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ふたり

足が “しあわせ” と歌っていた。(写真をクリックすると拡大します。)

by enzian | 2009-12-30 15:34 | ※写真 | Trackback | Comments(14)

救われる

b0037269_9453382.jpg前を歩く少し腰の曲がったコート姿は老人らしい。据え置きの消毒液の前で止まり、液を手につけ、またトコトコ歩き出す。

見かけない方だ、どこの方なのだろうと思ったが、わずかに横顔が見えて、わかった。3年前に立ち話しした際にはもう少し背はまっすぐ伸びておられたはずだが。横顔の雰囲気からも、ずいぶんお歳を召されたように見える。後ろからお見かけしただけだから、それはたんなる思い違いなのかもしれない。

ゆっくり歩く老人を追い越さないように歩く。ここで働きはじめて、どれほどの学生がこの老人のお世話になったことか。先日もまた、この方は一人の命を救ったのだった。腰が曲がってもなおここに足を運び、もくもくと縁もゆかりもないひとの力になろうとする。このひとを動かすものはなんなのか――小さな老人の背中を見つめながら考えていた。自然に頭が下がってしまって、困った。救われているのは、学生よりもぼくの方なのかもしれない。

by enzian | 2009-12-29 22:39 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)

美しい言葉

数頁読む。鉛筆で線を引く。めくる頁、めくる頁にこちらの思考を刺激してくるものが埋め込まれていて、しばらく考えてしまう。先を読みたい心を無理に封じて、じっと目を閉じる。思考は際限なく広がって、なにか大切なものの鉱脈の在りかをぼんやり示す。鉱脈を忘れるのが怖くなって、先に進めなくなる。すでに忘れてしまったものはないかと数頁戻って、また線を引いたところを読み返す。こんな本に出会ったのは久しぶりかもしれない。

生まれてこの方、見たこともない表現が使われている。文学を知らない自分が言うのもおこがましいが、こんな美しい日本語があるのかと思わせる文章が列をなしている。たまらず、その一つ一つに二重線を引く。この文章全体に漂う “気品” はなんなのだろう。藤本としの本を読んだときにも気品を感じたが、この著者には、かつての跳ね馬が長い経験のなかで御(ぎょ)されたような、上質な力強さが一体になった気品を感じるのだ。

特別の本だけを入れる小さな本棚にその本を置いた。

by enzian | 2009-12-29 00:05 | ※好きな本 | Trackback | Comments(23)

人が小さく見える瞬間

b0037269_21421693.jpg不意に人が小さく見える瞬間というのがあると思う。それはどういう瞬間なのだろうか。それまではもっと大きいと思っていたものが、不意にこんなにも小さかったのかと思える瞬間。それはいつ訪れるのだろうか。

自分にも経験がある。全身で怒り、にらみつけるその人のさまを見て、この小さな身体から迸(ほとばし)る情念はどこから出てくるのかと思い、記憶の彼方にあるときからぼくを抱き、背負い、手をとって連れて歩いてきてくれたこの人、この人はこんなにも小さかったのかと思ったのだ。そして次の日、その人とは別れたのであった。

by enzian | 2009-12-25 21:45 | ※山河追想 | Trackback | Comments(0)

『壜の中の鳥』(寺山修司、宇野亜喜良)

b0037269_22533869.jpg久しぶりに絵本を紹介します。今回は、大人に向けて作られた大人の絵本です。物語は寺山修司、絵は宇野亜喜良。どちらも、いわずと知れた才人。前半は書名の物語、後半は寺山修司によるアフォリズム(箴言)集になっており、宇野亜喜良の絵が彩りを添えています。後半は寺山らしく(?)、男と女の関係への傾きが強すぎて酔ってしまうので、ぼくが推すのは前半です。

少年と少女の恋の話。恋する者同士ゆえのすれちがい、といったストーリーです。オヘンリーの短編にも似たようなストーリーがあったような、なかったような。宇野の描くアンニュイ(物憂げ)な、この世ならぬ方向を見つめる表情のキャラクターたちが人の心の多様さ、とりとめのなさ、不条理さを印象づけておりますな。切ないストーリーもよいのですが、ぼくがうなったのは次の詩です。

消えるという名のおばあさん
消えるという名の汽車に乗り
消えるという名の町へ帰る
さよならさよなら
手をふったら
あっという名の
月が出た
どうしてうなったのか‥‥は説明不能。詩の才のない者には自分がよいと思う詩のよさを説明することなどできないのです。宇野によるおばあさんの絵と合わせてご覧ください。そして、真にうなったのは次。

ママが鳥になってしまったの、鳥とあそんでいたら、そこへ、べつの鳥が飛んで来て同じようなのが二羽になってしまったの。どっちがママなのかわからないので、困っていたら、そこへズドン!と鉄砲の音がして一羽に命中してしまったの。でも、死んだのがママなのか、びっくりして飛び去って行ったのがママなのか、見わけがつかないので、ぼくは泣いたほうがいいのかどうか、迷っているところなのです

泣いほうがいいのかどうかわからないこと――これほどの悲しみはないと思う。

by enzian | 2009-12-20 00:00 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(20)

もっとたんたんと話せないものか?

