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閉店

b0037269_21342978.jpgそばの個人研究室をみれば、「閉店しました」という紙が貼ってある。部屋の主が去ったのだ。あまり話したことのないひとでも、一抹のさびしさがある。

昨日、久しぶりにいちばん好きな飲み屋に行ったら、ちがう店の看板がかかっていた。8月末で閉店したのだという。よりによって自分が東京にいるあいだに閉店することもないだろうにと思うが、ぼくもまた半年のあいだ、個人研究室の鍵を閉めたままにしていた。閉店していたのだ。なにかがなくなったり変わったりするとき、ぼくはいつもそこにはいない。

再開して半年しか経たないうちに、また4月から個研をほとんど“開店休業状態” にしなければならなくなった。残念なことに、ぼくはいくつかのことを並行してできるほど器用ではない。大学に損害を与えるわけにはいかないから、自分には研究はあきらめねばならないと言い聞かせて組み伏せようと思うが、学生が不利益を被るいわれはない。学生と話すときぐらいは開店できればいいのだけれど。

by enzian | 2012-03-27 22:45 | Comments(0)

出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもない

三月の半ば過ぎにある毎年の行事。華やかなことが苦手なぼくは、きらきらした式よりも、個研で4年間のことをしみじみ話したり、二次会に行って、ほろよい気分でこのさきのことを案じたりすることの方が大切だと思い込もうとするきわめて恣意的な自己弁護作業に忙しい。すいません、式は大切です。毎年この時期に思うのは、出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもないということ。一度出会ってしまえば別れることはないし、もともと出会ってもいないのに別れることなどない。この時期には、ふたつの意味での別れのなさが明確になって、錯綜する。

by enzian | 2012-03-17 11:25 | ※キャンパスで | Comments(0)

幻想

b0037269_2223949.jpg窓から賀茂川の見える店で食事をしていたら、黄緑色の小さな虫が入ってきたことがある。ぼくはすぐ、それがカワカゲロウの一種で、羽化してほどなくして死ぬ生きものであることに気づいた。

カゲロウは三本の尾毛をたくわえた尻尾を少しもち上げて、コップの縁にとまっている。ここは君の来る場所じゃない。逃がしてやろうと窓を開けたとき、ウェイターが来て、手にもっていた料理を置いて、カゲロウを捕まえようとした。

「逃がしてやってください」。「いえ、逃がすのです」。ウェイターは手早くカゲロウを外に出すと、キッチンに戻っていった。ぼくは片田舎で自然に囲まれて育ったから、ややもすると自分だけが自然のことを知っていて、自分だけが生物のことを知っていて、自分だけが生命の大切さをわかっていて、自分だけが生命愛護的であるかのようにカンチガイしてしまうことがある。

by enzian | 2012-03-09 22:05 | ※自然のなかで | Comments(3)

「お疲れさまです」の意味

授業での授業(教室での多数を相手にする指導、の意味で使ってみる)や学生指導(研究室等での個別の指導、の意味で使ってみる)が終わると、学生から「お疲れさまです」と言われることが多くなった。「あざーっす」と発音する学生もいる。ほとんど、クラブやアルバイトさきでの乗りなのだろう。昔はなかった用語法だし、少し引っかかりがあるので自分ではなるべく使わないようにしているが、やはり使わざるをえない。これ以外にひとをねぎらう言葉が思いつかないのだ。なにに引っかかっているのか、以下に箇条書きにしてみる。

(1)授業にしても学生指導にしても、ぼくはボランティアでやってるわけではなく、実質的には、学生たちが払う学費から給料をもらってやっていることなのだから、学生がぼくの行為をねぎらう必要はない。(もちろん、学校は利潤追求を至上命題とする企業ではないから、そんなこと承知したうえでなおねぎらってくれる気持ちこそ、大学らしい心のやりとりだと思っている。)

(2)授業にしても学生指導にしても、ぼくは給料が欲しいからやっているのではなく、個人的動機としては、趣味の一環としてやっている(こういうことをいうと、職業意識がないとか難癖をつけるひとがいるだろうが)のだから、ねぎらう必要はない。これはとくに学生指導に当てはまる。

(3)教室での授業ごとき、大した仕事量でもなく、また特別にむずかしいことではない(ちなみに授業をバカにしているわけではない。学生指導とは困難さのレベルが違うと言っている)ので、ねぎらう必要はない。(学生指導には高度の能力が必要だと思うが、(1)(2)の理由からねぎらう必要はない。)

というわけだが、ひょっとすると「ねぎらう」には「労(ねぎら)う」だけでなく「祈(ね)ぐ」の意味も含まれているのかもしれない。だとしたら、学生たちは「お疲れさまです」というねぎらいの言葉で、「もっとしっかり授業や指導をして欲しい」と言っていることになり、やや(゚◇゚)~ガーンとなり、にわかに問題は緊迫の度を増してくる。

by enzian | 2012-03-05 23:13 | ※キャンパスで | Comments(0)

寸鉄

b0037269_225055100.jpg学生からの言葉がずっと心に残ってしまうことがある。ここ二年ほどでもふたつあった。ひとつは、いまここで詳しくいうわけにはいかないが、初心を忘れかけていたぼくの胸を刺す寸鉄となった。

夜半、怠け心がおこったとき、ぼくはこの言葉と、そのときの学生の切なげな表情を思いだして、なんともいえない気分になる。その願いを果たせないなら、自分がいま大学にいる必要はない。それはたしかなことだ。だがそれにしても、それを果たすことは可能なのだろうか。自分にそんな能力があるのだろうか。そんなことを考えつつ、ぼくはまた、もう少しだけと、誰もまともに認めることなどないであろう研究のために、古ぼけた書物を読み進める。

by enzian | 2012-03-02 22:57 | ※キャンパスで | Comments(4)