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消しゴム

昨日は高校生を対象とした「学びフォーラム」というのがあって、朝から授業をした。しとしと降る雨のなかいつもの学校に着くと、高校生がうじゃうじゃいた。高校生の波を縫いながらいつもの道を歩いていると、消しゴムが落ちている。高校生に配っているものらしい。誰かが拾うかと見ていたが、高校生たちは消しゴムをまたいですたこら行ってしまう。授業を終えて通りかかると、同じ場所にさっきの消しゴムが落ちている。何度か踏まれたらしく、ゴムをくるんだ包装紙はなくなり、靴裏の模様がついたゴムだけが濡れていた。あれだけたくさんの高校生がそばを通って、ひとりも拾う者がいなかったのだ。

汚くなった消しゴムを拾う者はもういないだろう。ぼくは高校生ではないが、消しゴムを拾うことにした。いまぼくの手元にはその消しゴムがあって、今日は朝からよく働いてくれた。ぼくのしたことは厳密に言えば “ネコババ” というものだと思う。

高校生のうちから大学でするような授業を聞きに来て、熱心にメモをとることはすばらしい。そのような勉強をして社会のリーダーになろうとするのは立派なことだ。しかしぼくは、むずかしい授業で熱心にメモをとる学生である前に、ひと目をはばかって迷いながらも落ちている消しゴムを拾い、そのことの意味を考えられるような学生であって欲しいと思う。個人的には、ぼくの大学はそういうことを教える大学だと思っている。

by enzian | 2010-10-31 18:38 | ※キャンパスで | Comments(0)

出欠をとるということ

学生たちと話していると友人たちの話がしばしば出てくるわけだけど、そうした場合、たいてい友人たちはファーストネームかニックネームで呼ばれる。以前は、教員(ぼく)と話す場合には、「○○」君や「○○」さんといったかたちでファミリーネームにして、いちおう、“よそ行きの言い方” をしてくれたのだけど、このごろはとんとそういうことをしてくれなくなった。自分の友人はその場にはいないニュートラルな第三者として話してくれる場合が多かったのだが、このごろは自分の友人を自分の友人のままで話すことが多くなったのだ。ひとによっては自分の飼い犬やら飼い猫やら飼いウサギまで愛称で呼ぶ。てっきり別のゼミの学生のことを話していると思ったらハムスターの名前だったこともある。

こうしてぼくは、自分の学生だけでなく、その学生の親しい友人のフルネームやニックネーム、ときには飼い犬の名前までも覚えるようにしている。最近ことに頭の回転が鈍ってきて、記憶力減退傾向の著しいじいにはやや荷の重いことなのだ。なんぼかわいくても、他人様(ひとさま)の犬の名前まで覚えてられへん。百歩譲って犬猫や、ほ乳類までは認めるにしても、両生類とかはさすがに勘弁して欲しい。げろげろ。

この理由がどうしてなのだろうとときどき考えてみたりするのだけど、よくわからない。学生というのは総じてクラスメイトのファミリーネームを覚えていないものだからなぁと思ったこともあるが、そんなこと、いまにはじまったわけでもないのだ。でも最近、はたと気づいたことがある。ぼくは自分のクラスの学生の出欠をとるとき、いっさい点呼しない。名前を呼ばないのだ。ぱっと顔ぶれを見て、黙って閻魔帳(えんまちょう。死語か?)につけてしまう。そう言えば、ぼくが閻魔帳をつける際の一瞬の沈黙が怖いと言った学生がいたっけ。出欠をとるというのは、ひょっとすると教員のためだけのものではないのかもしれない。

by enzian | 2010-10-30 22:09 | ※キャンパスで | Comments(0)

中程度のエゴイスト

他人なしに自分がないことはもちろんですが、自分の幸せを求めるためにひとは生まれてきているのだと思います。自分の幸せを謳歌(おうか)するために、幸せを味わい噛みしめるために私たちは生まれてきたのではないでしょうか。

