<   2010年 08月 ( 8 )   > この月の画像一覧

努力家との同居を考えはじめる。

ここしばらくアシダカグモ(家蜘蛛)が家に侵入しようとしている。けっこう大きなやつで、1週間前にぼくがフフフンとテレビを見ていたら、家の北側の窓ガラスにへばりついて、なんとしても家に侵入しようと右に行ったり、左に行ったりしていた。蜘蛛は嫌いではないので、がんばってるなぁと思いつつテレビを見ていた。3日前には、南側の台所に入り込んでいて、勝手口から強制退去いただいた。それできっとあきらめて山へ帰ると思ったのだが、どうしてもわが家がよいらしく、今日は東側のサッシのところから入ろうとがんばっていて、あぶなく窓を開けるときに巻き込んでしまうところだった。もうどうしったってこやつはわが家でいっしょに暮らしたいらしいのだ。情熱的な努力家なのだ。

家蜘蛛はゴキブリを食べるというので、たいていどこでも大切にする。なんせ、野生生物にはほとんどまったくといってよいほど慈悲の情を示さなかった祖母でさえ、実家にいた家蜘蛛には手を出さなかったぐらいなのだ。わが家にはあんまりゴキブリはいなくて、過去3回しか見たことがないのだが、残念ながら、そのうちの2回が今年に入ってからで、ゴキブリを終生のライバル(勝ち目はないだろう)と認めるぼくは黒い点とか、かさっと走るものに少々おどおどしはじめている。ひょっとするともう定住しているのかもしれない。だから、アシダカグモが入ろうとしているのかもしれない。もう一度アタックしてきたら、しかたない、わが家に迎え入れようと思う。これでもぼくは情にもろいのだ。

by enzian | 2010-08-29 23:37 | ※その他 | Comments(0)

才人と出会う方法

すぐには意味がわからないが、あとあと響いてくる言葉を発するひとがいる。ぼくの恩師なんか(ぼくにとっては)この手のひとで、すぐにはおっしゃることがわからなくて、2年後とか数年後にわかることが多かった。あっそうか、あのときおっしゃったのはこういうことだったのか、といった具合。ぼくは鈍だから、頭の良いひとの言うことはほとんど、すぐにはわからない。

いまぼくは明治時代に生まれたひとたちの勉強をしていて、そのひとたちはけっこう長命で、ぼくが生まれたときも存命だったひとが多いのだが、できればひと目でも会って、あれこれと質問したかった、などと思っている。が、たぶん、ぼくがこういうひとたちが考えたことに興味をもてるのは、その言葉を彼らが何十年も前に言ったからなのだ。このひとたちのなかには発言が周囲に受け入れられず、コミュニティから追放された経験をもつひとも多く、それをぼくはいかがなものかなどとえらそうに考えているが、じつのところ、彼らと同じ時代に生きて生で彼らの声を聞いていたなら、その当時の周囲と同じように、彼らを追放しようとしたにちがいない。そして、何十年かしてしまった!と後悔したにちがいない。

同じように、もう人類の歴史上に残るようなとてつもなく頭の良いひと、たとえばソクラテスなんてひとがいたのだが、ぼくが彼の考えにわずかでも興味をもてるためには、何千年かの時間的隔たりが必要だったのだろうと思う。同時代に生きていれば、短絡的なぼくは必ずソクラテスを処刑せよ!と叫んでいただろう。才人と凡人とのあいだには時間的な隔たりが必要なのだ。でもこれは、時代を隔たることによって凡人も才人と出会える、ということでもある。

by enzian | 2010-08-26 23:29 | ※その他 | Comments(0)

原稿用紙8枚の音

b0037269_22263834.jpgどこからともなく、入相の鐘が聞こえる。不思議な気分になる。鐘とは除夜にのみ鳴るものだと思っているのだ。

そんな勘違いなどおかまいなしに、誰かが毎日、夕刻に鐘を打っている。聞く人がいようがいまいが、いると信じて打っている。

家で鐘が聞こえることは少ない。この音がいつ聞こえるかをぼくは知っている。その日の原稿がパソコン二画面分、原稿用紙8枚分にたっしたときにのみ聞こえる音なのだ。それ以外のとき、ぼくの耳はその音を聞かせてくれようとはしない。だから鐘は鳴らない。

遠くで雷の音がする。今日も雨は降らない。

by enzian | 2010-08-24 18:05 | ※その他 | Comments(0)

