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手強い

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by enzian | 2009-04-25 18:50 | ※写真 | Trackback | Comments(12)

「ぼく」と「あたし」

自分を表現する代名詞はいろいろがあるが、ブログでは「ぼく」を使っている。「私」でなく「ぼく」を使うのは、ここではなるべく親しみやすい表現を使いたいからだ。ブログを離れて学生と話すときでも「ぼく」を使うことが多いのだけど、これはぼくの先生が学生と同じ目の高さで話してくださったときによく使っておられたのを聞いて、いいなあと思ったことがあったからだ。「ぼくもよくわからんのだけどね‥‥」。そう言いつつ、先生はわかっていなかったわけではなかったのだけど、そういう謙虚な、自分も同じく学ぶ者であるといったニュアンスのこもった言い方にぼくは惹かれた。

「僕」ではなく「ぼく」を使うのは、できるだけ漢字を使いたくないからだ。個人的には漢字の「僕」は「しもべ」という意味が見え隠れして重い感じがするし、なるべくひらがなを使っていくという最近の文章の考え方にも合うと思っている。(ただし、つい最近のことについて言えば、漢字を使って文字数を少なくしようとするテレビの字幕が普及してきたことから、逆の傾向も出てきている。)(「僕」を使っている方、お気を悪くなさらないよう。)

授業で女性たちに、どうして「私」でなくて「あたし」を使うの?と尋ねてみた。前々から不思議だったからだ。てっきり、「私」という型どおりの手垢にまみれた言葉では表現し切れない(と当人が思っている)自分らしさを強調したい人、それを受け容れて欲しい人が使うのかと思ったら、「その方が発音しやすいから」と答えた人がいた。聞いてみるものだ。

by enzian | 2009-04-25 00:02 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(16)

「利他的衝動」

b0037269_23163057.jpgやっと墓参りに行けた。盆と彼岸には行きたいと思っているが、年々忙しくなってきてなかなか時間がとれない。彼岸のつもりが、いつも1カ月も2カ月も遅れる。1日で京都と滋賀の4箇所に参るのだが、体力的にもきつくなってきた。いずれ2日に分けて参らねばならないときが来るし、墓参り自体が不可能になるときも来るだろう。

1箇所はほかの誰も参る人のない墓だから、ぼくが参らなくなった時点で無縁墓になってしまう。それだけは避けたいが、永代供養やらそんな気のきいたもののない墓だし、ぼくには自分の後に長い供養を頼めるような人はいない。いやそんなことよりも、ぼくの戒名が刻まれた石ころが無縁墓となって雨風に晒されるままになることもそれほど先ではないだろう。それは仕方のないことだ。

幼いころ、祖母は毎月、祖父の命日が近づくと墓参りに行ったものだ。墓へ続く道には急な坂道があって、花やらお供えものやらをどっさり積んだ乳母車を祖母が押し切れなくなると、ぼくが代わって押した。その坂道は残っていて、いまでもそこを通る度に誇らしい気持ちになれる。祖母は頼みごとをしない人だった。人に頼むぐらいなら、自分でなんとかしようとする人だった。そして愛情に深い人だった。ある宗教家が「利他的衝動」という言葉を使っていて感心したことがあるが、思えば、祖母の行為は一種の衝動と言えるほどに強い動機から生じていた。この人のすさまじい愛情がなければ、ぼくがここに存在することもなかっただろう。見事な人だったが、ただひとつ解せなかったのは、極道の息子にさえその愛情を惜しみなく与えたことだった。それは結果としてぼくを苦しめ続けることになった。

人に頼みごとをしない祖母だったが、たったひとつ、くりかえしぼくに頼んだことがある。「(自分が死んだ後も)おじいさんの墓参りに行っちゃって(行ってあげてください)」ということだった。けっきょく、自分のことはなにひとつ頼んでいないのである。

by enzian | 2009-04-19 23:31 | ※山河追想 | Trackback | Comments(32)

たった一度しか

会ったことのない方でも、その方がお亡くなりになったと聞くことで、この世界から星がひとつ消えたような気持ちになるひとがおられることに気づいた。柔らかな笑顔を覚えている。それならいっそ出会わなかったらよかった、とは思うまい。記憶は残る。むしろ、星の数ほども多い人の群れをかきわけて、たった一度でも会えたことが幸せであったのだ。

We show our feeling for our friends' suffering, not with laments,
but with thoughtful concern. (Epicurus)

by enzian | 2009-04-13 23:28 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(2)

授業はじまる。

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春休みはあれほど閑散としていた学校、訪れるひともまばらだった個研がひとでいっぱいになる。紅しだれ桜が開きはじめて、薄桃色の春の宵。

by enzian | 2009-04-07 23:00 | ※写真 | Trackback | Comments(0)

