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ミーニャ

b0037269_10202455.gif何度か猫を飼っていました。ミーという聡明なメス猫についてはいつぞや書きました。真っ白だったミーのあとは黒と白のオス猫を飼いました。家族はまたも「ミー」と呼んでいたのですが、ミーといっしょにされるのがイヤで秘かに「ミーニャ」と呼んでました。「ニャ」には「バカ」の意味を込めていたのです。いつも洗練された身のこなしで、自分で引き戸を開けて、お手もできたミーとはちがって、“才能” らしきものはこいつのどこにも見当たらないようでした。

ヒマさえあればメス猫を追いかけまわします。メスの取り合いをして負けて傷を負ってくるものだから、年柄年中、赤チンを塗ってやらねばならないのです。赤と白と黒の三毛猫でした。瀕死の重傷を負ってきたこともあります。メスをめぐって命を賭(と)すなど、つくづく畜生のやることはわからん、と思ったものです。看病しましたが、治った頃合いをみて、平手で顔をバンバン叩いてやりました。伸びたヒゲはいつもきれいにハサミで切り、眉はマジックで書いてやっていました。ほかにも 各種 “虐待” を加えたのですが、良い子が見ているこのブログでは、そんなこと口が裂けても言うもんですか。

メス猫とのデートを楽しんだあとは、早朝にぼくの布団に潜り込んできます。すっと潜り込めばよいものを、どういうわけか足先からぼくの体をじわじわ一歩ずつ踏んで胸元まで上がってきて、顔の横から布団に入ってくるのです。ミーニャなりに、その一歩一歩でなにかを表現していたのでしょう。メス猫を追っかけてしばしば行方不明になり、その度に戻ってきたのですが、最後はいつのまにかいなくなりました。その意味ではミーと同じでした。ぼくは多くのことを人から学びましたが、猫からもなにがしかを学んだように思います。

by enzian | 2010-02-28 14:53 | ※山河追想 | Trackback | Comments(34)

虹が見える時

横目で美しい虹を見た。そのときぼくは会議中で、いつものようにたどたどしい議事進行役に懸命だった。京都のちょうどその辺りはよく虹が出る場所として知られていて、考えてみれば、正面に比叡山が見えて、舟形を見下ろすこの会議室からも虹が見えてもおかしくない。最初に窓を見たとき、ガラスに油膜が張っているのかと思った。油膜を通して外からの光が反射していると思ったのだ。そのときはまだ色は分かれていなかった。

会議が進むにつれて、あれよあれよという間にいくつもの色が整然と分かれてゆき、それは紛れもない虹であることが横目でもわかるようになった。会議室は比較的高いところにあるから、下から見上げるのではなくちょうど虹と肩を並べるような感じの位置になっている。虹の “幅” を実感したのだ。それはけっこうぽってりとした厚みのあるもので、色と色の分かれ目がはっきりと見えた。彩られた空気を抱きかかえて持ち帰って自宅に置ければなんとよいだろうと、次に話すべきことを反芻しながら、ぼんやりと考えていた。

今年度最後の会議は、ここ数年間の取り組みを反映するものを見る機会だった。ぼくは会議の最後を虹に触れることで終えようと思った。今後も続く会議の一区切りと未来とを、じょうだんをまじえながらも、ほんの少しは本気で、虹でつなげようと考えたのだ。だが、そのような “締め” を思いついて、進行役の肩の荷が下りていくにつれて、みるみる虹は薄れてゆき、会議が終わるころにはあとかたもなく消えていた。

by enzian | 2010-02-28 11:57 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

『だいじょうぶ だいじょうぶ』(いとうひろし)

b0037269_17432848.jpg記事を改めて同じ著者の本を紹介するのははじめてです。もう一冊は紹介するのに数年かかりましたが、この本もずいぶんかかりました。共感しつつも、自分には紹介できないと思っていたのです。

