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enzian、ひそかに京都の里山を歩く、の巻

キノコブログを公称している(いつ公称したのだ)のに秋になってもキノコを載せないようではキノコブロガーの名がすたるというわけで、久しぶりに「リュック背負って」カテゴリーを使うのです。爬虫類がお嫌いな方はクリックなさらないよう。

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by enzian | 2009-10-26 22:05 | ※リュック背負って | Trackback | Comments(23)

機微

機微に通じているひとと話すのは楽しい。機微に通じたいと願うひとと話すのは楽しい。大きな表面積をともなわない小さなしるし。大音量をともなわない微かな声。せわしない動きのない静謐さ。あからさまには顕されない隠された悲しみ。そのようなものに近づこうとする強い、しかし節度ある意志をもったひとと会うのは楽しい。

by enzian | 2009-10-25 23:27 | Comments(0)

むなしいということ

むなしいというのはどういうことだろうか。世界というおぼろげなもののなかに、自分こそがふさわしいという場所をわずかでさえもっているとは思えない、という意識だろうか。いや、こう言うべきかもしれない。むなしさとは世界がおぼろげにしか見えないということであると。世界とはどういう意味なのだろうか。それはすべての物の総体といった意味ではないだろう。それはわたしたちが勝手知った、さりとて自分ではない一群の人たちを意味しているのだろう。こうして、むなしいとは、他者のなかに他の人では代わることのできない、自分だけの位置をもっているとは思えない、という意識であることになる。

少し違った言葉を使って考えなおしてみよう。きっとここからは難解。全体のなかに自分しかもてない位置を占めていると思えることは「意味がある」と表現される。全体のなかに自分の一定の位置をもつというのは自分が全体の部分であるということだから、全体に部分としての定位置をもつことが「意味がある」という表現の意味だと言える。全体の部分という表現には違和感もあろうが、全体のなかに自分しかもてない位置を占めている部分は代替不可能であり、“消費品” ではない。全体でさえその部分に依存しているのであるから、たんなる“歯車” でもない。それでも、自分は全体の部分にも歯車にもなりたくない、そんな理屈っぽいことを言うからやる気がなくなるのだ、といったありがちな反論もあるだろうが、そういう人もやはり「そのような部分も歯車もない世界」に部分として属したいと願っているのだ。ともかく、全体は世界と言ってもいいから、「むなしい」とは、世界に意味を感じることができないという心の状態を表現する形容詞であることにもなるだろう。

さて、全体のなかに部分をもつことは「役割をもつ」とも表現される。(つづく?)

by enzian | 2009-10-25 22:44 | ※その他 | Trackback | Comments(2)

子どもの仏

録り貯めた録画のなかに円空仏の放送があった。かつてその地を訪れた円空は仏を彫って宿代にしたという。傷だらけの円空仏が伝わる家の主によれば、その家の円空仏が傷だらけなのは、それが昔から持ち出し自由で、子どもたちの遊び相手になってきたからなのだ。川で遊ぶ際、子どもたちは木の仏を浮き輪代わりにしたらしい。両手で掴まるのにちょうどよい大きさで、山の木から切り出したような荒々しいつくりの仏であれば、子どもたちがそれを川遊びの道具とすることにもためらいはなかっただろう。円空仏は文字通り身をもって子どもの命を守ってきたわけである。

円空が彫ったとされる仏をめぐっては、持ち出して遊ぶ子どもたちを叱った大人が逆に夢枕に立った仏に叱られたといったような逸話は多いが、大切なのはこういった逸話が真実かどうかではなく、そのような物語を数多く作らせるものが円空仏には宿っているということなのだ。高い台座から見下ろすような金箔貼りの絢爛(けんらん)たる仏像は、大人のための仏にはなっても、子どもの仏にはならないだろう。

by enzian | 2009-10-12 20:34 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(2)

シジミチョウ

カボスを買ってきた。柑橘類が好きなのだ。買ってきたカボスの袋にシジミチョウが一匹紛れ込んでいた。動いてくれればよいのだが、そのように願うときにはたいていそうであるように、もう動かない。死んでいるのだ。買ったときには袋のなかで生きていて、運んでいる途中に死なせてしまったのか、はじめから死んでいたのか、わからない。さほど感傷的なタイプではないが、手にとって爪先ほどの大きさの羽に美しい模様を散りばめているさまをじっと見ていたら、小さなチョウがやけに憐れに思えてしかたなくなった。ごめん、君を紀州に帰すことはできない。ティッシュペーパーに包んで、土に埋めた。

by enzian | 2009-10-06 22:17 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

これがアカガエルだっ!

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力強い表現に特段の意味はありません。童、大きい写真が欲しかったらあげるよ。

by enzian | 2009-10-06 22:00 | ※写真 | Trackback | Comments(0)

ヘッドライト

b0037269_20174980.jpg紀州路を歩いた。なにも忙しい秋に行くこともあるまいにと思うが、ときどき生活の地から少し離れて、それなりに傾斜した土の道を足裏で感じないことには、胸の奥の方がざわざわして、落ち着いて仕事もできない。根源的な田舎者の性が頭をもたげてしまうのだ。

最低限のことは計算して出発するが、どうやらそういうことを望んでいるようでもあって、いつものように乗り継ぎミスを犯した。今回のはちょっと痛いミスで、重ね塗りされた白いペンキがところどころはがれた壁に貼られたスカスカの時刻表をにらみながら、無人の駅舎で相当の時間を過ごさねばならない。付近に店などない。自動販売機の光だけが降りしきる雨粒を照らし出している。蜘蛛の巣に絡まった蛾がぷらぷら揺れている。体が冷えてきた。

ぼんやり線路を見ていたら、こんな駅に電車が来るのか不安になってきた。同じ気持ちを以前に感じたことを思い出した。いつのことか、わからない。母とどこかの神社の前にあるバス停に立っていた。辺りは真っ暗で、強い雨風に吹かれた竹藪がざあざあと恐ろしい音を立てていた。母はしゃべらなかった。バスは来ない。無限とも思える時間が過ぎ、濡れた体は冷えてゆく。

バス停の記憶は遠くにバスのヘッドライトが見えた場面で終わっている。そこでほっとして緊張が解けたのだろう。かすかな音がして、無人駅にも電車の光が近づいてきた。人間が近づいてきたのだと思った。とてもひとりでは生きられないと思った。

by enzian | 2009-10-06 20:31 | ※山河追想 | Trackback | Comments(0)