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宇宙的関西弁

このネタはもうなんかいか書いたのだけど、また書いてしまう。NHKがアナウンサーたちに厳密な標準的イントネーションの正確さを求めるという話は聞いたことがあるが、一方、NHKが放送するドラマで使われる関西弁の不正確さは目を覆うばかりで、ときに観ていてつらくなることがある。そんなわけで、ドラマはもともとほとんど観ないが、とりわけ関西人設定の登場人物が出るNHKドラマは観ない。関西人設定の登場人物を関西人が演じておればよいではないか?というひとがいるかもしれないが、よくない。そういう関西人もまた、なぜかドラマのなかでは変な言葉を話すからだ。おそらくNHKには方言指導者がいて、ある意図をもって “特種な関西弁” を指導しているのだろう。

もちろん、これぞ関西弁という関西弁というのはないわけだが、広範囲に曖昧に広がる関西弁領域のなかから、聞いた言葉がどの辺りにあるかを瞬時に感じ取り、関西弁であるか否かを判断できるのがネイティヴ関西人なのである。ところがNHKドラマの関西弁はしばしば、イントネーション、ときには語彙をも含めて、ネイティヴの関西人でも使用例を聞いたことのないような独創的な関西弁なのだ。そうした宇宙的関西弁は「どうやら関西弁らしい」ということが文脈によってようやく判定可能となる “文脈依存言語” である。ぼくは長く、実在しないものを流すことになんの意味があるのかと感じていたが、最近は、きっとNHKは独自のユートピア(「どこにもない場所」の意味)文化を創ろうとしているのだろうと思っている。言語文化の創作的脚本としてはおもしろいのかもしれない。

*文脈(コンテクスト)
‥‥この場合、NHKドラマの、関西人設定の登場人物であるということ、など。

by enzian | 2010-07-29 21:27 | ※テレビ・新聞より

納涼

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こういう時期はこれに限りますなぁ。勝手に貼った、許せ学生よ。

by enzian | 2010-07-25 23:08 | ※写真 | Comments(0)

鬼畜

方々で言われる。毎日言われる。老若男女を問わず言われる。「怖い」と。そらそうだろうと思う。自分が授業をすっぽかしていても時間にはうるさいし、手を抜こうとする学生には零下20度ぐらいの心で接する‥‥等々。残念だが、こうした怖さについてはなんとかできそうもないし、心底なんとかしようとも思っていない。

とはいえ、「怖い」と思われてよいことなどない。恐怖による支配は建設的なものをなにも生まないし、いったん「怖い」と背を向けた心を元に戻すことは至難だろう。そこで、参考までになにが怖いのか聞くようにした。「厳格だから」を予想したのだが、「目が怖い」ということだった。そういえば、私語を注意したぼくの目を「鬼畜の目」と評した学生がいると聞いたことを思い出した。この目は母からもらったもの。なにを言われてもさしてこたえないが、そのときばかりは、しみじみ母に申し訳ない気持ちになった。

by enzian | 2010-07-24 13:49 | ※キャンパスで | Comments(0)

ミミズの謎

自宅から最寄りのバス停までの道には、ときどきミミズが大量にはい出してきていて、ひからびたり、小さな蟻たちから攻撃を受けてのたうち回ったりしている。こういう風にミミズがはい出してくるのは雨が降って溺れることのないようになのだと聞いたこともあるが、不思議と、昨日のように雨などまったく降りそうないような日にも出てきている。奈良に地震があったものだから地震と関係するのかもしかして?なんてことも考えたりしたが、なんとも言えない。いまのところ、ミミズがはい出てくる日の法則性はわからないでいる。

こういうことはどこかのミミズ愛好家が理由を調べたりしているだろうから、ネットで調べれば瞬時に答えらしきことはわかるのだろうが、検索をかけようとは思わない。そんなことをしてしまったら、通勤時の楽しみのひとつがなくなってしまう。それに、調べなくても、あと10年も考えていたら、自分なりの答えも出るだろう。ヒマ人のぼくにとっては、そういうのをあれこれ考える方がきっと、楽しい。

by enzian | 2010-07-24 08:27 | ※通勤途中 | Comments(0)

「頭がいい」

それほど多くはありませんが、「頭がいい」という表現を他人に使うときがあります。どんな場合に使うかを想像しながら、自分がこの言葉をどういう意味で使っているのかを考えることにしましょう。たとえば、暗算がよくできるひとや、外国語の単語の物覚えがよいひとがいたりしたら、「彼は頭がいいね」なんて言ったりするかもしれません。また、会議での議事進行に淀みないひとや、すれちがったときのひとことがお洒落なひとがいたら、「彼女は頭がいいね」なんて言ったりするかもしれません。同じ表現を、誰からも好かれていて、いつもたくさん友だちに囲まれているひとに使うこともあるかもしれません。

