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雪垣法門

b0037269_1822667.jpg昔、上越地方には雪垣法門(ゆきがきぼうもん)という言葉があったといいます。

雪深いその地では、しんしんと降り続いた雪がやみ、青空がのぞいたつかのまの冬の日、法螺貝が吹き鳴らされて、地域の寺での法座のはじまりを告げる。雪囲いをされた寺の本堂には布団をかけた炬燵がしつらえられ、法螺貝に誘われた近隣のひとたちは車座になって、炬燵のうえから聞こえてくる法話(仏教についての話)に耳を澄ます――昨夜から散らつく雪を見ながら、そのような風景にふと思いを描くようになったのは、昨年ごろから学びはじめたことが影響しているだろうことはわかっています。

それにしても不思議です。雪のない地域で育った自分があこがれ続けたのは、雪に埋まる禅堂で独り修行を続ける自分の姿であったからです。しかしだからといって、深山に惹かれていた心がすっかり里へ下りてきたということにはならないと思います。暖かい炬燵に脚を突っ込み、大好きな餅をくっちゃくっちゃ食べながら思うのは、あるはずだと思っていたいくつかのものがじつははじめからなかったということに今年気づいた、ということでした。よく学んだ一年でしたが、人間的にはみごとに退歩した一年でした。

by enzian | 2010-12-31 18:24 | ※その他 | Comments(0)

弟子走

もう師走も終わってしまいそうということで、年末と年始に論文の締め切りをかかえている当方といえば、とろりとろりと脂汗を流しながらパソコンに向かっている。師走というぐらいだから、師を教員といいかえれば、当方もそのはしくれとして忙しくてかなわないということなる。なるほど年々休日出勤と雑用は増える一方で、振り替え休日などもちろんなく、研究時間は減る一方だと、ウソかマコトかわからないことをいいたくなる。

とはいっても、当方は今年、あびるほど勉強させてもらって、またひとまわり偉くなってしまった(とカンチガイしている)ことだし、長く生きてきた年の功ということもあって、膨大な雑用を小手先でひねって表面だけつるつるに加工したり、よしんば、つるつるでなく凸凹だと指摘されても、「きっと気のせいでしょう」とゴマカす手練手管を身につけているので、たいていのことはなんとかする。

このようにそれなりの年の功スキルをもったおっさんはよいのだが、気の毒なのは、だれぞの弟子たちたる学生諸君だ。若いから仕事をさばく能力にも長けていないだろうし、ヒマを買うだけのお金もない。よほどアルバイトやらに精を出さねばならん。思えば、学生時代のぼくは、決まってこの時期は郵便局におった。あぁ懐かしい。ちなみに、当方には昔から配下の眷属(けんぞく)も、子飼いも、弟子もおらん。そんなもんいらんのだ。

by enzian | 2010-12-29 23:11 | ※キャンパスで

おんごろ

b0037269_22395241.jpg子どものころ、悪いことをしたときに、「そんなことをすると○○が来るよ」という風なことを言っておどかされたことはなかったでしょうか。

ぼくの母は、ぼくが悪いことをすると、ときどき、「おんごろが来よるぞ!」(「おんごろ」を強調する)と言って、ぼくを怖がらせたものです。不思議なもので、おんごろがなにか知らなかったのですが、想像力の翼をもって世界を描きはじめた子ども心にはそれで十分な効果がありました。母はそれを特に夜に言ったものですから、夜に出没する「おんごろ」という恐ろしい妖怪がいるのだろうと考えていました。

後に、「おんごろ」とはモグラを意味する方言であることを知りました。郷里とはそう遠くないところには「おんごろどん」という風習があって、毎年、藁棒でもって地面を叩いてモグラを屋敷から追い出そうとするといいます。「どん」という表現からもわかるように、これなどは少しユーモラスな風習なのでしょう。でも、いまもってぼくは、あのとき母が言っていたのは「おんごろどん」ではなく、恐ろしい「おんごろ」だったのだろうと思っています。

by enzian | 2010-12-29 19:52 | ※山河追想 | Comments(0)

趣味

就職活動をしている学生が嘆いている。集団面接で趣味について聞かれて、「趣味はボランティア活動です」と答えて、嬉々として、生き生きとそのことを話しはじめる学生が多いらしい。「生き生きと話す学生に面接官は関心を示すのだろうが、自分はあんなふうにボランティアを趣味として公言することに抵抗を感じる」、という。

かなりの人数の学生が面接での自己アピールの手段としてボランティアという言葉を出しているということは、そのような面接指導をしている大学があるのかもしれない。ぼく自身は冒頭の学生と同様、(1)ボランティア活動を「趣味」だとすることに、しかも、(2)そういう場でなんらかの手段としてそれを公言することになんともいえない違和感をもつが、こういう考え方は、すでに時代遅れになってしまったのかもしれない。

by enzian | 2010-12-28 00:04 | ※キャンパスで

1993年

b0037269_2244445.jpgときどき、かつて出会ったひとの名前を検索にかけることがある。小学校から高校にかけて出会ったひとたち。その後どうしているかと、気になることがあるのだ。なんど調べてみても検索にかかることはほとんどないが、それでもときどき調べてみる。そんなひとたちのなかで、とりわけ気になっていた男がひとりいた。

