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どんぐり

今は少なくなったのかもしれませんが、年齢差のある子どもたちがいっしょに遊ぶ場合、年少の子どもにハンデをつけたりしますよね。たとえば、鬼ごっこをする場合、1年生は捕まっても鬼にしない、とか。そういうのないですか。ぼくの郷里ではハンデをつけられた子どもたちのことを「お茶漬け」と呼んでました。どうして茶漬けなんて言い方になったのでしょうね。ささっと食べられるものだからメインにはならない、という意味でしょうか。

あるとき、ぼくの学生たちに、あなたちの郷里ではどう呼んでいた?と聞いたことがあります。おどろいたのはそういうハンデという考え方なんかなかった、という人が多かったこと。ハンデなしにどうやって下級生たちと遊んだのでしょうか。あからさまにハンデというかたちはとらないで、暗黙のうちにそれなりに手加減していたのかもしれません。

とてもいいと思ったのは、「どんぐり」と呼んでいたという学生がいたこと。どんぐりってとってもいいと思いません?なにがよいのかはわかりませんけどね。なにやら心がささくれてきたので、こういうことを書いたってわけです。

by enzian | 2009-08-31 21:54 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

葉っぱが一枚

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頭のてっぺんに枯葉(くるまっている)を一枚くっつけたおばあさんが歩いていた。

by enzian | 2009-08-28 00:11 | ※写真 | Trackback | Comments(0)

やさしいということ

b0037269_11285127.jpgやさしいとはどういうことなのだろうか。やさしいと言われることもないし、人生においてやさしい人をめざしているわけでもないが、いつも耳にするわりには意味がわからなくていまいましいので、ちょっと考えてみる。

「やさしい」というのは漢字では「優しい」と書くので、「人が憂う」ことだと――きっと語源的には間違えているだろうけど、これは論文(タスケテ)ではないので――勝手に考え散らかすことにする。

人が憂うということだから、やさしいということには、人(自分)が人(他人)を憂うという場合と、人(自分)が人(自分)を憂う場合が含まれている。では、憂うというのはどういうことか。それは相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)のではないかと心配することだろう。心配とは心を特定の方向に振り向けることだ。この振り向けは「思いやり」とも表現される。さて、このように人が好ましくない状態に陥っているのではないかと心を振り向けることでやさしさの第一条件がクリアされるなら、逆に、やさしさを成り立たせない第一条件は、人に対して心を振り向けないこと、つまり心を動かすことのない無関心となる。

次に「相手や自分が好ましくない状態に陥る(陥っている)」というのはどういうことだろうか。このような状態は、一般に「苦しんでいる」「傷ついている」「痛んでいる」といった言葉で表現される。したがって、心を振り向けるとは、人の苦しみや傷や痛みに対して心を追随させようとすることであると言える。このような追随は「共感」と言われるが、当然のことながら、共感するということは一つの心を共有することではない。他人の心は言うまでもなく、自分の心でさえ共感しようとすれば、“共感しようとしている心” と “共感されようとしている心” という二つの心に分断されてしまうのだ。

共有しなければならないという強い(すぎる?)思いは、やがて、どうしようもない “分断” の前に絶望する。絶望は呻(うめ)きとなるが、憂いが絶望に至ることを知った心は、自分の呻きがまた別のやさしい心を絶望させることを拒否する。こうして、人に知られないよう呻くこと、これがやさしさの意味となる。――というのはやさしさの無茶な定義だが、ここでは “人知れぬやさしさ” を考えてみたかった。

“人知れぬやさしさ” と “人知れるやさしさ” を分かつのは、共有への思いをそこそこで見切れるかどうかだろう。前者のやさしさについて、世の中の役に立たないとか、形として見えない(前者と無関心は外見上では区別がつかない)から意味がないとか、甘っちょろいとか言う手合いは多かろうが、自分は案外こういうのが好きだったりする。

by enzian | 2009-08-23 23:49 | ※好きな人・嫌いな人 | Trackback | Comments(0)

走馬燈

b0037269_18211432.jpg線路沿いに建つ家の屋根は舞い上がり落ちた鉄粉が錆びて赤茶色になっていることが多い。小さなころは、こういう赤茶色の屋根を見るのがいやだった。電車からの景色を眺めるのは好きだったが、そういう屋根からは目を背けていた。

どこであれ有刺鉄線が張りめぐらされたような様子はいまでも好きになれない。忘れ去られた土地の一角に冷蔵庫やテレビといった粗大ゴミが棄てられている光景も嫌いだ。複雑な配管が剥き出しになった工場群のことなど考えたくもない。「工場萌え」反対。高速道路や新幹線がひっきりなしに通る高架の下も好きではない。こういった風景は、それを目にすることで自分からなにものかを略奪していくように思える。

母方の墓参りに行く道の途中に、ちょうど、このような風景の集合地帯のようなところがある。この道を行かねば墓には着けないのでしぶしぶ通るが、何度通ってもあまり気持ちのよいものではない。だがややこしいことに、こんなマイナス要素たっぷりの場所であっても、なにかしら、そこを通ることで心を浮き立たせるものがあるのだ。静めるというべきかもしれないが。人はこの世界に別れを告げる際にさまざまな光景が走馬燈のように走り行くのを見るというが、そのときには、この道を歩く自分の姿を見ることだろう。

by enzian | 2009-08-22 18:35 | ※山河追想 | Trackback | Comments(12)