土筆を撮るのはつくづく難しい。

食堂近くにあるツツジが植わっている花壇に数本の土筆が生えているのを見つけたのは、たしか先週の火曜日のこと。ぼくはこの土筆を撮りたくなった。行き交う学生たちを背景にして、春の土筆たちのようすを撮ろうとぼくは心に決めていた。だがしかし、これは困難なことでもあった。昼食時前後は学食付近はごったがえすから、写真撮影なんてしていると邪魔になるし、お昼時を外してもすぐ近くのベンチ辺りで女子学生なんかが座っているから、望遠レンズをもったおっさんが花の咲いてるわけでもない花壇に向けて写真を撮っているなどというのは明らかに奇妙な行為なのだ。そういう行為は、「私に関していかなる誤解をしてくださってもかまいません」と言っているようなものなのだ。

以前、公園でキノコを撮っていたときに警察に連行され、そこにあったキノコの貴重さを説明してもわかってもらえず辟易したことがある。だいたい、のうのうと育ってきた一般ピーポーたちに、数々の修羅場をくぐり抜けてきたわたくしの崇高な意図などわかるはずもない。そこで、いくつか一般向けの策を考えた。1.「私は教員です」という看板を置いて撮影する。2.「私は写真クルーです」という腕章を付けて撮影する。3.「大切なものを撮影しています」と書いた黄色いTシャツを着て撮影する。4.「来年度、写真部新設申請中」という幟(のぼり)を立てて、撮影する。――考えているだけでアホらしくなってきたのだった。

明日、もしまだ残っているようなら、夕方にでも撮りに行ってみよう。

by enzian | 2009-04-06 23:08 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

本場、博多の

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もつ鍋の具材たち‥‥ではありませんので、念のため。^^

by enzian | 2009-04-04 20:29 | ※写真 | Trackback | Comments(22)

「命の一滴 いただいて~岩手・漆の里の四季~」 (ハイビジョン特集)

コマーシャリズムやいっときの流行を追いかけ回す人やメディアからは自然と距離を置こうとしてしまう癖がある。言うまでもない、商才も流行をかぎ分けるセンスも当方に欠けているからにほかならない。嫉妬心ですね。こういう嫉妬心をかき立てるものがNHKにも最近目立つようになってきて、NHK大好きなぼくはいったいどうしたらよいものか困っていた。いっそ捨ててしまってきれいさっぱり忘れてしまおうか、などとも思っていたのである。

ところが、「命の一滴 いただいて~岩手・漆の里の四季~」 (ハイビジョン特集)を観てしまった。「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」(NHKスペシャル)は鳥肌の立つ秀作だったが、これも出色の出来だった。どちらも、命についてまじめに考えたいと思っているひとには格好の番組だと思えた。やはり、NHKとは観ざるをえないものの名なのだ。優秀なピーナッツのひとつふたつもあれば、それだけで柿の種一袋も食べられるのである。

「命の一滴」は、国産漆の大半を生産する山里で働く漆かき職人の1年を中心に編まれている。6月にはじまる漆かき作業の前に職人は服装やすべての道具を新しくし、神に祈り、神妙な面持ちで山に入る。漆かきは生きた漆の木肌に傷をつけることで樹液を採るが、職人はそれを「殺生」とも「生殺し」とも表現していた。殺生だという意識と、それでもやらねばならぬ生業(なりわい)であるという意識とのせめぎ合いがそうした面持ちを作るのだろう。穏やかに自宅で話す、幾星霜を経たかのような職人の顔もまた印象的であった。長野県にはキノコ狩りを「殺生」と表現する地方があると聞いたことがある。

by enzian | 2009-04-04 17:05 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(0)

夢中を探す

デジカメで写真を撮りはじめて何年かになる。最初はフィルムに代わるものなんてあるのかなぁと半信半疑だったけど、いまではすっかりデジカメなしの生活は考えられない。なんせちょっとその辺で写真を撮ってきて、プロジェクター使ってスライドショーをすれば一回分の授業になるんでっせ、そんな楽なことありまっ‥‥\(-_-)ピシッ

さて。数年前からはブロガーさんの影響でコンパクトなデジカメに加えて一眼レフを使うようになって、デジカメがぼくの生活を変えてきたように思っている。まず、時間を見つけては海へ山へとあちこちふらふら足を運ぶようになった。前からふらふらしていたが、ますますふらふらするようになったのだ。“街中遊び” も習得した。もともとぼくは街中にポツンと放置されるととたんにひ弱い小動物のようになって、なにをしたらよいのかわからなくなるタイプだったのだが、いまではすっかり街の至るところで夢中になれるものを探し出せるようになった。なんだかんだと撮っているわけですな。

デジカメは夢中になれる対象を探してくれるルーペのようなものだ。夢中になれるものはもちろん旅先の海や山にもあるわけだけど、このルーペは身近なところにも宝物がコロコロ転がっていることを教えてくれる。デスクの上にも、飲みかけのコップの上にも、窓から見える木々の葉っぱの先にも、それまでは気づかず見落としていた宝物が転がっている。もともと生きることにはそういう意味があるのかもしれないけど、カメラのおかげでますます生活が宝探しの色合いを帯びてきたというわけなのだ。そして、なににもまして写真を撮るようになってよかったと思うのは、空の青さに、光の美しさに少しだけ敏感になったこと。

by enzian | 2009-04-03 22:25 | ※その他 | Trackback | Comments(16)