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「自分の意見」

むずかしい判断をしなければならないことはある。だけど、そのときに、(1)自分以外の人の意見を聞いてみる、そのうえで、(2)最終的には自分で判断する、という二つのことができる人は、当たり前のことのようでいて、意外に少ないと感じる。いつも(1)しかないのにそれをそのまま(2)であるかのように思い込んでいる人、逆に、(1)の回路がまったくない人もいる。ふだんは(1)(2)があるけど、なぜか、ここぞという判断のときだけ(2)が消失してしまう人もいる。こんな風にいろんな人がいるのにはいろんな理由があるのだろうけど、「自分の意見」というのは、(1)を経た(2)以外にはないと思う。それはふだんの人間関係であろうと学問の世界であろうと同じことだろう。

by enzian | 2016-08-30 23:31 | ※その他

スルメ

この三日間でほとんどすべてのエネルギーを使い果たす。もう話す気力も、お風呂に行く気力もなくて、黙ったまま、床の上でスルメのように伸びている。床が冷たくて心地よい。その昔、立派な学者になりたいと思っていた。自分が立派な学者にならない可能性などほとんどまったくない、とまじめに思っていた。洗面所でカネタタキが鳴いている。すまない、今日も君を保護できそうにない。

by enzian | 2016-08-25 23:08

初侵入

昨夜、今年度はじめてのカネタタキの侵入あり。捕獲しそこねて、夜中、キンキンと鳴いておりました。その鳴き声はよろしいのですが、我が家にはぴょんぴょんグモ(ハエトリグモ)が一匹おりますゆえ、ぴょんぴょん氏がカネタタキを捕獲する前に救助せねば。

by enzian | 2016-08-24 21:25

約束

映画『ガンジー』を観る。この映画を観ていつも思うのは、敵としての他者を克服するのは比較的やさしくても、同族への嫉妬や嫌悪を克服するのはほとんど不可能ではないかということ。敵としての他者を克服するためには共同やら協働やら結託ができる。良きにつけ悪しきにつけ、支え合いながらの闘いができる。しかし同族への上向きコンプレックスや下向きコンプレックスの克服はほかならぬ愚かな自分の自分自身との支えなき闘いで、孤独な闘いだからだ。正義感にもとづいた勇敢な闘いであればいかにも見栄えがよいが、誰しも見栄えのよくない情けない闘いなどしたくない。

だが、そうは言ってもガンジーは実際にそれをした人なのだろう。偉人とはいずれもこういうただならぬ孤独を乗り換えて、その孤独感を別のものに昇華した人たちなのだろうか。結果として、ときを超えて、あなたが闘う際の支えになるという約束をした人たちなのだろうか。

by enzian | 2016-08-20 11:34

意味づけをしないでおく、ということ。

オリンピックの放送をみていたら、やたらと競技者の物語を聞かせるようなアナウンサーがいて、思わず消音ボタンを押してしまった。さして知りもしない競技者について、お父さんがどうたら、なくなったお母さんとの約束がどうたら、スポーツと人間ドラマをなにかと結びつけようとしているのだが、知りもしないなら、素になって競技をアナウンスせよ、と思ってしまうのだ。いつからはじまった傾向なのかわからないが、とくに民放ではこういう「人間ドラマ化して、出演者を意味づける」という手法がまかりとおっている。対象のことをよく取材して伝えることは大切なことだろうし、物語のなかに落とし込んで意味づけよう、理解しようとすること自体は人を理解しようとする態度として問題ではないが、それが行きすぎて知りもしない者に勝手な意味づけをすることになれば、それは暴力以外のなにものでもない。

事実、実況放送のなかでも勝手に作ったストーリーのなかに競技者を落とし込んで、「それっ○○、いまこそお母さんとの約束を果たすときだ!」みたいな自己陶酔型の実況をえんえん続けられると、さらにインタビューでの質問までそんな感じだと、アホかと興ざめしてチャンネルを変える。そういうのは競技者自身が言うことであって、会ったこともない者がわけ知り顔で言うことではないのだ。さらに、こういう意味づける手法があまりにまかりとおると、「人間ドラマのないタイプのスポーツはスポーツでない、涙のないスポーツはスポーツではない、だからもっとドラマ化せよ」といった風潮まで出てこないだろうか。民放が好んで応援するスポーツ的なものにはそんなことはないだろうか。ときと場合と立場によっては下手な意味づけをしないでおく、という抑制も必要だと思う。

by enzian | 2016-08-18 16:37 | ※テレビ・新聞より

すでにつながってしまっている。

「人と人がつながる」というのは、必ずしも友好的にみえるとか、波風が立たないとかいうことではないだろう。もちろん、つながっているという実感があって見た目も友好的な関係であるということはあって、その方が好ましいに決まっている。が、たしかにどこかでつながっているという実感があるのだけど、残念ながら見た目も、中層的なところ(どこ?)でも反発やら敵対心やら嫉妬やら恨みやらが渦巻いていて、ようやくどこか別のところ(どこ?)で結びついているか、線のはじまりとはじまりが近くにあって微弱に影響を及ぼし合っているぐらいだ、ということがよくあるような気がする。