取り憑かれたように草むしりをする人

最寄りのバス停の標識は、地区の周回道路を挟んで東西、二箇所に立っている。二箇所に止まるバスはそれぞれ系統がちがうが、どちらもたいして変わらない所要時間で最寄りの駅に着くので、その日の気分で使いわけることにしている。東側のバス停のそばにはソメイヨシノがある。ソメイヨシノは季節折々の美しい顔を見せてくれるが、根もとの草むらにはヤブ蚊が多い。西側のバス停は日当たりがよく、夏は日射しが強すぎるぐらいだ。裏手の土地にはイガをたくさんつけた大きなクリの木が植わっている。

東側のバス停では、ソメイヨシノの根元の雑草と格闘している体格のよい女性とよく会う。ソメイヨシノの根元には手入れされることなくだらしなく伸びた芝生が生えている。芝生というのは意外にしっかり根を張る植物で、それなりの量まとめてひっこ抜くには大変な力が必要なのだ。その人は、ぼくがバス停に着くころにはいつもベンチに荷物を置いていて、しゃがみ込んで両手で芝生を抜こうとしている。その力の入り具合には尋常ならざるものがあり、腕と脚を地面と並行に伸ばして力いっぱい雑草を引っ張る頬(ほお)はぷるぷると小刻みに揺れ、紅潮している。ぼくは女性をひそかに「綱引き選手権」と呼んでいる。そうこうするうちにバスが来るが、女性はいっこうに乗る気配がない。ヤブ蚊に刺されないだろうかなどと窓の外を案じつつ、ぼくは駅に向かう。

東側だけだと思っていたら、先日、西側のバス停でも会った。女性は地べたに荷物を置いたまま、焼きつけるような日射しがじりじり照りつけるなか、四つんばいになって、舗道の敷石のあいだから伸びた小さな雑草を慎重に抜いていた。力一辺倒ではない女性の姿であった。それは、高層ビルから地面に降りた一瞬、地面に手足をつけたスパイダーマンの姿のようでもあった。バスが来ても、取り憑かれたように草をむしり続けている。日に焼けないだろうかなどと心配しつつ、エアコンのきいたバスでぼくは涼やかに駅に向かった。

by enzian | 2009-08-20 20:20 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(38)

驚くことからはじまるもの

(この記事は、2007年8月17日記事の追記です。)

第二回実験

今回も楽しかったです。
(砂の標本を撮るの、忘れた。^^;)
さっそく、顕微鏡を注文しました。^^
すごい砂の標本、作るもん。

ありがとうございました。

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by enzian | 2009-08-17 21:54 | ※その他 | Trackback | Comments(12)

森の学校

自分の仕事ってなんなんだろうなってときどき思います。「これがそうだ!」と、ひとに示せるはっきりしたものがないのですが、なんにもしないわけにはいきませんから、闇雲になにかをし散らかすことになります。もちろん、闇夜の鉄砲が当たるはずもなく、あぁこんなことなら撃たなければよかった、いっそのことなにもせずにおとなしく布団で寝ておくべきだった、と思うことがほとんどというのが実際のところです。

しかし思い出してみると、数年前のある日あるとき、自分の仕事はこういうことなのかな、とそれなりに確信したことがあります。「ひとりの人間が過去と未来とのあいだにみずからを位置づける際の手伝いをする」ということなのですが、よくよく考えてみれば、誰しもなんらかのかたちでこの定義にあてはまることをしているのでしょう。

これで記事を終わろうとしましたが、このままで終わると、0時ぐらいには確実に消してしまうので、それを避けるために、少し付け足しておきます。「手伝いをする」というとずいぶん立派なことのようなのですが、その作業自体、自分(enzian)という人間を過去と未来とのあいだに位置づける作業でもあるのです。複数の側面をもつひとつの相互作用があるということです。お互いさま、ごちそうさまの森のキノコなのですね(深い意味はない)。

by enzian | 2009-08-14 22:34 | ※キャンパスで | Comments(0)

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水田が近くにある方なら、そばまで行ってご覧ください。風にそよぐ緑がとても美しい。

虫にご注意!

by enzian | 2009-08-04 21:24 | ※写真 | Trackback | Comments(6)

「自分は、ほめられて伸びるタイプなんです。」

ここ何年か、そういうセリフを学生から聞くことが多くなってきた。そういう学生はどの先生にもそういうことを言っているのか、それとも、年を追うごとに教室でのぼくの態度が厳格になってきたことへのバロメーターなのか、よお知らん。ともあれ、夕べ飲んでたときには「水曜日の2限目の先生は般若(の面)のようです」と告発された。痛快な夜であった。

ほめるべき点に気づかないわけではない。ぼくは一人ひとりの学生をレーダーで追尾してデータを収集している。極めて陰湿なのである。気づいていればほめればいいのだけど、ぼくは不良教師なのでほめない。あからさまにほめてくださいと近寄ってきて、はいそうですかとほめるような、ひねりのないことは恥ずかしくてできない。ほめてください、とはあからさまに言わないにしても、いろいろなカモフラージュ(嘘)を交えつつほめてくださいとアピールしてくるタイプがいるが、やはりほめない。気づかぬふりのタヌキおやじになる。その程度のカモフラージュでぼくの目をごまかせると考える了見の浅さが気にいらないのだ。だからよけいにほめてやらない。結果、そういう学生たちには徹底的に嫌われる。

とはいえ、ほめないわけでもない。ほめるべき点があり、かつ本人が気づいていない場合には、黙っているわけにもいかないので、ほめるようにしている。気づいていても本人が認めきれずに迷っていると思えるような場合にも、老爺心ながらほめるようにしている。爺のレーダーはそのために平和利用されているのである。けっきょく自分をほめてしまった。

by enzian | 2009-08-01 20:27 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(30)