誰であろうと、たとえ大きな恩を受けた親であろうと、その意向に添うために自分の幸せを切り詰め無くしてしまうことはありません。親の幸せとは、誰ともちがう、とうぜん自分たちともちがう幸せを求めていく、これまで世の中に一度も存在したことのない、たった一人の独立した人間を育てることができた、ということに基づく(はずの)ものなのではないでしょうか。親に自分の人生を捧げ尽くす必要などないのです。

私がこのようなことを書くのは、自分よりも親の人生を大切だと思う、自分に独自の価値があるとは心底からは思えない “心やさしいひと” の気持ちを変えようとしてでのことではありません。そんなこと、できるわけありませんもの。ただ書きたいから書いているだけ。
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by enzian | 2010-10-23 21:43 | ※その他 | Comments(0)

「物事は

自信があったうえではじめるものなのですか?」と問われた。非常にむずかしい問いだと思ったが、反射的に、「いいえ、自信とは、やりはじめてからじょじょにできあがるものなのではないでしょうか?」と答えた。やや無責任な気もするが、及第点の答えだろう。できるかぎりの準備をすることは必要だが、完璧な自信を待っていてはなにもはじめられない。

by enzian | 2010-10-19 21:34 | Comments(0)

白い子猫

b0037269_184551.jpgちびっこ広場と呼ばれる広場があった。東側にはブランコなどの遊具が置いてあり、西側にはなにもない土地ががらんと広がっていた。学校が終わると、ぼくらはそこで毎日暗くなるまで野球をしていた。ある日、野球を終えて、なぜかぼくはまっすぐ家に帰ろうとはせず、東側のブランコの方に向かった。雨が降ったりやんだりしていた。

薄暗がりのなかから小さな白い物体がこちらに向かって歩いてきた。ずぶ濡れで、小刻みにふるえている。ふるえながら、脚を踏み出す度に左右によろめきながら、ゆっくりこちらにやってくる。白い物体が顔を上げ、弱々しく「ミャ~」と鳴いた。手のひらに乗りそうなほどの子猫であった。がりがりにやせ、あばら骨が浮き上っている。子猫がなぜぼくに向かって鳴いたのか、わかっていた。「助けてください」と鳴いているのだ。薄暗がりの雨のなか、人家離れたこの公園に来るひとはもうひとりもいないことだろう。

持ち帰ろうかと迷ったが、子猫の片目を見て、気持ちは萎えてしまった。片目はふさがっていた。ぼくは子猫に背を向けた。歩きはじめて、「ミャ~ミャ~」と呼ぶ声に後ろを振り向いた。よろめきながら子猫はぼくを追おうとしているのであった。このチャンスを逃せば自分の命が尽きてしまうことを知っているのだ。子猫は二三歩前に進んで、ことりと倒れてしまった。子猫はなおもぼくを呼んでいたが、ぼくは走ってその場から逃げた。

by enzian | 2010-10-17 23:03 | ※山河追想 | Comments(0)

蛙の子は蛙

この時期、近所の山には食べられるキノコがたくさん生えていて、「早く採りに行け」と根源的な欲望がはやし立てるので、いつも内心穏やかではない。

山のキノコを食べなければ生活に行き詰まるわけでもないのだが、睡眠時間を削ってまでして忙しいこの時期に日参するそのアホさ加減の意義を問われても、「そこにハタケシメジがあるから」としか答えようがない。

もうひとつ楽しいことがある。山には公園が隣接していて、そこの一角、ほぼ1㎡のところに、毎年決まってアカガエルが一匹いるのだ。今年もいた。毎年ちがう個体のようなのだが、なぜ一匹きりなのかはわからない。水場がない場所なのでどうやって発生しているのかもわからない。去年の個体の関係者であろうことは推測できるが、詳しいことはわからない。わからないが、ともかく追っかけ回して撮らせてもらう。写真はそやつ。