ここでまず言えることは、こうしたそれぞれの場合が、とても限定した判断だということです。それぞれ、「暗算力」や「記憶力」、「議事進行能力」や「人付き合い能力」がすぐれていると言っているだけで、ほかのことは判断していないわけです。記憶力のあるひとに「頭がいい」と言う場合、そこに人付き合い能力への賞賛は含まれていません。つぎに、こうした限定した判断であることを悪用 できることにもなります。上では「○さんはAにすぐれている」という、まっすぐな判断だったのですが、同じ言い方でその限定を強調して「○さんはAにすぐれている(けど、Bはダメだよね。あるいは、A以外はからっきしだねダメだね)」といった判断をすることができるでしょう。( )の前しか発言していませんが、じつは( )の中が言いたいことの核心なのです。イヤミですね。

こうして、「頭がいい」という判断は、enzianの場合、「Aがすぐれている」というまっすぐな意味か、「Aはすぐれているけど、Bはダメ(A以外はからっきし)」といった曲がった意味の発言になることがわかりましたが、後者の曲がった意味の場合、BがA(=「頭」)に反発しようとする言葉であることから、Bに相当する部分には偏りが出てきます。それは「心(こころ、ハート)」になる場合が多いということです。心は頭と対になるからです(ややこしいことを言うと、BもAを限定します)。ここから悪しきenzian^▽^)ウケケ が使いうる「頭がいい」の恐るべき用法が明らかになります。「彼は暗記力はあるけど性格が悪いんだよね」とか、「友だちがたくさんいるったって、彼は政治家で、それを今後の権力闘争の道具として使うつもりなんだよね。そこにはハートフルなものはなんにもないよ」という意味なのです。

こういう思考実験を書くと、それは自分のことか?などと思う自意識過剰なひとがいて勘弁して欲しいと思うのですが、そういう風に思われるのも理由があって、enzianが腹の底ではなにを考えているかわからない人物として定評を得ているからなのですね。そういう事情を自分も知っているわけだから、冒頭に書いたように、この表現はあまり使えないということにもなるのでしょう。ぼくはこういう記事を書いているひとがいたら、「彼は頭が悪いね」とか「彼女はバカだね」(関西風には「あいつはアホや」かな)と言うかもしれないけど、この意味については考えてみてくださいね。ごめん、楽しくない記事になった。

by enzian | 2010-07-21 23:08 | ※その他 | Comments(0)

ぴょんぴょん保護

学校帰りにとある写真展に行った。昆虫の写真展だから、また夏休みということもあって、親子づれが多い。胸をときめかせて、きらきらした目で昆虫を見る少年たちの姿はいい。それはほかでもない、かつての自分の姿でもあるからだ。そうだ、ぼくはぼくが好きなのだ。でも今日の主役はとある少女に譲ろう。

お母さんが話しかける。「この写真集、お父さんに言って買ってもらおうね」。その瞬間、少女はぴょんと飛び上がった。そしてぴょんぴょんして360度回転した。嬉しさのあまり、地上から10センチ離陸したのだ。着陸しつつ円を描いたのだ。見ていてこちらも嬉しくなった。

いつしかこの少女も、感情と行動を直結しないことが大人の条件だと考えるようになるのだろうか。それは一理あるのだが、なんとか今日の「ぴょんぴょん」ぐらいは残しておいて欲しい。ぴょんぴょんし続けてはくれないか。そういうのを悪用されても困るけどね。

by enzian | 2010-07-19 23:20 | ※街を歩く | Comments(0)

パソコン逝く

パソコンが逝ってしまった。とつぜんにプスリと電源が切れて、そのままになった。鈍いぼくにしては珍しく、最低限の論文関係とかは直前にバックアップをとっていてことなきをえたが、いろんなデータを呑み込んだまま、パソコンの生命(機能)はどこぞへ行ってしまった。返せぼくの思い出を。返せぼくの機密文書を。機密文書(なんなんだい?)が入っているものだから、業者に頼んで‥‥とかなんてこともできやしない。どうしてくれるのだ、あのATOKに記憶させたお気に入りの顔文字たちは。

ぼくはパソコンがデータという記憶を呑み込んだままに逝ってしまったことを嘆いているが、親しいひとが突然に亡くなってしまうことがぼくを悲しませるのはなぜだろうか。

by enzian | 2010-07-19 16:24 | Trackback | Comments(54)

菅浦(7)

b0037269_14131956.jpg佐吉を出て、湖畔のベンチに座ることにした。老人が舟を操って、ちょっと深いところで網を入れている。なにが獲れるのだろうか。鮒や鯉だろうか。

ちょうど羽虫(はむし)が羽化する時期のようで、浅場のいたるところで鮎が跳ね、それまで蒼い鏡面のようだった湖面には、にわかに銀色のざわめきが立っている。最終バスの時間が近づいて、どこからかコロッケを揚げる匂いが漂ってきた。昼間いたブラックバスの釣り人たちはもういない。

この石のベンチに座って星を見上げられればよいだろう。視線のまっすぐ先には対岸があって、大津にまで連なっているはずなのだが、それはあまりにも遠く霞みの彼方に横たわっている。菅浦に来てやっと埋まったと安堵した想いのかけらだったが、けっきょく新しいかけらをまた生み出したのだった。次は空気の澄んだ冬に来よう。瞬く星空が美しいにちがいない。

