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そぞろ歩く

b0037269_2216487.jpg日の長いこのごろは、まだ少し辺りが明るいうちに一段落ついたときには、思い切って仕事を終えることにしている。

正門を出て、京都を南北を貫く大きな通りを南に行く。車通りを避けて、やがて東西に延びる小さな通りをきまって東に向かう。静かな路地を歩きながら、一日を振り返る。あの言葉は適切だったのか、もっと別の言い方はなかったのだろうか。それより、数年来の課題は今日も果たすことができなかった‥‥。

本当のことを言うと学校ではなにも片づかない状態なのだが、路地では不思議と絶望的な気分にはならない。学校を終えた子どもたちが自転車で行き来する。いまも壜(びん)牛乳を配達する店があり、惣菜を並べる店がある。小さな祠(ほこら)がいたるところにあって、服を着せられたお地蔵さんに供えられた花はいつも凜としている。家の軒先に椅子を出しておばあさんが座っている。

やがて路地の視界が開けて、賀茂川に着く。河川敷を下流へ向かう。学生のころよりも美しくなった川面に浮かぶ水鳥たちを見ている。いっしょに賀茂川をそぞろ歩いた懐かしい人たちの顔が思い浮かぶ。魚が泳いでいる。大きな鯉や、金魚までいる。夜店で掬われ、そして川に捨てられたのだろうか。左手に大の字を彫り込んだ山が見えはじめると、そろそろ賀茂川も終わり。ここから先は鴨川なのだ。ぼくは駅に向かう。

by enzian | 2010-05-25 22:34 | ※街を歩く | Trackback | Comments(2)

発見の喜び

b0037269_2252334.jpg全体を見て「ここは誤りである」と指摘した場合、この言葉はどういうことを意味しているのだろうか。

まず、「ここは誤りである」という表現は、「ここ以外の部分に誤りはない」「これ以外の部分は正しい」ということを前提しているのではないだろうか。だとすれば、「ここは誤りである」という表現は、「ここを修正さえすれば、それは全体として正しくなる」「ここを修正さえすれば、それはさらによくなるだろう」ということを志向しているのではないだろうか。

だがぼくたちは、というか少なくともぼくは、自分よりも年若い者と接するとき、とりわけ学問にかかわるときには、そうしたニュアンスをすっかり省いてしまって、「誤り」の部分にのみ目を向けてしまいがちなのだ。そしてやっかいなことに、“学問的な厳密さ” を口実にしてそういったアンバランスさを大目に見てもらおうと甘える。

「誤り」にこだわる理由は簡単だ。全体のなかにわずかに見え隠れする誤りを探し出すことは、“発見の喜び” の相を呈するからだ。曖昧に隠れているもの、不明確なままであったもののなかから明確なものを見つけることが学問の喜びだとすれば、こうした “誤りの発見” は学問の喜びと境を接しかねない。学生と対峙するとき、ぼくたちは上のような削ぎ落としてしまいがちなニュアンスを掬い上げ、表現するようつとめることも大切だと思う。

by enzian | 2010-05-22 21:25 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

膝上と膝下

パリは初めてだったのですが、“膝上の街” だなぁというのが印象です。膝から上には美しいものがあると思うのですが、膝下は極力見るのを避けた方がよいと感じました。膝下が見たくないものだから、電線がなくて日本よりも広く見える空を見上げながら歩いていたら、“犬の落とし物” をさっくりと踏んでしまいました。思い返せば、そういうのを踏んだのは小学校の登下校時以来でしたが、その半生のさっくり具合が感動的で、靴には悪いのですが、この忘れかけた触感の再現が、今回のパリでの最高の収穫でした。

けっして膝上を地面につけようなどとは思わない街ですが、教会のなかではひざまずいて祈りをささげている人たちがいました。木造建築では考えられないような天上の高さ、いろとりどりのステンドグラスが方々に反射する日の光‥‥荘厳さを作り出す装置としてはやはり見事なものだなどと皮肉っぽいことを考えはしたのですが、クリスチャンでない自分にも、ひざまづいて祈ってみたいという思いがわずかによぎったものです。

by enzian | 2010-05-16 22:08 | ※街を歩く | Trackback | Comments(0)

お花畑と無精ヒゲ

出張から戻ってきての火水木金はいつもにもましてグダグダだった。教室での授業ぐらいはなんとかごまかそうとがんばったつもりなのだが、うまくごまかせたかどうかはわからない。判断するのは学生たちなのだ。集中力がいるはずの個研での面談では、なんどか瞬間的に眠ってしまった。コンマ1秒ほどの夢を見たりもした。ひょっとすると生涯をかけたくらいの相談をしているときに相手が夢を見ているなどとは、それこそ学生も夢にさえ思わないだろうが、現実、不良教師は眠っていたのだった。コンマ1秒のお花畑を見ていたのだ。

火水木とごまかしにごまかしを重ね、なんとか大過なく金曜日も終えることができたと安堵した。夜、自宅に帰って鏡を見て、その朝、ヒゲを剃り忘れていたことに気づいた。きっとどうでもよいことだったろうが、いつもにも増して見苦しいものを見せてしまい申し訳なかったと、関係者一同にお詫びしておきたい。

by enzian | 2010-05-15 18:48 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(0)

上滑り

遠い昔、親類から「困ったときにはいつでも電話してくるように」と言われて、複雑な気分になったことがある。理由はいろいろあった。困ったときもへったくれもなくて、毎日毎夜困っていた。できるはずのない相談だった。そんなこと、あなたは百も承知で毎日知らぬ顔をしているのに、なぜそんなうすら寒いことが言えるのかと、自分を含めて人間がイヤになった。それ以来、「困ったときには連絡してくるように」とはなるべく言わぬようにしているが、ほかに言える言葉もなくて、苦し紛れに言ってしまうこともある。もちろん、そんな、すでに話し手のなかで上滑りしているような言葉がいくばくかの “効力” をもつことなどない。

by enzian | 2010-05-12 23:33 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)