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サツマイモたち

アスパラとジャガイモを食って、こんな美味いジャガイモは食ったことがない、美味い、美味いと呻(うめ)いていたら、その土地のひとは言いましたな。「いまは(冬越しして)貯蔵したジャガイモの最後の時期なので美味しいのです」。そうかアスパラは採り立てのうまさであるにしても、このジャガイモの甘さは長期保存によるものなのだ。思考を薄く覆っていたものが一枚するりとはがれて落ちて、地面でしゅわりと消えた気がした。バカだなおれは、いままでこんなことも知らなかったのだ。

以前、たった一度だけ家庭菜園でサツマイモをつくって、採り立てをゆでて食べて、その味のなさにがっかりして、二度とサツマイモなんか作るものかと思ったことがあった。いまから思えば問題なのはこちらにあって、あのときのサツマイモたちに悪いことをしたと、しみじみ申し訳ない気持ちになる。

by enzian | 2015-05-17 11:50 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

知的な謙虚さ

「学問をして、いったいなんになるのか?」あなたがそう問う理由はわかるような気がします。きらびやかに効力を示すことのできる学問分野はありますが、ぼくが勉強していることなんて、なんの役に立つの?と問われれば、いまここで明らかな証拠を見せることなんて、できないですもの。ひとの役に立とうと、ひとのためになにかをしようと懸命なひとたちをよそ目にして、こちらのやるべきことをするのにいっぱいで、役立たずの世間知らずで申し訳ないことです、と頭を下げるしかありません。

こういう書き方は、自分や自分の持ち物をあからさまには賞賛しない(おちゃらけた自画自賛はしますよ)ぼくの質(たち)によるものでもあるのですが、ひとつだけでも、学問をした結果として出てくるものとして書いておきたいと思うことはあります。知的な謙虚さということです。自分のことを棚に上げていえば、学者は、自分だけが真理の体得者であるかのような態度をとることを稚拙なものとして嫌います。なぜなら、なにかを明らかにするということは、それを取り巻く膨大な数の不分明に気づくことだからです。以下は、ニュートンが自分の生涯を振り返って語った言葉です。

I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. (私は砂浜で遊んでいる少年のようであった。ときおりいつもよりなめらかな小石やかわいらしい貝殻を見つけることに夢中になっているが、真理の大海原は究められないまま私の前に広がっているのだ。)

謙虚さというと消極的なようにも聞こえますが、この謙虚さは一転して知的な敢然(かんぜん)さともなって断固として自分と他人を守るものともなります。幸い、ぼくはそういうことを体現するひとたちに会うことができました。

by enzian | 2015-05-09 11:24 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(2)