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「処分」

TAと呼ばれる人たちと組んでする授業があります。TAというのは、1年生向けの授業(導入授業)のアシスタントを自ら志願した人たち(大半は院生)で、みんなしっかりしている。TAたちへの指示はぼくがすることになっているのだけど、ぼくはちゃらんぽらんだから、授業前のミーティングとかでは、まぁ毎回いいかげんな指示を出すわけです。それで、いざいくつかの小教室にわかれた授業がはじまってから、「しまった!ミーティングで言い忘れた!」と思ってあわてて各教室に駆けつけると、どの教室でも言い忘れたはずのことをしっかりTAが学生に説明していて、いつもなんの問題も起こらない。

指示と指示を受ける人の関係を、1.指示されたことさえできない、2.指示されたことだけできる、3.指示された以外のこともできるという、なにやら誤解を生じそうな険のあるパターンにわけるなら、ぼくがかかわるTAは3になるわけですね。TAというのは基本的に大学の “上澄み” のような人たちなのだろうけど、まことにりっぱなものです。

上の3をもう少し考えると、「先生(ぼく)は指示しなかったけど、忘れていたのだろうから、付け足しておこう」というのは、それほどむずかしいことではない。むしろむずかしいのは、「先生はこう指示したけど、これは(授業を受ける学生の立場からすれば)不適切だから、ちがうことをしよう」と判断することなのです。ある日、カードを使う授業があって、「不要なカードは処分してください」とぼくは指示したのだけど、あるTAが「『処分』という言葉がイヤだったら、横に置いておいてください」と言っていた。まいった、と思ったものです。

by enzian | 2009-06-27 20:02 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

観てしまう

b0037269_1757384.jpgドキュメンタリー「山で最期を迎えたい」(山口放送制作)をまた観てしまった。

以前は民放でひっそり流されているのを観たが、今回は「日本放送文化大賞」のテレビ部門のグランプリを受賞したとかで、NHKでゲスト付きで放送されていた。番組ではなぜこのひとなの?というタレントが感想を語っていて、ミスキャストだと思った。「あたしわぁ~○○と思いますぅ~」といった口調に合うドキュメンタリーではないのだ。以前、興福寺の阿修羅像を取り上げた「NHKスペシャル」で、「阿修羅さま~」を連発するモデル?を多用しているのを観て、あやうく長年の “仏像” への思いが興ざめしそうになった苦い思いがよみがえった(あぁまた毒舌を、バカバカ)。

自分もまたこの名作について話すのに適した人物ではない。むしろぼくが言いたいのは、上で「観てしまった」と表現したことにかかわる。観れば切なくなるとわかっていたのに、なぜ今回もまた観てしまったのか、ということなのだ(ちなみに、この作品は切なさをテーマにしているわけではない)。そうなのである。あの最後のシーンは観ないでおいた方がいいとわかっていたのに、「観てしまった」のである。

ときどき考える。(たいていは、最悪の結果を生みはしないだろう、という前提のもとではあるにしても)無性にひとつの感情を力強く押し進めたい、昂進させたいと望んでしまうのはなぜだろう、と。「楽しい」ばかりが感情であればいいが、「怖い」や「悲しい」や「淋しい」や「切ない」もまた感情なのだ。つねひごろ、感情の “純粋さ” とか “力強さ” という視点とはなるべく距離を置こうと思っているが、再放送があればまた「観てしまう」だろう。

by enzian | 2009-06-21 18:03 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(21)

相談と談合

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増量しました。

by enzian | 2009-06-20 22:03 | ※写真 | Trackback | Comments(16)

人間方位磁石

関西人の正しい金曜日の夜の過ごし方は、激しかった一週間をしみじみ振り返りつつ、11時15分からは「探偵!ナイトスクープ」を観て笑ったり泣いたりする、というものなのだが、昨日の “人間方位磁石” の女性の話は抜群におもしろかった。その女性は日頃、自宅の寝室で頭を南東に向けて寝ているそうなのだが、寝ている姿勢をとれば、それが寝室のなかでなくても(室外でも)南東がわかる、というのだった。

本当なの?というわけで、番組は、まず室内で実験をする。布団を敷き、寝そべって、「(頭の向きが南東とは)反対!」と反転する女性。「なにが反対と思わせたの?」という問いに、「雰囲気」と女性は答えた。続いて女性は目隠しをして山中へ連れていかれ、磁石なしのオリエンテーリングをする。布団とマイ枕をもった女性は、岐路にさしかかるごとに布団を敷いて寝そべりながら、見事に南東を見極めて、複雑な山道を歩いていく。鈍感なぼくには女性の言った「雰囲気」の意味はわからなかったが、南東向きの道を歩きながら「南東に来とる気がする。カーテンの方に向かっとる気がする」と言ったのは興味深かった。やはり女性はポータブルな “そのなかでは頭が必ず南東を向いている寝室という空間” を、いわば方位磁石として持ち歩くことで方向を定めている(“定位” している)のだ。