そいつは小学生にして、将来、自分は映画監督になるのだと公言していて、映画以外のことには興味がないかのようであった。特に映画が好きなわけでもなかったぼくは、どちらかといえばそいつとは馬が合わなかった。いや映画が好きとか嫌いとかいったことは理由ではなかった。いまから思えば、そのころのぼくは夢やら希望を臆面もなく話せる人間、そのようなものに向かって走りだせる人間が疎(うと)ましくてしかたなかったのだ。

今日検索をかけてみたら、はじめてそいつの名前が検索にかかった。映画関係者何人かとの集合写真。まごうことなくそれはあの男だった。東京に住んでいるらしい。「カメラマン」と書いてある。その写真は1993年当時の写真をメモリアルとして貼ってあるもので、その後の足取りはどこにもなかった。だが、少なくともやつは1993年まで公約どおり夢を追いかけていた。やられた、と思った。

by enzian | 2010-12-24 22:48 | ※その他 | Comments(0)

ぬるぬる准教授

とある授業に行くと、毎週毎週、どうしようもなくマイクがぬるぬるだったことがあった。辟易するのだが、たくさんの聴講者を前に「ぬるぬるなので、授業をはじめることができません」と泣き言を言うこともできず、下手をするとつるりとすべりそうになるマイクをもちながら授業をはじめると、いつしかぬるぬるのことも忘れてしまうのであった。

その日もぬるぬるだった。マイクをもった手でノートをめくると油が染みついた。「前の授業の担当者はどこまで脂性(あぶらしょう)なひとなのか」などと言いたかったが、脂性に罪はないのだ。しかもそんなことを言えば、たちまちその教員の名前は調べられ、「ぬるぬる准教授」とか言われかねない。ぼくとて、授業評価アンケートの「プライバシーに配慮している」項目の点数を下げられてもかなわんので、そんなことは言えぬ。進退きわまったぼくは、おもむろに学生たちに背を向け、チョークの粉をそっとマイクに振りかけた――。

by enzian | 2010-12-23 23:11 | ※キャンパスで | Comments(0)

浄財

「奨学生の募集を停止する」――見覚えのある育英財団からの掲示であった。

大学院のころ、二箇所から奨学金をもらっていた。ひとつは国、ひとつは宗門の育英財団から。奨学生に採用されることが決まって、宗門の財団を訪れたとき、ぼくはなにごとかを言われるのではないかと内心穏やかではなかった。ぼくには僧籍はなかったし、しかもそのころ身を置いていたのはキリスト教系の大学院であった。ぼくはクリスチャンでもなかった。ぼくはどこでも “よそ者” であった。宗門の方から本山の紹介を受ける。「こちらが○○で、こちらが○○です」。案内が終わり、奨学金を貰った。けっきょく恐れていたようなことはなにも言われなかった。恐れていたようなことは言われなかったが、「これは浄財です」という言葉が心に残った。心に残ったが、「浄財」の意味はわからなかった。

けっきょく学費や生活費はすべてアルバイトでまかなって、国からの奨学金も、浄財も、そっくりそのまま後の結婚費用にした。果たしてそれが浄財の使い方として正しかったのかどうか、いまもってわからない。わからないが、よそ者にしてなお浄財を受けることが許されたということ、この一点が、おそらく自分が生きている限りは変わらないであろう影響、ひとつの思いを、ひねくれ者のぼくに与えたことは確かである。

by enzian | 2010-12-17 23:24 | ※キャンパスで | Comments(0)

「あなたの文章は作文であって、論文ではない。」

b0037269_071598.jpgきまってこの時期は文章を書いてもらって、OK を出すまで書き直してもらうことにしている。情け容赦ない添削によって学生の文章は切り刻まれ、いたるところに手ひどい注意を書き込まれて、なんども突き返されることになる。

一日に50回は「根拠がない」をくり返して、恨めしそうな学生たちの顔をみれば、エラそうなことを言えた義理でもない自分のことをかえりみてしまって、ほとほとイヤになる。

「あなたの文章は作文であって、論文ではない」と言われて傷つかない者がいるものか。苦労して書いた文章が「意味をなしていない」とコメントされて頭に来ない者がいるものか。そんなことはわかっている。ときどきいたたまれなくなって、添削の手を止めて窓の外をみる。学生のころ、悪友たちとそばで無駄話をしていたキンモクセイが生えている。

by enzian | 2010-12-10 00:24 | ※キャンパスで