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スピーチ

卒業生の結婚式に出る。卒業生の結婚式に出るのはたったの2回目。長く個研に「冠婚葬祭お断り」の張り紙をしていたからそういうことになる。

今日はスピーチをしたが、卒業生のスピーチを引き受けたのは初めて。結婚式でスピーチをしたのは人生で2回目。1回目は、あるときのたった一言でぼくの人間嫌いを揺さぶって、頑強な迷妄から抜け出るきっかけをつくった男の結婚式だった。若かったぼくはなんとかしてそいつの偉さを伝えようとした。そのスピーチの内容はいまでもそっくりそのまま覚えている。それは繰り返し練習をしたからではない。ひとをほめることのできたのがうれしくて、忘れようにも忘れられなかったのだ。

by enzian | 2016-05-29 23:02

一方通行

ここぞと思ったときには手紙を書く。手紙といっても紙面のものばかりではなく、ややこしい言い方をすれは、メールで手紙を書くこともある。なけなしの精神力を傾けて書いたような文章を「手紙」と呼んでいるのだ。それがどれほど短くいとしても。先日も一通、書いて出した。よかれと思って書いた。手紙であれば、出したあともそれを書くことに意味があったのかどうかと、いつまでもいつまでも考えている。手紙に返信が来ることはほとんどないから、何年も前の手紙のことをときどき思い出す。

by enzian | 2016-05-19 22:43

理由

今日は水出し緑茶ボトルをくれた人とお茶を飲む。水で出した緑茶は今日もまた上出来で、上等の玉露を飲んでいるかのようであった。これで、秋までお湯を沸かす必要はなくなったか。何度か話したことのある若い研究者が急逝したことを聞かされる。若くして矢継ぎ早に業績を積んできた人だったが、今から思えば、急がねばならぬ理由があった、ということになる。初めていっしよに飲んだときに、金子大榮や安田理深について話したことを覚えている。

by enzian | 2016-05-11 22:19

重力と恩寵

貧血で倒れたときの印象を、「神に見放されたような感じ」と言った学生がいたという話を聞く。自分はまったく糸が切れたかのような強い貧血に襲われたことはないが、とても興味深く聞いた。「糸が切れた」というのは、操り人形のようになにものかに操られている印象だから、適切ではないかな。「支えを失う」というのがよいか。誰しも地上で生きている限りは重力を受けて、それでようやく立ったり、座ったり、寝そべったりできているわけだから、そういう意味では、生きている限りはなにかからの支えを受けていることになる。いや、死んで物体になってもそこから免れることはできないか‥‥。もちろん、この文章はヴェイユの『重力と恩寵』とはなんの関係もない。

彼の地で書きためた文章を、もったいないから、ときどきここにも再録することにしよう。どんな拙い文章でも、そのときの自分の心の映しで、分身のようなものだから。「そのときの」ものだから、どうしても時系列はずれるけど。ちなみに、この文章は彼の地に書いたものではない。

by enzian | 2016-05-08 10:33 | ※キャンパスで

水出し緑茶

今日は奨学生候補の面接日。中途半端な時間に終わってしまって、さて、これからなにをしようかとお茶を飲んでいる。はじめて大学で水出し緑茶をつくってみたが、上手くできてご満悦なのである。お湯で出すのよりも、じっくり時間をかけて水から出す方がいいのかもしれない。お茶が旨ければ、大方それでよい。詳しいことは言えないが、とある学生が学生時代の自分とそっくりで驚いた。いやほんと、こんなに(学生時代の)自分に似た男は会ったことがない。「君はぼくか?ぼくなのか?」と言おうとして、言われても相手も困るだろうと思って、やめておいた。これから、人生、いろいろあるぞ。

by enzian | 2016-05-07 16:05 | ※キャンパスで

物見高い

親しく接したことはなかったが、あぁかっこいいなぁとちょと離れたところからちらりちらり見ていた先生がおられた。ときどき書かれる文章を読んで、その美しさと、切れと、じわじわと滲み出てくるなにものかにいつも「うわっすげっ」と、ほとんど中学生のようにはしゃいでいた。あるとき、その方が学校の近くの洋食屋さんでひとり座って食事をとっておられて、その凜とした姿にまたそういう思いを深めた。

その方はもう定年になって学校には来られなくて残念に感じていたが、その方にどこか似ていると思える、やはり女性の先生がおられて、ちょっと離れたところからちらりちらりと見ていた。あるとき、その方の講演を聴く機会があって、あぁまちがいなくこの方は学者なのだ、と改めて感じ入った。内容の学問性の高さだけでなく、その説明の切れのよさといったら、もう。有象無象たちはその片方も持ち合わせていないというのに‥‥。そしてまたあるとき、新しい試みをしたときにその方が見に来られた。「なんとも物見高いことで」と、ややはにかんだような顔で来られたのが印象的だった。想うに、あの学問性と切れのよさは、そういう含羞と同じものから生じたのではなかったのか。いずれにせよ、そのとき、ぼくは「物見高い」という言葉を覚えた。

by enzian | 2016-05-04 10:34 | ※キャンパスで

円筒形

いかん、連休だというのにいっこうに仕事がはかどらない。あれこれの締め切りが迫っているのに、なんだかんだと言い訳ばかりしている。半ば空気が抜けた風船のようになって、どこに行くでもなく、自宅でころころしている。それでまた、4年前より、より円筒形になったものだから、よく転げもするのだ。

こんなことではいかん、人間性を取り戻さねばならぬと、ハードディスクに記録してある平良修さんの番組を観る。ぼくはあんまりひとのことを褒めないけど、平良さんの言葉にはいつも動かされてしまう。今日もまたひとつ学んだことがあった。ここでは言わないけど。

それにしてもなんど観てもどうしても踏み込めないことがある。小さき者になにかをなすことが、すなわち神になにかをなすことであり、神を愛することでもあるということ。小さき者になにかをなすこと、そのこと自体には違和感を感じないが、小さき者を愛そうとするひとのなかにはしばしば、四六時中、自分より小さき者探しをしているのではないかと思える水晶のごとき瞳をもったひとがいて、その曇りのない瞳に違和感を感じることがあるのだ。ぼくはこの瞳の “やさしさ" に自己の尊厳を傷つけられたことがある。もうひとつは、ぼくはいまのところ、自分の外に小ささ探しをするのではなく、自分自身の小ささを見つめたい、と思っているから。もちろん、こうした違和感に理解不足が含まれていることは知っている。知っているが、それをまだ認めることができない。

by enzian | 2016-05-03 21:30 | ※その他

やり方しだい

いつもにこやかなひとが話しかけてくる。「せんせい、4年間お疲れさまでした。もう、ずっと続けられるのかと思ってました。それにしても、せんせいの仕事はみんなに嫌われる仕事だったから大変でしたよね」。まったく悪意のないその笑顔に、ただ「ありがとうございます」とだけ応えた。それにしても思うのだが、それ自体として嫌われるような職制なんてあるのかなと思う。今回のことでも、自分のやり方が拙かっただけで、もっと上手くできるひとがやればそんな風にはならなかっただろう。

by enzian | 2016-05-02 22:29 | Trackback