみ味わいながら、ひしひしと肌に染み込んでくる敗北感を受け取り抱きしめながら夜道をとぼとぼ歩いて帰るのが好きだった。そして、そういうことがいまもまちがいなく好きなままなのだ。

by enzian | 2008-09-16 22:32 | ※その他 | Trackback | Comments(20)

案山子

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by enzian | 2008-09-08 23:25 | ※写真 | Trackback | Comments(2)

極彩色の刺繍の付いたふかふか座布団

とある球技の試合をちらりと見たら、ほかの簡単なシートとは比較を絶した、場違いとも思える超リッチなシートが数席、観客席に設けられていて、そこには数人の王族らしき人たちが座っている。その国のその競技のパトロン(経済的な支援者)のような存在なのかもしれない。

それを見て、小学生のころに家が入信していた宗教の集会のことを思い出した。その集会では、信者たちを前にして、ずいぶんと偉い人らしい女性が講話をしていたのだが、その話がいつもつまらなくて、ぼくは辟易していた。そのつまらなさは、話の内容はあえて問わないとして、その女性の姿勢にかかわるものだった。

会場は畳敷きになっていて、そこにぎゅうぎゅう詰めで座る信者たちにはペラペラのせんべい座布団が配られた。講話をする女性は一段高いところで、ここまでの座布団が世の中に存在するのか!! と、思わず感嘆符を二つ付けたくなるほどの極彩色の刺繍の付いたふかふか座布団に座って、講話をはじめる。

1時間‥‥2時間‥‥。それは子どもにとっては永遠に続くとも思えた。やがて小さな子どもたちがむずがり出し、泣きはじめる。脚が痛いのだ、無理もない。泣き声が聞こえているのか聞こえていないのか、女性は半ばトランス状態になって薄目で上の方を見ながら、いつ終わるとも知れない話を気持ちよさそうに続けるのだった。

by enzian | 2008-09-07 11:15 | ※その他 | Trackback | Comments(18)

信頼と過信

例えば、とある俳優が使ってはいけない薬物を使用して逮捕されたとする。よくある話しだ。で、ぼくがいつもわからないのは、ファンのなかに必ず、そういった罪を決して認めようとしない人がいることだ。連行されようとする俳優を追いかけて、警官に罵声を浴びせかけたりしている。罪を犯していない人を連行するのは不当だ、ということなのだろう。

それが “熱狂” ということだ、と言われればぐうの音も出ないが、ぼくはそういう “熱狂人” の胸のうちが知りたいのだ。「信じたくない」を「事実ではない」に直結する力強さ、決定的な証拠を前にしてもそれが無いかのように思える “有を無であると言える力強さ”、 はいったいどこから出てくるのか、不思議でしかたない。それは、熱狂人のなかに、なにか別の信用することのできないものが厳然としてあることの反動なのだろうか。

こういうことを考えるたびに思い出す言葉がある。「信頼はするが過信はしない」。某刑務所の看守が、その気になればいつでも逃走できそうな農作業を受刑者にさせている際に、質問者に問われて答えた言葉だ。そうなのだと思う。誰でも人を信頼したいと望んでいる。はじめから誰も信頼していない、なんて人はいないのだ。

だから、俳優を信頼したいのもわかる。事実、演劇のなかで演じたり、歌ったりする能力という意味では、まちがいなく俳優は人並み外れて信頼に値する人なのだ。とても心根のやさしい人なのかもしれない。ただ、違う意味での演劇の舞台では人並みに演じることができなかった、というだけなのだ。誰かを全面的に肯定することはむずかしい。それを無理にしようとすると、熱狂者になるか、遅かれ早かれ人間嫌いにならざるをえないと思う。

by enzian | 2008-09-06 13:01 | ※その他 | Trackback | Comments(21)