見た感じは友好的な関係にある人たちがいるが、そういう人たちであれば必ずつながっているとはいえない。互いにまったく関心もなく、感化し合うこともないが、利害関係があったり、義務関係があったりしてつき合っていることも現実としてある。それは当たり前のことだ。だが逆に、利害関係も義務関係もなく、友好的でないと見える人たちであっても、まちがいなくつながっていると確信のもてる人たちがいる。そういう人たちのなかには頻繁に会うわけでもないし、声を聞くことも、ひょっとしたらもう顔を合わせることもないと思える場合もあるが、いつかあるときにつながってしまっていて、それはもう切れることがなく、いまもたしかにどこかでつながったままなのだ。それは、いわゆる「腐れ縁」といったものではない。

ぼくは関心がない人の文章を読もうとしないから、たぶん同じようにぼくに関心のない人はぼくの文章を読もうとしないだろう。もし、ぼくがこのブログに書いている文章をひそかに(ひそかでなくてもいいけど)読み続けてくださっている方があるなら、その方は幸か不幸か、もうぼくとつながってしまっている人なのだろうと思い込んでいる。いや、それでまちがいないだろう。

by enzian | 2016-08-16 10:27 | ※その他

禁忌

バス停で待っていたら、どこからか樹液の匂いがしてきた。クヌギやコナラの樹液の匂いだ。バス停は公園に接していて、見ればコナラが生えている。幼いころは夏となればひまさえあれば森に行って、クワガタを追いかけていた。幹から滲み出る樹液は甘いような酸っぱいような匂いを辺りに漂わせている。そこではオオムラサキやヨツボシケシキスイやスズメバチやクワガタが争うようにして樹液を吸っていて、クワガタだけをそっと捕まえて野球帽に入れる。そのころの少年たちの頭髪には、決まってちょこんとクワガタが乗っていた。

だがお盆の時期になると「ゲンジトリ」は禁じられた。森へ行けばいくらでもクワガタが採れる時期だったから、少し手を伸ばせば採れるクワガタが採れないというなんとも解せない時期でもあった。いつか禁を破ってやろうとも思っていた。祖母は「お盆には地獄のかまのふたが開く」と言っていて、その言葉がお盆に独特の、わずかに淀んだような空気を与えていた。長く禁忌の理由が、先祖が帰ってくる時期に殺生をするのは先祖への体面上避けるべきだと考えられているからなのだろうと思っていたが、あるとき、お盆には先祖が小動物に姿を変えて帰ってくるのだと聞いて、肝を冷やした。

by enzian | 2016-08-14 22:06

知らない。

昨日は父の初盆だった。実家に帰って掃除をした。父と同級生だという人が来て、父方の祖父のことに触れた。「なんにもしゃべらん人やった」。それは、父の葬儀のときに「耳が悪くて兵役が免除になった」ということを聞いて以来のわずかな情報だった。祖父は線路での作業中に、おそらくは近づく電車に気づかずに跳ねられて亡くなったのだ。それを推測させることを一度だけ母が漏らしたことがある。父は一度も祖父のことを話さなかった。ぼくの三人の祖父はみな早く亡くなっていて、ぼくはいずれの仔細も知らない。

by enzian | 2016-08-14 21:43

十分

オープンキャンパス。保護者だけが関心を示して、話して、子ども(高校生)はなにも話さないというパターンが増えてきて、なんとも言えない気分になる。親の目を見て話しながら、同時にちらちらと子どもも見ながらなにかを伝えようとする。話し終わってどっと疲れようとしたとき、それまでなにも話さなかった子がぽつりと言った。「おもしろかった」。

by enzian | 2016-08-07 07:43

日傘

今日はあまりの日差しについに日傘を差した。日傘といっても、本当の日傘ではなくて雨傘を代用した。男性用の日傘も売っているらしいが、日傘=涼やかな和装をした貴婦人、というアホな脳内変換装置が働いてしまって、今日まで買わずにいたっている。

by enzian | 2016-08-05 12:11