なかなか紹介に踏み切れなかったのは、この書名に抵抗を感じたからだと思います。普段でも「大丈夫」を言うことを迫られる場合がありますが、心のなかで冷や汗をたらしながら「ダ・イ・ジョウ・ブ」なんて言葉をカクカクプルプルしながら言うのがやっとで、それをひらがなで二度も繰り返すなんて、至難のわざだと思えるからです。

「大丈夫」を言うには知識と、未来を予見する力が必要でしょうが、予見する力なんか誰にもないから、どうしてもカクカクプルプルしてしまうのです。でも、そんな力がないとわかっていても、米俵三俵を担いでなんぎしているひとがいれば、「もしもしそこの方、その米俵を一俵担がせてくれまいか」などと、まんが日本昔ばなし風に思わず口走ってしまって、担いだとたん、意外な重さに腰を抜かしてしまう‥‥なんてこともひとの情なのでしょう。

「大丈夫」を言うのは、知らない未来を知っているふりをするという意味では、「あえて愚か者になること」です。そしてそのことは、本当に担げるかどうかわからない負担を共有しようとするという意味でもそうなのです。 「大丈夫」と言うことは、 “向こう見ず” を引き受けることなのだと思います。そんな向こう見ずの姿を見ることも、子どもにとっては、いや子どもに限らず私たちにとっては大切なことなのでしょう。「大切なことっていうのはね、たいてい、じわじわとしか効いてこないもんなんだよ。(ホントか)」(by enzian)。

by enzian | 2010-02-27 19:14 | ※好きな絵本(コミック) | Trackback | Comments(10)

薫陶

おかしいと思いはじめたのは3日ほど前からだった。夜の1時少し前、寝床で本を読んでいると、きまってお香のような、使い古した仏具のような香りが部屋に漂いはじめる。肩から腕にかけてが重いような気もしていた。心霊現象にしておこうかと思ったが、因縁さがしなどめんどうなのでやめておいて、さっさと寝入ることにしていた。

今日、部屋をごそごそしていたら、あっと思った。あの香りがするのだ。香りのもとらしいものを見れば、ぼくがこの一週間ほど、就寝前の10分間にお布団から両手だけを出して読み、一日の疲れを癒している仏教関係の本だった。その本は古書として買ったもので、前の持ち主がお寺の関係のひとだったのか、一般の方が仏間に置いていたのかは知らないが、そういう香りが染みこんでいた。

古書や借りた本には、前の持ち主にかかわる香りがついている場合がある。これまでいろんな香りの本に出会った。印象に残っているのは豆腐の匂いのする本。これは、前の持ち主が豆腐屋さんであったとしか思えないような本だった。いちばん好きだったのは大学院のときの恩師から借りた本。いつもパイプをくゆらせながら本を読んでいた先生の本はえもいわれぬかぐわしい香りを漂わせ、さながら上質の燻製のようだった。本には、最初から最後のページまで、びっしり線が引いてあった。

by enzian | 2010-02-18 22:16 | ※その他 | Trackback | Comments(19)

ずっと会いたかった誰か

b0037269_230432.jpg三木清は「孤独は山にない、街にある」と言ったが、孤独は山にも海にもない。田舎者のぼくには、「街」という言葉自体がどこか孤独の影を引きずっているように思えてならない。街の孤独に疲れてひとは旅に出るのだ。

旅には誰かに出会えるのではないかという一抹の期待がついてまわるが、旅行にはそれがない。いやその必要がない。すでに傍らにいるひとと連れだって彼の地に行くこと、それが旅行だからだ。海辺には、ずっと会いたかった誰かがいるにちがいない。

by enzian | 2010-02-17 23:09 | ※海を見に行く | Comments(0)

バレンタインデーの贈り物

b0037269_23253335.jpgなにかよくわからない重しがずっと頭の上に乗っかっていて、それがぼくを滅入らせていた。もうすぐバレンタインなのか‥‥。検索をかけて古書店を回ることにした。何度探しても見つからない本を探すのだ。あれ以来、一度としてその書名さえ見ることのない本。風の噂では、著者はその本を良しとせず、出版してすぐにすべて回収したという。

