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そうかもしれない。

b0037269_2138164.jpg「なつかしい(懐かしい)」という言葉を長く間違えていました。「なつかしい」は「心がひかれる」という意味なので、現在のことにも使えるわけですが、過去のことにだけ使う言葉だと思っていたのです。もちろん、「なつく」や「なつっこい」は現在のことにも使いますが、「なつかしい」というかたちで現在のことに使うのは、いまではあまり多くないのでしょう。こういう過去のことに向けての使い方が多くなるのは、「なつく」が「馴れ付く」に由来する言葉であることによるのかもしれません。

相手が人間と見れば誰彼なしに尻尾を振る、高度にひとなつっこいイヌならまだしも、ひとがなにかに「馴れ付く」ためには、すったもんだの時間経過が条件となります。そうした時間のなかにはさまざまな思いが詰まっていて、そうした過去の時間の重層のうえに、「馴れ付く」ということも起こったり、起こらなかったりするのでしょう。

このごろ思うことがあります。ぼくがなつかしいと感じるのは、こうした時間の重層が、なんとか隠そうとする努力にもかかわらず隠し切れずに、音も立てずに漏れてくるようなひとのようなのです。ここには自分の層を他人のものと同化しようとする危険な志向が働いているかのようです。いちおう社会人なのですからこういう嗜好はなんとかせねばならないのでしょうが、いかんともできず。まぁそれがばれてしまうようなドジは踏みませんが。

by enzian | 2011-04-29 21:42 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(0)

夢のなかで

雨音を聞きながらいたら、いつのまにか眠ってしまっていた。雨音が聞こえはじめると途端に安心して眠ってしまうくせはいくつになってもなおらない。つっぷして眠ってしまっていたので、額に眼鏡の痕がついている。不思議な夢だった。「これは自分の国である、とはどういう場合に言えるのか?」を考えているのであった。論文を書きながら居眠りしているときにまでそんな夢を見る必要もないのにと思うが、夢を制御できたためしなんかない。夢のなかで自分(?)が出したものながら、むずかしい問いだと思う。

自分も属するはずの大きな全体になにか大きな出来事が起きたときに、それが自分とは無関係な一部のひとの全責任によるものだと臆面もなく言えるひとたちが、もう少し丁寧に言うと、そういうことを言ってしまうときの自分が、ぼくはあまり好きではない。今回の震災でも、直接の被害を受けているひとが責任を求めるのはわかるし、またそうあるべきだと思うが、そうでもないお気楽なひとたちのなかで、すべての責任が現政府と一企業にのみある、と迷いもなく言えるひとがいるのを知って、自分とは考えがちがうなと思った。

自分がそこに含まれる全体であるなら、あるときは肯定することによって、あるときは反対することによって、あるときは絶望のなかで、あるときは気づかないままに全体のありようを認め、そこから意識的にせよ無意識的にせよ恩恵をこうむって、ときには甘い汁を吸っておいて、事が起きたとたんに、さぁすべての責任はお前にある私にはない、という言い方はぼくの趣味ではない。よしんば不承不承であったとしてもそのような全体を育ててきたのは自分でもある、という反省のかけらがどこにもない批判であれば、それは今回のことをまた自己の利益のために利用しているだけで、また同じような誤りを繰り返してしまう。

自宅に戻れないひとがいるのなら、その責任の一端は自分にもある。もちろん、だから自分も暖かい布団で眠らないようにしよう、などと言っているのではない。今後のさまざまな判断のなかで、そのような反省を生かすためにはなにができるのかを考えるのだ。全体は、小さな判断が積み重なって出来たものなのだ。眼鏡の痕はまだ消えない。

by enzian | 2011-04-28 18:08 | ※その他 | Comments(0)

郷里

b0037269_10232889.jpg朝から他の方の写真を見ていたら、半木の道(なからぎのみち)の桜があった。ここの枝垂れ桜はいちばん好きな桜で、大学の近くにあることもあって、春に一度は行く。学生時代からずっと。

今年は見られなかったと思っていたので、ネット上で見ることができ、嬉しいような悲しいような気分になった。この気分はなんだろうと考えてみたら、一種の郷愁かもしれないと思いついた。たった20日ぐらいでこんな気持ちを抱くとは、なんとも軟弱なと言うと思ったら大間違いで、ぼくは、かように繊細な自分をたいそう好んでいる。自分が好きにならないなら、こんな役立たずの難物、いったい誰が好いてくれるというのだ。いずれにせよ、京都など、その気になれば新幹線でピューっと帰ることができる。技術力とはかくも偉大である。

郷里にはぼくが愛するレンゲが咲いていて、ぼくが愛したひとたちが眠っている。そのようなところに暮らすことができること、いつもは暮らしていられないにしても、戻ろうと思えばいつでも戻れるということが、ぼくにとっては決定的に大切なことだ。そのような “定点" があることで、少々遠いところに向けてであろうと、前に踏み出すことができる。それはたぶん、ぼくだけの話ではないだろう。

by enzian | 2011-04-24 10:30 | ※その他 | Comments(0)

甘食

パン屋はやはり明治からということで、4代目らしいおじいさんはもう80歳に届いているのかもしれない。丸くなった背中で、当たり前だけど毎日パンを焼いておられる。甘食(わかりますか?)が置いてあって、いつか買ってみようと思っていた。先日、ケーブルテレビを見ていたら、その店が映っていて、甘食の紹介がされていた。そのあと店に行ったら、甘食がない。どうしたのですか?と言ったら、(放送があって売れすぎるから)しばらく作らないのだという。今朝もおじいさんのパンを食べた。なにも塗らずにまずかじってみた。

by enzian | 2011-04-22 22:11 | ※街を歩く | Comments(0)

そのうちゲロゲロ。

京都を出るような記事をここで何回か書いたら、卒業生の何人かから連絡があった。東京へ行ってもう帰って来ないのなら最後に挨拶でも、といった内容のメールたちである。そのうち戻るのだけど、そういうことを書いた記事をさっさと消しているものだからそんなことになる。一瞬、そうだね、もう帰らないからお元気でね、などと言おうとする^▽^)ウケケ的本性が出そうになるが、「在校生ならまだしも(?)、卒業したひとにぐらい誠実に対応しようではないか」と、いつも足裏で踏んづけられている不完全な良心が抵抗するので、やめておく。といっても、もう帰らないかもしれんけどね(^0^)/(それがいかんのだ)。

by enzian | 2011-04-18 23:22 | ※その他 | Comments(0)

個人商店

近所には大きなスーパーはないが、不自由しない程度にどんな店もある。みんな昔からある下町の個人商店で、大正や明治からやっているのだ、というところも多い。びっくりするほど美味しいコロッケを売る肉屋がある。けっこう有名らしい。肉類はここで買う。びっくりコロッケ肉屋の隣には店主厳選の魚貝を売る創業100年の魚屋。魚はここで。パンは、なんのてらいもない素朴な“パン"のみを売っている店で、豆腐と油揚げは豆腐屋で買う。今日は古い商店街にすてきな天ぷら屋を見つけた。おばちゃんと「江戸前」の概念について話す。

どこもここも、みんな話好きの店主ばかりで、立ち話がはずむ。魚屋の近くにある店は老夫婦がやっていて、創業85年。おじいさんの切れのある口調が楽しい。おじいさんとしてはいつもどおりに話しているだけなのだろうが、こちらには江戸の噺家(はなしか)にしか聞こえない。時代を越え、長くひとつの道に専念してきたひとたちと話すのは楽しい。

by enzian | 2011-04-12 23:40 | ※街を歩く | Comments(0)