駅舎のツバメの巣には両親が戻ってきていて、6羽がぎゅうぎゅう詰めの団子になって眠っている。永原からしばらく、湖西線の車両はがらがらの貸し切り状態だった。 (了)

by enzian | 2010-07-19 14:14 | ※海を見に行く | Comments(0)

菅浦(6)

b0037269_21554828.jpg参道から外れ、舗装されていない道を歩く。やけにアゲハチョウが多いと思えば、山椒が生え、いたるところに夏ミカンがなっている。山椒や柑橘類などのクセの強い葉は、臭角を武器とする “モスラ” たちの餌になるのだ。そういえば、『続・釣れなくなくてもよかったのに日記』(以下、『日記』)で福島昌山人さんが菅浦の夏ミカンのことを書いていた。おじいさんが働く畑の仕切りには、由美かおるのホーロー看板が立っている。

細い路地裏に出ると、看板が掛かっている。「割烹佐吉」――諦めかけていたものがそこにあった。ひとに聞かれれば美しい湖水を見に来たと言うだろうが、心の片隅ではこの店を願っていた。『日記』に書かれた菅浦は、どこまで餌が落ちて行っても見え続けている透明な湖水のありかであり、釣り終わったあとの佐吉での暖かい会話のありかなのだ。それらを求めてぼくはここへ来た。

「佐吉」に入ってビールを飲んだ。師匠の近況を報告しておいた。
「佐吉」の若兄ィちゃんがモロコの南蛮漬けと、あめだきを出してくれた。
モロコはおいしいけれど、クセがないのである。川魚が好きなぼくにはたよりない気がする。そりゃ、一般受けはして、よく売れると思うけど、ぼくはハイジャコやボテのあの苦味がいいのである。
 ボテは食べられないというけど、ハラワタを出して、あめだきにするといい苦味があって本当においしいのです。
 ここの若兄ィちゃんとしゃべっていても、まったくすれていない。純朴な感じがする。
「来年来てください。嫁がくることになってます」
「そう、嫁さんが」
「ハイ」青年は嬉しそうな顔をした。
 なんだかぼくも嬉しくなってきた。(『日記』37-38頁)

佐吉で川魚をいただいた。山椒をきかせた鯉の味噌汁が美味しい。ご主人が出てこられて、「いかがですか?」と尋ねられた。「若兄ィちゃん」であった。穏やかな語り口の、人なつっこそうな方だった。今日ここまで来た理由や福島さんのことを話せばよいものを、二次元の文字世界での住人に三次元で出会ったとたん胸がいっぱいになって、「美味しいです」とだけしか答えられなくなった。しばらくして「嫁さん」も出てこられた。

菅浦ならと淡い期待を抱いたが、湖南と変わらず菅浦も外来魚にあふれ、菅浦港はルアーマンたちの釣り堀状態であった。ブラックバスやブルーギルに駆逐されて湖南ではすっかり姿を見なくなった在来のモロコやハイジャコ(オイカワ)はここでも少なくなっているのだろう。とはいえ、福島さんと、車で送ってくれたおっちゃんの言っていたことはウソではない気がした。

by enzian | 2010-07-18 22:11 | ※海を見に行く | Comments(0)

菅浦(5)

b0037269_21222723.jpg菅浦の東西入口には四足門が残っている。これは江戸時代の末までは地域の東西南北の端に置かれていたもので、菅浦は一種の自治集落として隠れ里への出入を統制していたという。

山と湖に挟まれ細長く伸びた集落には数カ所の寺院があり、一つを除いて無僧寺になっている。中世以来の長い歴史があるとはいえ、百戸足らずの小集落にこれだけ多くの諸宗派の寺院が残っているのだ。それは人から懸隔して生きることの難しさによるものなのだろうか。それとも、救われたいという共通の思いをもつにしても、その救われ方については妥協を許せないという、最期の希望の反映なのだろうか。

西側の四足門を入ってすぐの山肌には、この地に隠れ住んでいた淳仁天皇を祀ったという須賀神社がある。参道の長い石段を登ると、琵琶湖と竹生島が見下ろせる。日陰には、薄い青紫に橙色をあしらったようなシャガの花が咲いている。好きな花だ。須賀神社の本殿近くは土足厳禁になっていて、靴を脱ぐ気もないので、そこで引き返す。

その昔、実家は神道とも仏教ともつかぬ宗教に入っており、月に一度、滋賀か京都の支部にお参りに行くのが恒例行事になっていた。教祖(代理)の長い話を聞く “苦行” が終わって、琵琶湖畔か鴨川沿いを歩くことが、その際の唯一の救いだった。一度、恒例行事で事件を起こしたことがある。一畳ほどの神聖な空間に誤って一歩足を踏み入れたのだ。そのとたん、大人たちは蜂の巣を突いた騒ぎになり、少年は罵倒され、衆人環視のなか、正座のまま顔を畳にこすりつけて謝罪の言葉を言い続けさせられた。子どものプライドは引き裂かれた。そのとき、ぼくは一つの誓いを立てたのだ。

by enzian | 2010-07-13 08:06 | ※海を見に行く | Trackback | Comments(21)