重なり合いつつ移行する

b0037269_095574.jpg家を出て少しぶらぶらしていたら黄色いオミナエシが咲いている。夏がすっかり終わって、秋らしくなってから咲く花かと思っていたが、そうではないらしい。オミナエシにはたくさんの虫が集まっていて、見ていてあきない。花粉がよいのだろうか、蜜がよいのだろうか。「どちらなのだい?」と聞いてみようか。

もくもくと湧き上がる入道雲の下、秋空でもないのに赤トンボが群れをなして飛んでいる。ひとつのことがはじまり、旺盛(おうせい)になって、やがて衰え尽きてから、ようやく新しいことがはじまる。あることが0からはじまり、100になって、またいつか0になって終わって、ようやく別のものが0からはじまる――こういう考え方になじみすぎているのだろうか。

たくさんだとこんがらがるから区切る。たくさんが同時並行となれば骨が折れるから一本線にする。そんな方向になれているから、逆に、たくさんのことに同時並行的にかかわれることが一種の才能として尊敬されたりもする。だけど、ぼくが考えている以上に、もともと物事は全体として重なり合いつつ移行しているのかもしれない。赤トンボが肩にとまった。

by enzian | 2010-08-15 00:13 | ※自然のなかで | Comments(0)

「根はいいひと」

b0037269_2350434.jpgひとと話していると、ときどきこの表現を使ってしまい、落ち着かなくなる。落ち着かない理由はいくつかある。

ひとつは、「根はいい」と言うことは、「根以外は腐っている」と批評することでもあるだろうからだ(言い過ぎか?)。他人をつかまえて大半は腐っているなどと言って後ろめたくないひとなどいないだろう。つぎに、肯定的なものであれ否定的なものであれ、他人のなにかを批評することは、とても大切な行為であるはずだし、ある意味、仕事上でもいつもしていることなのに、あいかわらずぼくにとってはどこかしっくりこない作業のままだからだ。

そして最後に、「根はよい」と言うことで否定的な流れの最後に肯定的な評価を置き、いわばハッピーエンドにしようとするというか、臭い物にふたをしようとする理由は、ほかの人は知らんが少なくともぼくの場合、他人を肯定したいからなのではなく、他人を肯定的に評価できる自分の器量を肯定してもらおうとしているからなのだ。やだやだ。

by enzian | 2010-08-12 23:55 | ※その他 | Comments(0)

残暑お見舞い申し上げます。

b0037269_2310591.jpg
このキュートさがわかるひとにいつか出会いたい。

by enzian | 2010-08-08 23:12 | ※写真 | Comments(0)

いらぬ負担

昨日はオープンキャンパスの学科担当で、なんにんかの高校生と話した。ぼくはひとと話すのが好きだから、しかもふだん話すことのない高校生と話すとあって、いつもオープンキャンパスではテンションがあがって困る。きっと誰も気づいてないだろうけど。テンションがあがっても、学科相談で相談を受ける学生とは、その後なんねんもいっしょに勉強していく場合があるので、慎重に対応することにしている。

気をつけてはいるのだが、そんなハイテンションのせいか、一度、失敗をやらかしたことがある。ある年、高校生と長く話し込んだぼくは、その学生が自分の大学の哲学科を受け、入学するにちがいないと思い込んでしまった。そして、あろうことに、「入学後に返してくれればいいよ」と、哲学の入門書を貸してしまった。けっきょく、その名も知らぬ高校生とは二度と会うことはなく、本も戻ってこなかった。本など惜しくはないが、自分の思慮のなさで高校生にあれこれいらぬ負担をかけたのではないかと悔やまれる。

by enzian | 2010-08-08 21:32 | ※キャンパスで | Comments(0)

輪ゴム

電車のなかで隣に座っていたおばあさんが腕に輪ゴムを巻いていた。あぁこういうことをするひとがやはりいるのだと思った。いつも祖母が腕に輪ゴムを一本巻いていたからだ。その当時から輪ゴムを巻く理由はわからなかった。必要なときにいつでも使えるように巻いているのだろうと思っていた。若いひとには想像できないかもしれないが、輪ゴム一本が貴重だった時代があった。輪ゴムがきらきら輝いていたときがあったのだ(大げさか)。

だが、あるとき、祖母が腕のところに、ふつうの裁縫で使うような糸を巻いていたことがあった。「これなに?」と聞いたら、「まじない」と祖母は答えた。なんのまじないかは聞かなかった。――そうしてぼくは、腕の輪ゴムがいつでも使えるようにか、謎のまじないのためか、それともそれ以外の意味があるのか、わからなくなったのだ。いまでもその理由はわからないのだが、この謎を解きたいとは思わない。

by enzian | 2010-08-03 22:26 | ※通勤途中 | Comments(0)