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昔話

いま学校で起こっていることを話すのはむずかしい。書くにしても、よほどの慎重さが必要である。そんな理由もあって、けっきょく書くのは昔の追想ばかりになる。ただそれにしたって、小学生のころの話だけでなく、いろいろあった大学のころのことも書いてもよいものなのだが、ここにはほとんど書かない。

大学3年生のいまごろ、ぼくはときどき図書館で本を借りたりなんかして、大学の昔のことを調べようとしていた。カウンターには、いつも同じ職員さんが座っていて、ときどき書類を書きまちがえるアホ学生にも、やさしい物腰で接してくれた。そうやって、大学の昔のことを書いた本、昔の教員の論文や写真なんかを一日中見ていた。飽き足らずに、教員のところに行って、大学の昔の様子を聞くこともあった。それはちょうど、小さな子どもが大人に昔話をせがむようなものであったのかもしれない。

ぼくのなかに、その必要があるなら、昔の大学のことも書いてみようとする気持ちはあったと思うが、いまその必要を感じることはない。ほとんどの学生はめくるめく変化のなかでいまをやりすごす対処策を探し求めるのに忙しくて、昔の大学のことを考えているひまなどないのだろう。それどころか、彼らはたいてい、自分たちがそうした対処策の示唆を求めるために近づいている眼前の物体がどのような歴史をもった人間なのかも知らない。
(写真は求道会館、クリックすると大きくなります)

by enzian | 2011-05-30 23:45 | ※キャンパスで | Comments(0)

金魚とカラス

b0037269_21542351.jpgこちらに来てから、街角や路地裏のそこここに陶製の金魚鉢を見るようになった。そこにはたいてい、やっぱり金魚が泳いでいるのだけど、昨日見た一鉢にはメダカが泳いでいて、わぁ懐かしいと足を止めた。

その隣りの鉢には金魚が数匹入っているのだが、どう顔を近づけて見つめても、動かない。あれっ、おかしいぞ、おかしいぞと思っていたら、後ろから声がした。「だまされたね」。振り向くと笑顔があった。笑顔の後ろには古書店があって、そこの店主らしいひとであった。「ホンモノはね、子どもたちが手でぐるんぐるんして、みんな、ダメになっちゃった」。

手をぐるんぐるんしながら話す店主を見て、京都では見ないタイプの古書店主だなぁと思う。京都ではもう昔ながらの小さな古書店はほとんど全滅状態で、いくつか残っている大きな古書店はどこも、ドアをくぐった客をほとんど万引き予備軍としか考えていないのではないかとかんぐりたくなるような態度を示してくださる。分厚いレンズの眼鏡をかけた店主は番台(?ちがうよな)で本を読んでいるが、注意怠ることなくこちらをチラチラ見ている。信頼感なんぞ皆無なのだ。人間を信頼してないような手合いと付き合うのは難しいというか、どだい無理な話で、必要な本があれば、致し方なく、無言のままで番台のおやじのところへ行って、無言のままにお金を渡すという形で最低限の接触で用をすませる。

椎名誠の初期の本に『さらば国分寺書店のオババ』という本があって、この辺りからの影響もあって、ぼくは書店とか古書店とかの店員にうるわしき感情を抱いていない。ず~っと昔、ぼくがまだ学生だったころ、京都の小さな古書店でちょっと高い専門書を買ったことがある。ぼくはなんどか手にとってはあきらめて帰っていた。ある日、意を決して買おうと思ったとき、おばあさんは言った。「汚い本やから500円負けさせてもらいます」。そのとき以来かな、いい気分になったのは。そうそう、関係ないけど、数ある椎名の本のなかで学生のころ読んでいちばんいいと思ったのは『銀座のカラス』だった。

by enzian | 2011-05-24 21:57 | ※街を歩く | Comments(0)

ホームポジション

近所の通りにいったい何件の店があるのか、いまだにわからない。夜とおったときには開いていなかった店が昼間だと看板を出しているし、昼間は気づかなかったうなぎの寝床のような飲み屋が夜になると開いていて、こんなところ誰も来ないだろ、と侮ってちらりと覗いたら、ぐでっとしたおっさんたちが飲んでいる。のんべえたちには、いかに目立たない路地裏であろうと、居所を見つけるセンサーが備わっているのだろう。そんな飲み屋から出てきたおっさんがひとり、前を歩いている。右に左に大きく振れながら歩いていくので、これは千鳥足のイデア(そのものずばり)だなと思ったら、おかしくてしかたなかった。

あんまり大きく振れるものだから、車にでもひかれたら困るかな、手を貸した方がいいのかな、とちょっと心配しながら追尾していたのだが、どうもその必要はないらしい。大きく振れながら歩くおっさんの左右の振れ具合は一定していて、右に大きく振れたかと思うと、次はちょうど同じだけ左に振れていて、つねに “ホームポジション” に戻っている。おっさんはおっさんなりにすでに見事に一定の調和を保っているのだ。そしてそうやってちゃんと家にもたどり着くのだろう。そんなおっさんに、あぁそっちじゃないですよ、右には振れないようにしましょうね、とか、次の足はこっちに出して、そうしないと家に帰れないですよ‥‥なんてことを言い出したら、とたんにおっさんは歩けなくなってしまうだろう。

by enzian | 2011-05-19 21:26 | ※街を歩く | Comments(0)