その本は母からプレゼントされたのだった。いや厳密にいえば、ぼくはそれを母からは受け取っていない。それは母からの最初のバレンタインデーのプレゼントだったが、そのときぼくと母は不仲で、ついぞ母はそれをわたすことができなかった。ぼくは親思いの良い息子ではなかった。苦労するためだけに生まれてきたような母の生涯の最後の部分を墨汁で黒く塗りつぶしたのが、ほかならぬぼくなのだ。本はチョコレートといっしょに台所の棚の上に置かれたままだった。次の年のバレンタインデーの少し前、母はあっけなく逝った。法事が終わった夜、赤い包みを開いて1年前のチョコレートを食べ、ぼくは本を読んだ。その後、法事の混乱に紛れて本は紛失してしまった。

あるはずがないと思っていた本が見つかった。沖縄の古書店が所蔵していた一冊だった。古びているので、壊さないよう慎重に読み進める。この内容だった。何十年の時を隔てて、記憶は残っていた。本論と後書きの間のスペースになにか書いてある。人目を避けて書かれたものなのだろう。かすれかけた文字はこう書いてある。「ぼくが悪かった。2月14日」。その瞬間、天から雷が落ちてきて、体を貫いた。それは自分の字だった。

by enzian | 2010-02-14 00:01 | ※山河追想 | Trackback | Comments(27)

シロクマの赤ちゃん詰め合わせ animal

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シロクマ(ホッキョクグマ)の赤ちゃんです。メス。人工飼育されています。白浜のアドベンチャーワールドにおりました。ここにはパンダがたくさんいます(双子もいる)が、さすがのパンダもシロクマの赤ちゃんの驚異的なかわいらしさの前ではかすんでしまうのです。

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by enzian | 2010-02-11 15:58 | ※写真 | Trackback | Comments(8)

架線萌え

b0037269_10342459.jpg架線が好きです。正確にいうと、電柱も、電柱にくっついたような街灯も、高圧線も、高圧線の鉄塔も好きです。ひっくるめて架線一般が好きなのです。

工場萌えにはなれませんが、“架線萌え” ではあります。電車の線路の架線は大好物ですが、立春ということで致し方なくカミングアウトするなら、険しい山をわたっている高圧線と鉄塔の組み合わせなんか、よだれが出るほど好きなのです。じゅる。

秋に紀州路を訪れたのですが、電車ではなくバスで行きました。奈良交通には紀伊半島を縦断する「八木新宮線」という日本最長の路線バスの路線(大和八木→新宮、168㎞、バス停は166!)があるのですが、6時間半もかかるバスの旅を選んだいちばんの理由も、山々をわたる鉄塔やら架線をゆっくり見たかったからなのでした。紀伊半島の山深いところにも人の住むところは点々としてあって、山肌にしがみつくように集落が点在しています。そうした集落と集落、点と点とを架線がつないでいるのです。

山の木々からすれば鉄塔なんぞ立てられて迷惑な話でしょうが、ひとが入れそうにない山深い急峻にどうやってそのようなものが立てられたのだろうか、と考えていました。いまは資材をヘリで運ぶといいますが、ヘリだけで鉄塔が立てられるものではないでしょう。そのようなものを立てたひとたちのことを考えて、そのひとたちが照らしたものを思いながら、車窓から見えるさまにほれぼれしていたのでした。熱く萌えておりました。

新しくできた住宅街などでは電柱がないこと、電線が地中に埋め込まれていることが “売り” になっていたりします。これからは、少なくとも都市部ではどんどん架線は見えなくなっていくのでしょうね。理解できないことではないのですが、架線萌えには少々残念です。

by enzian | 2010-02-04 22:54 | ※その他 | Trackback | Comments(6)