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ふたばの豆餅な人間観

ある精神科医の言葉に感銘を受けたことがあります。これは、これまたかつてぼくが感銘を受けた書、笠原嘉『精神病』(岩波新書)に引用されていた言葉で “孫引き” になってしまうのですが、望ましい治療者の自然な態度とは「おだやかなオプティミズムで修正されたリアリズムであろう」という言葉です。

この言葉はときに非情にむずかしい治療をおこなわざるをえない方の言葉なのでこういうことになるのでしょうが、ぼく自身は、日々の生活を送るにあたって、さまざまにかかわるひとたちたいして(そこには自分自身も含む)、それなりの紆余曲折を経て、いまでは「おだやかなリアリズムで修正されたオプティミズム」で臨(のぞ)むのがよいのではないかと思うようになっています。

しかしそれにしても、リアリズムとかオプティミズムといった言葉はむずかしいですね。「リアリズム」は現実主義、「オプティミズム」は楽観主義を意味します。これでもきっとわかりにくいと思うので言いかえると、「おだやかなリアリズムで修正されたオプティミズム」というのは、ちょうど、京都の「出町ふたば」の豆餅の味のようなものです。餅に含まれるわずかな塩味加減が絶妙で、中の餡をしつこくない上品なものに仕上げています。品のないオプティミズムは単なる軽薄にすぎず、批判を欠いた思いこみはやがて絶望に至る。ふたばの豆餅を食べたことのない方にはわかりにくいかな。ローカルネタで自画自賛。

by enzian | 2011-03-29 22:56 | ※その他 | Comments(0)

弁明の記事

誰もなんとも思っていないだろうが、前二回の記事が矛盾したことを言っているように見えるので、補足しておきたい。やさしさや責任ある行動がすべての人間の行動を信じ込むのとは別だということと、人間が信頼に値するということは両立するのか?ということだ。すべての人間の行動を信じ込むことができればよいが、できそうもないと考えたのは、人は誤ると思うからだ。もちろんぼくは “全世界人間全数調査官” でもなんでもないからすべての人間を確かめたわけではないので完全無欠な人もいるかもしれないが、少なくともぼくの家族は揃いも揃って見事なほどにミスりまくっていたし、かく言うぼくもミスりまくる。くり返し、くり返し。

ただし、大切なことがある。「誤る」という言葉は、全体として見れば誤らない可能性が十分見込める者にのみ言う言葉なのだ。「隣の家のウーパールーパーが回覧板を回す順番を間違えちゃってね、まったく困ったもんだ」なんという井戸端会議は成り立たない。そもそもウーパールーパーが正しく回覧板を回してくれるはずがないからだ(正しく回してくれても、にちゃにちゃして困るが)。正しく行動する可能性がある者がたまたま期待されたとおりの行動をとらなかったとき、人はそれを「誤った」と評価する。

ぼくは人間が完全無欠の純潔存在だと思っている人が人間関係のなかでもつに至らざるをえない人間にたいする疑惑とか怒りとか絶望ほどやっかいなものはない、コワイヨタスケテママと思っている。そして、逆に、まったく誤らない存在にはあんまり興味がない。放っておいても誤らないからだ。話がずれた。要は、「誤るからこそ、信じるに値する」と言いたい。終わり。

by enzian | 2011-03-28 22:13 | ※その他 | Comments(0)

落とし物

b0037269_005241.jpg駅に電車が着いて、ホームに降りた。開いたドアに近いホームの上に財布が落ちていた。ぼくが見つけたのと同時に車掌が見つけ、彼が拾うに任せた。てっきり車掌は「どなたか財布を落とした方はおられませんか」というような声を出すのだろうと見ていたら、なにも言わず、財布を持ってすたこら駅舎の方へ行ってしまった。