誰しも現実の自分の寝室という空間をもっていて、そうした寝室のイメージを持ち歩くことができるだろうが、どちらも、いま目の前にある景色の位置関係とは結びつかない。“寝室” は移動不可能(寝室という空間をそのまま山中に持ち運ぶことはできない)であり、“寝室のイメージ” はあくまでイメージで、いま目の前にある景色とは無関係だからだ。女性は、第三の空間的な感覚(絶対方角感覚?)をもっているのだろうか。

by enzian | 2009-06-20 12:13 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(11)

蛍の光

ホタルを見に行った。1年に1回は見ないと夏がはじまらないのだ。年々人が増えているが、風流粋に感ずといったタイプの人ばかりで、いっしょに見ていてもいやな感じはしない。足下になにやら気持ちのよいものがからみついた。「ごめんなさい」と飼い主の女性。ミニチュアダックスフントだった。写真を撮っていたら、石鹸の香りがする。パジャマ姿の男の子と女の子が隣の家から風呂上がりに出てきたのであった。5分ほどで石鹸の香りは帰って行った。いつだって見られるのだ、彼らが今日にこだわる必要はない。

数十匹のホタルが明滅しながら舞っている。京都の街中とは思えない。近くの大学から大学生数人と年配の男性1人のグループがやってきた。品のよい学生ばかりだ。年配の男性がしきりに感動している。「昨年は3匹しか見られなかったんだよ。今日でよかった、ほんとうによかった。来年はもう見られないからね」。なぜだろう?と思って男性の顔を見れば、60才過ぎぐらいの白髪の方だった。今年で定年を迎えられるのだろう。

ひとまわりして先ほどの場所に戻ってみると、白髪の男性がいて、まだつぶやいていた。「これは見事だよ」。もう学生たちはいない。ぼくも帰路についた。

by enzian | 2009-06-12 23:40 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

他人を見る目のない人

いつものように自分のことを棚に上げていうなら、根本的に他人(ひと)を知らない人、他人を見る目がない人がいるのではないか。そんな気持ちが年々強くなってきている。この気持ちが強くなってきたのには、何年か前に、人としての道を外している、と思える講演をあるところで聴く機会があって、誰しも自分の思いを共有してくれるだろうと思っていたら、それを絶賛する一群の人たちがいることを知って絶句した経験が大きい。そのとき、ぼくは自分がこれまで受けてきた教育はなんだったのかと思ったし、おおげさに聞こえるかもしれないが、自分はこの星の住人であってはならないのか、と思ったほどなのだ。

さらに根拠のないことをいえば、他人を見る目のない人は他人に興味のない人なのではないか。人が好きではない人だといってもよい。好きであれば辛抱強く待つこともできるだろうが、そういう人たちは待つことができないものだから、とことん見ようとせず、そこそこで(面倒くさくなって)わかったつもりになって、知りもしないのに切ってしまうか、逆に、はたから見れば気味の悪くなるような不相応の神格化を施すか、のどちらかなのだ。したがって、そういう人たちの特徴は、80%の人間には不条理だと思えるほど高圧的でぞんざいで冷淡だが、20%の人間(→神)には “馬鹿” がつくほど慇懃(いんぎん)で絶えず賞賛をくり返すといったアンバランスさになる。さっきまで畳に額をすりつけて挨拶していたかと思えば、次の瞬間にはふんぞり返って命令している。そうした低頭さと高圧さの “高低差” をエネルギー源として、自らに心酔しながら日々の生活を送っている。

人を嫌いになるという結果にいたる経過にはたぶんいろいろあって、また、その複雑さがぼくを惹きつけて止まないのだけど、少なくとも結果として見れば、人間嫌いの人(そこにはきっと自分も含まれている)というのは、おうおうにして、人間を知らない人、人間を知ろうとする労をとろうとしない人なのだろうと、いまのところは思っている。

by enzian | 2009-06-08 11:50 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(22)

名前を着る!

b0037269_0123738.jpg久しぶりに共感覚の記事です。Cさんの色と文字の関係は左のとおりです(デコメール画像をパソコンモニターに映して撮ったので、汚い写真になった、あぁ‥‥)。Cさんの場合、以前、記事で取り上げたAさんのように見たことのない文字にもすべて色がついているということはなく、色がついているのは数字、アルファベット、ひらがな、一部の漢字、空間的な位置などに限定されているようです。(なお、10以上の数字は、それぞれの桁の数字の色の組み合わせになる。)

