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紫陽花のこと

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寺に行ったら紫陽花が咲いていた。ガクアジサイというのだろうか、花全体がそれほど大きくはなく、中央に密集したつぼみのひとつひとつの色が微妙にちがっている。ぼくが幼いころはこんな繊細なものはなくて、紫陽花といえばもっと大作りのものだった。知らなかっただけなのかもしれないけど。

母の郷里では昼間はおじやおばたちは仕事に出ていて、幼いぼくはひとり留守の家にいた。狭くて、子どもが遊ぶようなものはほとんどない家だった。この小さな家で母とおじ2人とおばが育ったというのは信じがたいことだった。ぼくはおじが帰ってくる夕方まで延々と待ち続けた。部屋には母の父が書いたという色紙がかかげられていて、難しい字が書いてあった。漢詩であったか。

粗末な書棚がひとつ置いてあり、『旅』という雑誌が10冊ほど並んでいた。他にやることがなくて繰り返し読んだ。陽光きらめく沖縄へなんていうような記事はなくて、ひなびた信州のランプの宿‥‥みたいな、白黒の印象の記事が多かった。おばに妻籠に連れて行ってもらったことがあったから、雑誌はおばのものだったのかもしれない。たしか司馬遼太郎がコラムを書いていて、その文章の調子が心に残っている。

読み疲れると、家を出て隣のガレージに行った。紫陽花が植わっていて、その芽の部分を摘み取って遊んだ。冬にはそれを家に持ち込んで、ストーブの上で焼いたりもした。焼くといやな匂いがした。いやな匂いがするならやめておけばよいものを、毎日そんなことをしていた。その紫陽花は梅雨時になると大きな花を咲かせた。

by enzian | 2017-06-12 22:53

この時期になると‥

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沖縄に行きたくなって困ってしまいます。ほどなく沖縄は梅雨明けするからです。ダイビングとかシュノーケルとかそういうのはけっこうでして、昼間は地味にうじうじして、夕方からは泡盛を飲んで、夜な夜な宿屋を抜け出して星空を見にいく、というような生活がしばらくしてみたいのです。てぃんがーら(天の川)が見えれば最高。沖縄の一地方には、冬瓜を切ったときに出てきた大量の水が天の川になった、という言い伝えがあります。これに似た伝承は沖縄以外にもありますが、瓜にはなにか象徴的な意味があるのかもしれませんね。(ちなみに画像は沖縄ではありません。)

by enzian | 2017-06-11 23:14

酔い覚ましの水

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前回の記事の続き。その会を終わって、帰りの電車のなかで酔い覚ましの水を飲みながら考えていた。ぼくはその問いに誰かの言葉を引用しながら、答えたような答えていないような返答をしたが、なぜそんなことをしたのだろうか。その問いは「あなたはどう考えますか?」と問っていたのであって、「歴史的権威がどう言いましたか?」ではなかった。そんなことはいかに酔っ払っていてもわかっていたはずだし、ぼくのなかにその問いへの "ぼくなりの答え" はあったから。

問いに答えようとすることは大切だが、それがなぜそこで問われたかを問うことも大切なのだ。問う者にも問われる者にもそれぞれいわく言いがたい積み重ねがあって、そんななかで二人がまじり合い、またとない問いが立ち上がる。その瞬間を台無しにしてしまったのではないか‥‥そんな想いにとらわれていた。「ひととの出会いに次はない」と言われるが、ひとからの問いにも次はないと思う。

by enzian | 2017-06-11 11:10

おちおち絶望もできないなら

「彼が絶望してもなおも一歩を踏み出したのはなぜか?」と問われた。もう一歩も踏み出せないことが絶望の意味であるなら、その問いが意味したのは、「彼がいったんは絶望しても、また時を経て一歩を踏み出そうとしたのはなぜか?」あるいは「絶望しそうな状況にもかかわらず絶望せずにいたのはなぜか?」だったのだろう。本当のことを言えば、「絶望しちゃいけない」、「いったん絶望してもなお一歩を踏み出さねばならない」なんて、他人にも自分にも言うつもりはない。それっきり尽きてしまうこともあるだろうから。もっと言えば、いつでもどこでも絶望できる余地、絶望できる自由があることがかえってひとを救うのではないかとさえ思っている。おちおち絶望もできないようなら、今日を生きることもままならないではないか。

by enzian | 2017-06-04 10:49 | ※キャンパスで