すぐに誰のですかと聞けばよいのに冷たいひとだと思ったのだが、しばらくして、それは考えちがいだと気づいた。まったく関係ないひとが「自分のものです」と言って、それを鵜呑みにして渡してしまえば、もとの持ち主に迷惑がかかるからだ。「自分のものです」と言ったひとが勘違いしたのなら、そのひとにもあとあと迷惑(窃盗の嫌疑)がかかる。やさしさとか、責任を果たすといったことは、すべてを信じ込むこととは別のことなのだろう。

by enzian | 2011-03-26 23:46 | ※通勤途中 | Comments(0)

「抗パニック教育」

買い物に行ったら、うわさ通り、電池とミネラルウォーターの棚がすっからかんだった。ここは京都なのに。東北の親戚に送っているひとたちがいるとでもいうのだろうか。こんなことをしたら、ほんとうに必要なひとが必要なときに使えなくなってしまう。ものを買い占めるパニックは日本だけのものかと思っていたが、日本以外でもあちこちで起こっているらしい。

パニックに陥らないようにするには、なにができるのだろうか。いざというときのパニックを避けるための「抗パニック教育」のようなものは可能だろうか。個人的には、そのようなものがあるとすれば、ひつこく人間を洞察し、人間を信じるに至るということ以外にはない気がする。震災地の出来事を民法各局がお涙ちょうだい的な人間ドラマに仕立てて被災者を見世物にしているという批判はしばしば聞くし、それはたしかにそのとおりなのだが、同時に、こういった民放の動きは、このようなときにこそ人間が信頼に値するものだと感じることで自分たちがパニックに陥らないようにするという、一種の防衛反応、バランスをとる働きの現れでもあると思う。

by enzian | 2011-03-24 23:33 | ※街を歩く | Comments(0)

行くひと、来るひと

5月にドイツに行く用があるのだけど、先日、ルフトハンザが東京からの発着を当面取りやめ、発着空港を中部空港や関空に移動するというニュースを聞いて驚いてしまった。少し前に買ったチケットはルフトハンザではなかったので、特に問題なかったが、フランクフルトに着いてから、日本から渡航した人間だけ余分な検査をされるかもしれないと思ったら、おもしろくない。少し調べてみると、ドイツ外務省は東京の大使館の機能を一時的に大阪に移している。イタリアの航空会社はルフトハンザと同じような措置をこうじている。アメリカが自国民に、どういう根拠からか、事故原発から80キロ圏内からの退去を求めていることはご存じのとおり。まことに慎重というか、ごたいそうな判断だと思って敬服してしまった。ぼくは長いこと、いろんな情報収集とか総合的判断というのは自国よりも欧米(特にアメリカ)の方が強くて正確(客観的)だと信じていたのだが、今回の出来事ではこの考え方を変えた方がよいのではないかと思っていて、事実そうなることを強く願っている。

そんな欧米各国のことはよい。ぼくはまず東京に行かんならんので準備中なのである。ほんとはいまごろには引っ越ししているつもりだったが、3月中は動けないことになってまだここにいて、しかもにわかに忙しい。引っ越し先のインターネット配線は、宮城にNTTのなんとかがあって搬送できないとかでペンディング状態となった。冷蔵庫やらテレビやらは持って行くのがイヤなのでレンタルするつもりだったが、これもまたとつぜんの需要過多で借りられる見通しがつかなくなった。でもそんなのは、はしたこと。哲学なんぞいざとなればこの身ひとつでできるし、なによりもぼくの楽しみは東京の下町巡りなのだ(研究をしろ、研究を)。東京の下町はどこへも逃げないだろう。

by enzian | 2011-03-21 12:06 | ※テレビ・新聞より | Comments(0)

ほどほどのエゴイスト

自分のこのごろの行動の指針を書いておきたい。自分への備忘録のようなもの。

(1)自分の生活に支障をきたさない限りでできることをしておく。
(2)他人に迷惑をかけないのであれば、自分の喜びを切り詰めない。
(3)ましてや、自分の喜びを切り詰めることを他人に強いない。