今回の記事で取り上げたいのは、色のアンバランスのことです。文字を色で見る人のなかには、例えば、英語の単語を覚えたりするときに、スペルはちがっていても色が同じ単語は区別して覚えられない、というようなことがあるようですが、Cさんの場合にも、色にまつわるアンバランスというか違和感があるといいます。まず数式で考えてみましょう。

3+5=8 これには問題がありません。水色(っぽい青)と黄色を混ぜれば緑になるからです。しかし 1+2=3 は問題です。白と赤を混ぜても水色にはならないからです。3+4+9=16 にも違和感があります。水色と赤とグレーを混ぜても白(=1)は出てこないからです。この意味で、1が白であることは問題です。11も12も13‥‥も、111も112‥‥も、みな一桁目に白を含むわけですが、一方で、大きな数であればあるほどその数字になるにはたくさんの1から9までの数字を合算せねばならず、他方で、一般に多数の色を混ぜれば混ぜるほど白ではなく黒に近くなるからです。「1が黒であったら自分の人生は変わっていた」、とCさんはいっておった。逆にいえば、多くの人にとって違和感を感じる 1+2=7 や 1+4=7 は、Cさんにとっては安定した関係を示すものであるといえます。

次に名前と色の関係を考えてみましょう。一部の漢字には色があるので、名前に色がある人がいます。Cさんの名前に入っている色はCさんの嫌いな色で、それも違和感になるといいます。ちなみにぼくの名前は漢字4文字なのですが、すべて色がついているそうです。先日、話していたら、「今日は先生は名前を着ている」といわれました。名前の4色から成るシャツを着ていたからです。ちなみに、ぼくの名前は「きのこ」と似ているそうです。

by enzian | 2009-06-07 00:21 | ※共感覚 | Trackback | Comments(36)

小さな講演者

著名な学者の講演をきく。詳しいことはいえないが、ひとすじなわではいかぬ人間の複雑さを考えさせる内容で、楽しい時間になった。会場に入って座ろうとしたらいっぱい院生がいて、あせった。さすがにここには居ないだろうと思っている場所に知った顔を見るのはおもしろくもあり、心臓に悪いことでもある。ちょっと大げさだな。「せんせい、カレーを食べに行きましょうよ」などという庶民的な誘いなど、にべもなく断る。ワタシハイソガシイノダ。

さて、講演が終わり、質問になる。どこの学会でも講演会でも同じことなのだが、質問者の質問が長くて困ってしまう。下手したら1つの質問に10分ちかく費やしている。もっと簡潔にできないのだろうか。これじゃ質問じゃなくて、まるで “小さな講演” である。「あなたは講演者じゃないでしょ?」と心のなかで\(-_-)ピシッ を入れる。こういう “小さな講演者” は、「講演者に尋ねたい」というよりも、「自分が聞いてもらいたい」という欲求をもっていて、ながながしゃべるのだ。「わたしはこんなに物を知っているのですよ」とアピールしているわけですね。ほんとに、どの方もこの方もよくお話しになる。

長い “自己アピール” のどこが返答すべきポイントなのか絞りきれず講演者は困っている。返答を求めぬ者に効果的な返答方法を探し出そうとすることほど不毛なことはない。長い質問のおかげで、ほかの人の質問時間はなくなってしまった。ぼくは「あさましい」という言葉を他人には使わないようにしているけれど、ときには使ってよい気がする。

by enzian | 2009-06-05 23:54 | ※その他 | Comments(0)

白い犬

バス停に立っていると、初老の男性に連れられた白い犬が前を横切っていく。鼻先が地面についてしまうのではないかとハラハラするほど犬の首はうなだれていて、いつ倒れるとも知れないような足どりでよたよた歩いている。男性は犬の前をゆっくりと一定のスピードで歩いていて、振り返って犬を見ることはない。いつもの朝の風景なのだが、はっとした。この街(山里)に住みはじめたころ、若い女性がワンワンと騒がしい白い犬に引きずられるように散歩しているのを毎日のように見たが、あの犬がこの犬なのであった。

犬の足取りは見る度におぼつかなくなっていく。ぼくはこれまで動物もまた老いるということを知らなかったかもしれないと気づいた。かつてたった一度だけ飼った犬は、うまくしつけることができなくて鳴き止まない犬となってしまい、知らないうちにどこかに引き取られていった。何度も飼った歴代の猫たちは、自由気ままに生きてぼくを楽しませてくれたが、どれもこれも、いつの間にかいなくなっていた。ぼくは最後まで責任をとったことがない。

by enzian | 2009-06-05 23:01 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(0)

簾(すだれ)

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by enzian | 2009-06-05 22:44 | ※写真 | Trackback | Comments(10)