私はWikipediaではない。

アドレスをあちこちでさらしているから、あちこちからメールがくる。いちばん多いのは中高生からのメール。哲学書についての質問や、どこそこの大学の哲学科にはどんな先生がいるのか?といった質問も多い。ぼくは営利目的でWeb上にアドレスをさらしているわけではないから、相手がどんなひとかまったく知らなくても(ほとんど無記名)、たいていの問いの内容について、自分が所属する以外の大学のことであろうと、知っていることはもちろん、調べてわかることは調べて伝えるようにしている。ひとりのメールの内容に半日をかけるようなことも少なくない。そんなの、立場上、あたりまえのことだ。

でもどうしたことだろうか。こちらからなにかを伝えても、それっきり、なしのつぶてなのである。原稿用紙10 枚にも及ぶ堂々たる “大作” を送っても、「わかった」の一言もない。こちらからすれば、送信ミスをやらかしたのではないか、鈍な自分のことだからきっとそうにちがいないと心配になって、なんども送信ボックスを確認する羽目になる。送ったことになっているから、情報さえ得られればそれでよいという生活信条のひとだったのだ、としか思いようがない。でもそんな風にあわてたのは数年前のこと。いまでは、メールを送ってくるひとの十中八九がそんなひとたちなのだ。たまに「参考になりました」なんて返してくる例外的なひとがいると、聖人に出会ったようなさわやかな気分になれる。

なしのつぶてさんが大の大人であればまだよい。営利が至上課題であるなら、しちめんどくさい礼節やらをわきまえるよりも、さっさと只で仕入れた情報をどう利用するか、つぎのステップに移るほうがスマートだろう。じっさい、こういう類(たぐ)いのメールはこれまで山ほどあった。そうして、展覧会会場で、企業HP上で、ふと読んだ雑誌記事で、ぼくがメールに書いた言葉そのままを自分の言葉として使っているひとたちを見つけて驚愕するのだ。だが相手が中高生なら、まだこちらも夢を追い求めて、というか、こちらの夢を押しつけてよいと思うのだ。フッサールを読もうとするのはよい。サルトルの『存在と無』にチャレンジするのもよいことだ。でもその前に、ひとの道をはずしてはいけない。あなたの液晶画面の向こうに座っているぼくはこれでもいちおう人間で、Wikipediaではないのだ。

by enzian | 2011-05-19 19:12 | ※その他 | Comments(0)

葦ちまき

b0037269_14383086.jpg近所の和菓子屋で、ちまきを買ってきた。「田舎ちまき」と書いてある。笹で包んだ三角形のもので、餅にはご飯の粒が残っている。新しい味だ。

ぼくの郷里では葦の葉を使っていた。葦は水辺に生える植物で、冬のあいだは枯れてしまうが、根は残っていて、春になるとみるみる緑色の芽を伸ばし、あっという間に岸辺を覆い尽くす。両脇にいっぱいの葦の葉を抱えて帰ると、祖母は練った米粉を葦の葉で包み、い草を使ってくるくる器用に巻いていく。見惚れるばかりの技だった。やがてちまきは蒸されて、葦のよい香りが辺りに漂う。砂糖をつけて食べる。何本でも食べられる。

祖母が亡くなって以来、祖母と同じ葦ちまきを食べたことがない。上品な半透明のものではなく白い餅で、砂糖は入っておらず、笹ではなく葦で包み、い草で巻いた細長い擂り粉木(すりこぎ)のようなちまき。あのとき見惚れてばかりおらず、巻き方を教えてもらっておけばよかったとも思うが、悲観してもいない。ぼくには、あのとき穴があくほど祖母の指先を見つめていた記憶が残っている。い草と、どこかでとってきた葦を前にすれば、自動的になにかがよみがえってきて、祖母と同じちまきを作ることができるだろう。ぼくは一度口にして美味しいと思った味を決して忘れない。もっとほかの記憶力がよければよかったのだけれど。

by enzian | 2011-05-05 14:58 | ※山河追想 | Comments(0)

「山で最期を迎えたい―ある夫婦の桃源郷」

二年ほど前に、「山で最期を迎えたい―ある夫婦の桃源郷」(山口放送制作)というドキュメンタリーを紹介したことがあります。どなたか覚えておいででしょうか。紹介しながらも、もう再放送されることはないかなと思っていたのですが、youtubeにアップされていることに気づきました(6本に分割してあります)。このような時期ですが、いやこのような時期だからこそ、ひとが慣れ親しんだ、大切な誰かと苦楽をともにした土地で生きることの意味を考えさせてくれる立派な作品だと思います。  1 2 3 4 5 6

by enzian | 2011-05-02 21:42 | ※テレビ・新聞より | Comments(0)