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週一の拷問

やりにくくてしかたない授業がひとつある。おかしい、おかしいと思ってはいたが、なぜなのか理由がわからず、ごまかしながら続けていた。ごまかしていたつもりだが、書き落としをしたりして、やはりミスが出てしまう。まじめに授業を聞いている学生に問題はない。問題はまちがいなくこちらにあるが、なぜその教室での授業だけ落ち着かないのかわからなかった。その理由が今週やっとわかった。授業中、教卓の両サイドにある窓ガラスに自分の姿が映るのだ。これまで大教室の授業を遅い時間帯にしたことがなかったから窓ガラスに自分の姿が映るというのは経験したことがなかったが、辺りが真っ暗になると、窓ガラスが鏡面のようになって講義者の姿を映し出してしまうのだ。

学生たちに向かって話していると、同時に、視界の両方の端に学生に向かって話している自分の姿が見える。ぼくはもともと自分の姿を見るのがキライだ。散髪屋にいっても、ほとんど鏡を見たことがないぐらいなのだ。しかも、視界に映るその姿は、おそるべきことに「教壇に立つ教師の姿」なのだ。〈自分=教壇に立つ者〉という自覚のまったくない、というかそれをひたすら避けてきたぼくには、これは拷問に等しい。

by enzian | 2011-11-26 22:59 | ※キャンパスで | Comments(10)

ウソは最低の防御なり。

b0037269_10115813.jpg誰しもそうだろうが、ウソが好きではない。自分はきわめて腹黒い人間だから、ウソで厚化粧して生活しているが、他人につかれるのは楽しくない。

ウソそのものがキライというより、ウソをついてバレないと思っているひとの了見が痛ましくて、残念でしかたないのだ。「痛ましい」なんて言葉がどれほど思い上がったいい方かはわかっているつもりだが、ぼくは正直だから、感じたままをいうしかない。ややこしいことをいうな。

つかざるをえない事情があるのだろう。事実を語れば関係を壊してしまう、苦労してつかまえた相手の信頼を失ってしまう、都合よく利用できなくなってしまう、と考えているひともいるのだと思う。じっさい、上手にウソをついておくほうが有利な相手も多いのかもしれない。だが、事情があるにしても、ぼくは見え透いたウソをつかれるのが世の中でいちばんキライなのだ。生理的に受けつけない。「私には包み隠さずほんとうのことをいって下さい」なんていうつもりはないし、いえる権利もないと知っている。だから、ぼくの心は、ウソでぼくとの関係を守ろうとしはじめたものをみたとき、なにもいわず、そこから去ってゆく。

by enzian | 2011-11-22 22:58 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(2)

紐帯

b0037269_16174957.jpg新幹線のホームでは多くのひとが電車を待っていた。なかにひとり、どうしても違和感をぬぐえないひとがいた。

正確にいえば、それは「ひと」というより、もっとべつの生きもののように思えた。彼は終始うすら笑っていた。ときおり周囲に目をやっているが、彼が見ているのはこの世界ではなく、スクリーンに映された影像なのではないか。彼の世界とスクリーンに映された世界はべつの世界で、スクリーン上の人間と彼が交わることはない。混じりあうはずのないものを意味もなくえんえんと見せられ続けている――そういう齟齬(そご)の感覚が彼のうすら笑いになっているのではないか、ぼくにはなぜかそんなふうに思えてならなかった。

電車がホームに入ることを告げるアナウンスが響く。まもなく電車が着いて、車両に乗り込もうとする姿を見てはっとした。彼と、彼の後ろから乗り込もうとする男性の手首は、太い綱で結びつけてあった。

by enzian | 2011-11-19 15:52 | ※その他 | Comments(0)

enzian深まる秋

ときどき中学のときの夢をみる。体操服に着替えようとしているのだが、うまく着替えられなくて、授業に間にあうかどうかはらはらしている夢。着替えてグラウンドへ走りだそうとするが、手足が鉛のように重くなって、うまく走れない。スローモーションのようになって、焦りに焦っているうちに目を覚ます。夢をつくっているのは自分だろうが、いったいこれでなにをいわんとしているのか、かいもく、わからない。こんななんの教訓にもならないような夢をみさせるぐらいなら、ぐっすり寝かしてくれよ、と自分に向かって話しかける。

夢ではないが、不思議とよく思い出すひとつの場面がある。暴風吹きすさぶなか、びしょ濡れになって、瀬田の唐橋をぼくと母と弟が歩いている。飛ばされまいと、足を道路にしっかりつけながらわたっていく。これは実体験で、それはそれは恐ろしく、不安で、暗かった。思い出というのはだいたいこんなふうで、とても苦労したとか、とてつもなく怖かった、といったことの方がはっきりと記憶に残ってしまう。いろいろ思い出すが、夜長のこの時期、たいていのことは、よくよく考えれば自分が悪かったのではないかなどと反省してしまう。やはり晩秋はいい。秋が深まるにつれてぼくが澄みゆき、ぼくが深まっていくのだ。

by enzian | 2011-11-14 22:28 | Comments(0)