どうしてそんなドラマティックに話そうとするのかと感じる場合がある。よく面接をする機会があるが、若いのに、異様なほどに強弱のアクセントをつけながら話すひとがいる。なかにはアクセントのうえに身振り手振り、顔振りを交えながら話すひとさえいる。どうも面接慣れしているひとらしいのだが、どうして面接慣れしてくると異様に抑揚がついたり体のアクションがついてくるのだろうか。それは総じて面接やら社会のさまざまな場面というのがそういうのを求めるからなのだろう。簡単なことだ。求められるからそうするのである。

自分を前面に押し出し、次から次へと長所を全身でアピールをしてくる “面接エリート” たちを見ながら、いかにも冷酷にこう考えている。もっとたんたんと話せないものか?研究ができるかどうかなど書類を見ればすぐわかる。ぼくがいま見ているのは、あなたが自分の拙さをどれほど知っているのかということだけなのだ。

by enzian | 2009-12-17 14:27 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

リンゴ

戻ってきたら、ドアのところにリンゴの入った袋がかけてあった。袋を部屋に持ち込むと、部屋中に爽やかな香りが漂った。リンゴにこれほどの香りがあるとはちょっと驚きであった。寝室に置けばよく眠れるという話を聞いたような気がするが、本当なのかもしれない。リンゴはあこがれだった。「リンゴ」と聞いただけでほんの少し幸せな気分になれた。関西に育ったぼくはリンゴが実った木を見たことがなかった。このような美しい形のものが房なりに実ったさまをいつか見たいものだと思っていた。

本物のリンゴが実っているさまを見るのが待ちきれなくて、姫リンゴの苗木を買って欲しいとねだった。2年目の秋になって、待ちに待った姫リンゴが実った。ぼくは赤くて小さなリンゴをかじった。それはさして甘いものでもなかったが、たしかにリンゴの味がした。

by enzian | 2009-12-12 22:37 | ※キャンパスで | Comments(0)

「プランクトン」

b0037269_1740485.jpg新聞を読んでいたら、『科学』と『学習』が廃刊されると書いてある。それを見た瞬間、自分でも驚くほど淋しい気持ちになった。

小学校の一時期、学研から刊行されていた二冊を定期購読していた。裕福な家ではなかったから、ずいぶん無理をしてくれたのだと思う。後にはお金がかかるということで講読を諦めることになるのだが、それを告げたときの母の淋しそうな顔はいまも覚えている。特に『科学』はお気に入りで、毎月送られてくる付録の実験セットには胸ときめいた。

ある月の付録はプランクトンの飼育セットで、プランクトンを育てるのが楽しくてしかたなかった。親になった気分でかいがいしく餌をやっていたのだけど、何匹かは死なせてしまった。そんなことを作文に書いたら、思いがけなく新聞に載ることになってしまった。ぼくは自分の文章が人目に触れるのがイヤで、クラスの仲間にも、家族にも黙っていた。ある朝、学校に来ると友人たちが騒いでいた。「○○の顔、別人みたいに写ってたで」。自分のことを言っているらしい言葉をただぼんやりと聞いていた。家族はなにも言わなかった。家で講読していたのは別の新聞だったから、ばれずに済んだと胸をなでおろした。

郷里を出ようとして、母の遺品を整理していたときに、タンスから大きな額が出てきた。額なんかには縁(えん)のない家だったからなにごとかと思えば、茶色く変色した新聞の切り抜きが入っている。そこには誰かわからない少年の顔写真と、見覚えのある題の文章が載っていた。そのときはじめてぼくは自分の記事を見たのだった。知っていたのか‥‥でも、ほとんど文字の読めなかった母は読めたのだろうか‥‥。あのときよりもさらに茶色くなった切り抜きは同じ額に入ったまま、この部屋に置いてある。

by enzian | 2009-12-12 17:49 | ※山河追想 | Trackback | Comments(15)

第一級の恐怖体験

b0037269_20514380.jpg12月といえば大学は論文の季節。卒業論文やら修士論文(厳密には大学院生だけど)を書いている学生たちが遅くまで研究室に残っている。

教職員も休みを返上して、学生生活集大成のドラマをバックアップしようとする。学生からの熱と教職員からの熱とが混じり合って、12月が深まるにつれて、大学全体は一種独特の雰囲気に包まれてくる。ぼくはそんな雰囲気が好きなのだ。

教員もふらふらだけど、学生たちはもっと大変だろう。論文は自分の姿を映し出す怪物なのだ。外国語が読めないもどかしさ、まともな日本語さえ書けない恥ずかしさ、考える力のなさ、怠惰‥‥おのが拙さをトータルで認めよと迫る論文に学生たちはたじろぎ、弱い自分に、弱さを認められない自分に気づく。真正面から自分を見つめること――これほど恐ろしいことがこの世にあろうか。学生生活集大成のドラマ、というより第一級の“恐怖体験”だが、これを乗り越えてもらえたらと思う。それは徒労ではないのだから。

by enzian | 2009-12-05 20:58 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(8)