小学校のとき、「子」という字を使う言葉にどんなものがあるかと問われ、友人が「蛙の子は蛙」と答えて、教室が爆笑の嵐になったことがあった。みるみる顔が赤くなって、友人は椅子のうえで小さくなっていくように見えた。そのようなことわざがあることを知らず、子どもたちは友人がしごく当たり前のことを言ったと思ったのだ。それからぼくは長い時間を生きてそのようなことわざがあることを知ったが、いまもことわざの意味はよくわからない。
(写真をクリックすると拡大します。)

by enzian | 2010-10-16 22:28 | ※自然のなかで | Trackback | Comments(73)

特に意味はない。

(1)哲学をするとお肌ツルツルになるらしい。
(2)哲学にはアンチエイジング効果があるらしい。
(3)今年の哲学には、昨年の三倍(当社比)の食物繊維が含まれているらしい。
(4)哲学は半熟のとろとろらしい。
(5)哲学は国産小麦粉100パーセントでできているらしい。
(6)哲学はカロリーゼロらしい。
(7)哲学は微炭酸らしい。
(8)哲学はモンドセレクションで金賞をとったらしい。

by enzian | 2010-10-15 20:48 | ※その他 | Comments(0)

すべてを捨てる

b0037269_1121580.jpg珍しくアッシジを扱った番組があったので観た。アッシジは、アッシジのフランチェスコの住んだ街。誰も信じないだろうが、フランチェスコはわたしが敬愛するひとのひとり。

裕福な家庭に生まれ放蕩を尽くした彼は、あるとき、すべてを捨てるという決断をする。イエスの生き方にならおうとしたのだ。すべてを捨てて、「小さき者」になることを彼は求める。我が物を捨て、貧しさのなかに生きることによってようやくひとを愛することもできると彼は考え、生涯それを実行した。

だが、ときどきこうも考える。貧しい家庭に生まれたならフランチェスコは聖人になっただろうか。貧しいなかで苦労して得たわずかのものであるなら、彼は捨てることができただろうかと。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。イエスはこれを比喩的な意味も含めて言ったのだろうが、貧困に生まれた者が捨てることは金持ちが捨てることよりもはるかにむずかしいと思うのだ。

金銭にせよ、名誉にせよ、地位にせよ、愛情にせよ、一度得たのであるなら、生まれながらにしてもっていたのであるなら、たとえ捨てても「一度は得たことがある」という気持ちが残る。だから捨てやすいのだ。だが、一度も満足には得たことのない(と感じている、そう思い込んでいる)者が手のひらに握りしめたわずかの物(もの)を捨てることができるのだろうか。せめてそれを死守しようとするのではないか。それがなんであろうと。フランチェスコは「小さき者」になることを求めるが、手中にあるわずかの物さえ捨てられない、「小さき者」には到底なれないと苦悩する〈より小さき者〉の立場に、わたし自身はむしろ近い気がする。このブログのタイトルには、密かにそのような意味を込めてある。

by enzian | 2010-10-09 11:27 | ※その他 | Comments(0)

綿菓子

b0037269_16503579.jpg窓を開けるとキンモクセイの香りがした。もうそんな季節になったかとため息が出るが、ともかく、これから一週間ほどはこの香りに包まれて暮らすことができる。強(したた)かな雨が花びらを散らしませんように。

香りと言えば、桂の落葉は綿菓子の香りがするというので、確かめに行った。ハートのような若葉の形にばかり目をとられて、落葉に香りがするとは思ってもみなかった。少し茶色くなりかけた落葉を手に乗せてくんくん嗅いでみたら、なるほど、ちょっと酸味がかった綿菓子のような、キャラメルのような香りがする。

割り箸をくるくるしながら綿菓子を作ったことがあったっけ。当時珍しかった綿菓子の機械を買って小学生相手に商売をしようとしたおやじがいた。ちょっと目つきの悪いひとで、足を引きずって歩いていたことを覚えている。最初うるさいほど押しかけた小学生たちも、すぐに飽きると、もう見向きもしなくなった。使われなくなった綿菓子の機械は埃をかぶり、錆びるがままになっていた。やがておやじの家は空き家になり、ほどなく更地に戻った。

by enzian | 2010-10-03 17:11 | ※山河追想 | Comments(0)

もっと遠くへ

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by enzian | 2010-10-02 22:12 | ※写真 | Comments(2)