ほの暗さ

暦のうえではもう冬になったというが、京都はこれから紅葉の時期を迎える。紅葉は美しいが、京都の秋はどこもかしこもひとだらけで、ゆっくり楽しむどころではない。むしろぼくが好きなのは紅葉もすぎた晩秋。そんな時期、落ち葉の絨毯が敷かれた森を歩くのは楽しい。静かな森には踏みしめた落ち葉のカサカサという音だけが響く。空気が冷えて、星の輝きは日に日に強くなり、海の水は澄んでいく。ハロウィーンがすぎればすぐにイルミネーションとジングルベルで埋め尽くされるのが晩秋から冬にかけての定番となりつつあるが、ハロウィーンとクリスマスのあいだにはしばしの静寂と “ほの暗さ” が欲しい。ほかの季節にはない晩秋のよさをしみじみ味わいたい。

by enzian | 2011-11-10 23:33 | ※自然のなかで | Comments(0)

観念

「授業中にとつぜん先生の目つきが鋭くなって、なにかを狙っているのだなと思った」。こちらのちょっとした目つきの変化で心の動きを察知されていたと聞いて、その鋭敏さに驚く。たしかにそのとおりで、そのときぼくは授業をしながら、あることのタイミングを狙っていたのだった。そしてそれはじつにろくでもないことで、そんな気持ちをほかの学生にも見抜かれていたのかもしれないと思うと、情けなくなった。ときどき盛り上がって、できるだけひとに迷惑をかけないで生きていきたいなどと願うこともあるが、たちまち無理だと思い知らされて、ほうぼうに迷惑をかけながらやっていくしかないと観念する。

by enzian | 2011-11-06 23:45 | ※その他 | Comments(0)

粘土細工

昔、ぼくが学生時代、いつも大教室のいちばん前の席に座って、ろくろく授業は聞かず、一心不乱に紙粘土で怪獣をつくっている学生がいて、ぼくらはそやつを「粘土」と呼んでいた。何度か話しかけようとしたが、けっきょく、粘土と話すことはなかった。

ひとの悩みらしきものを聞いていると、多くの場合、いかようにも脱出する方法はあるのだが、その方法を使わないようにしているのは悩んでいる当人だと感じる。場合によっては出口はいたるところにあって、一歩でも足を踏み出せば外の世界にかってに行ってしまうぐらいの状態なのに、まず足を石膏で固定して、ついでひとつひとつの出口を粘土で念入りに目止めしているようなひとたちをみると、悩みとは出口がないということではなく、そこにあるとわかっている出口を利用できない愚かさの自覚なのだ、とさえ思ってしまう。

当然、そういうひとたちに「出口はある」と伝えてもなんの意味もない。求められてもいないものを全力で提示し続けることを、ひとは「徒労」と呼ぶ。おそろしい言葉だ。こうした粘土や石膏の心当たりが自分にもあるのではないかと自問自答してみようともするが、めんどくさいので、自問自答の働きを粘土と石膏でびっちり固めておく。

by enzian | 2011-11-02 23:18 | ※その他 | Comments(0)

人差し指は覚えている

右手の人差し指にはふたつの傷あとがある。ひとつは釣り上げたタチウオに噛まれたあと。大阪湾の夜の防波堤でのできごと。噛まれたあとも根性で釣り続けた。もうひとつは、ずっと記憶をさかのぼる。小学校に入ったばかりのころであったか。近所には小さな水路があって、緑の藻が生え、細長い魚が泳いでいた。澄んだ水の底には、とこどろころ赤やオレンジ色が塗られた瀬戸物の欠片が沈んでいるのがみえた。

あるときぼくらはそれを拾い上げ、壁に投げては割っていた。隣にいた、誰であったかもう覚えていない少年が欠片を投げたとき、指先に強い痛みが走った。ぼくは指先に流れる赤い血をみて家へ走って帰ったように思うが、それは曖昧な記憶で、夢であったか現実であったか、わからない。記憶でたしかめることはできないが、指の傷はそれが事実であったと語っている。思い出すことはできないが、きっと泣いて帰ったぼくに驚いたひとがいて、手当してくれたひとがいたのだ。ときどき人差し指をみて、傷あとをなぞってみる。

by enzian | 2011-11-01 23:36 | ※山河追想 | Comments(0)