具体的に書こう。(1)としては、こんなことを口に出すのもどうかと思うが、今月の生活が苦しくならない程度の義援金を送った。微々たる金額。個人で物資を送りつけるのは迷惑だろうし、どのみち物資には、いっときのインフルエンザワクチンのように膨大な余剰が出てくる。現金であれば、いかようにも必要なように、たとえば、ある一定の時期になれば復興のために、仮設住宅の費用にまわすなどしてもらえると思う。具体化したものの即効性は魅惑的だが、それだけでなく、抽象的なものの遅効性を含む融通性も必要なのだ。「金さえ出せばよいのか?」と聞かれれば、そのような問いを残念だと感じながら、「お役に立てず、申し訳ない」と答える。

(2)としては、たとえば、もう春キノコが出るかもしれないと近所をうろうろすることを止める必要なんて、ない。先日、卒業生たちと奈良巡りをして、夜は京都で生ビールを飲んだ。一瞬、予定を取りやめようかと思ったが、やめないでよかったと胸をなでおろしている。

(3)としては、たとえば、トガリアミガサタケがもう出ているかもしれないなどと、あやしく近所をうろつきまわる同好の士に、「こんな時期にトガリアミガサタケを探すとは何事か!不謹慎な」とか、先日の卒業生に、「寒い思いをしているひとがいるのに、なぜあなたは生ビールなどを飲んで体を温めようとするのか、痛みを共有しようとは思わないのか?」と説教するなら滑稽なことだ。寒い思いをしているひとなど、有史以来とぎれることなく五万とおられるし、人間の歴史が続く限りなくなることはないだろう。だとすれば、人類とは未来永劫、生ビールを飲めぬ種族となってしまう。こういう種類の説教は自分の心のなかで自分自身に向けることで自己満足を満たすことにとどめるのが穏当なのだ。いつもながら理屈っぽいことである。さぁ今日も、ほどほどのエゴイストとしてやっていこう。

by enzian | 2011-03-18 10:23 | Comments(0)

それぞれの道を。

b0037269_237525.jpg明日は卒業式。式は行われるが、祝賀会は中止となった。大学で働くようになって、はじめての事態である。

この1年は、やはりぼくが大学で働きはじめてから、もっとも進路決定のむずかしい年だった。就活に疲れ、傷ついていく学生たちを見るのはつらいものがあった。進路決定に翻弄され、最後の卒業式にいたって、この措置なのである。祝賀会でドレスアップするのを楽しみにしていたひともいただろうと思うと、切ない気持ちになる。

明日は例年のように、巨大な会場で、無数の人間が行き交うような華やかな祝賀会はない。とはいえ、お別れは静けさのなかにあるべきもの。しみじみ別れるのがよい。

by enzian | 2011-03-17 23:09 | ※キャンパスで | Comments(0)

一本

大学のパソコンに入っていたデータをUSBメモリーに移し換えた。このパソコンは置いていくのだ。こつこつと長い時間をかけてつくってきたデータだったから、小さなメモリー一本で足るか心配だったが、なんのことはない。メモリーの残量はありあまっている。不勉強だからだろうといわれればぐうの音も出ないが、このさきめいっぱい勉強しても、ぼくが作り出したデータなど、このメモリー一本を満たすこともできないだろう。

メモリーに移し換えて、心配になった。この一本が壊れてしまったら、これまで大学生活のすべてがなくなってしまうではないか。一本に賭けるというのは聞こえがよいし、それはしばしばぼくにとっても魅惑的に感じられるものなのだが、不必要にやると滅亡を早めてしまう。ぼくが学生として学んでいたころの大学は、さながら各種のはちゃめちゃな変人たちを陳列する博物館の情趣があったが、いまは均一の製品をつくる工場のようになった。そして困ったことに、こういう均一化、均質化の作業のいったんは自分も担っている。

by enzian | 2011-03-05 21:25 | ※キャンパスで | Comments(0)