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菱と蓮

生まれてはじめて菱の実を食べた。昔、母が「栗のように美味しい」と言っていて、いつか食べたいと思っていた。泥が沈殿したような池に生えること、鋭い棘(とげ)が生えていることは知っていたから、「そんなものが栗の味のわけがあるまい」と、生意気なことを思っていた。こちらでは食べる習慣がなく、なかなか食べられずにいたが、先日、百貨店の食料品売り場に見つけて、買ってきた。ゆでて食べるらしい。ゆでて皮をむけば、ちょっとピンクいろがかった白い実で、なるほどば栗っぽい。食べてみたら、なんとこれがまぁ美味しいのだ。柔らかくゆだった部分は甘く栗のようで、堅めにゆだった部分はクワイのようだが、クワイのような苦みはない。ややアクがあるが、炊き込みご飯にしたら、栗ご飯との区別がつかなくなった。栗より歯ごたえがある分、美味しい気さえした。これほど美味しいものだとは。

仏教では泥深い池から生えて美しい花を咲かせることから蓮の花が珍重される。夏の朝、水面からぐいと身をもたげて艶やかに咲く蓮の花はたしかに抜群に美しいが、泥水のなかにあって滋味豊かに実る棘だらけの菱の実や、ずっと泥のなかで育つ穴だらけの蓮根が、美しくはないにせよ、より懐かしい。

by enzian | 2017-10-29 15:59

生ぬるいのはイヤなのだ。

とある書類を書いて精根尽き果てる。この時期、日本の研究者にはそういう課題があるのだ。ぼくは昔から重要な文章については、自分の書類であろうと他人の書類であろうと、自分の助けを頼りにして書いてきたのだけど、この書類はチェックしてくれる同僚がいたのでどこか気が楽なところもあった。あったが、書いて思ったのは「ミスっても、きっと誰かがチェックしてくれるだろう、てへぺろっ」なんて思っている限り、生ぬるい文章しか書けないということ。「もう誰もチェックしてくれない、全身全霊を傾けて1字の誤りも残さぬ」と思って書くぐらいで、ようやく誤字3つぐらい(!)にとどまる。チェックしてくれる人のありがたみもわかる。助けてもらった、と心から思える。

by enzian | 2017-10-23 21:57

大地の神話

なにを大切と思うかぐらい自分で決めたいから、誰しも他人から価値を押しつけられるのはいやだろう。ぼくも押しつけがましくされたくないのだが、自分が押しつけがましくしていないかと考えると、きっとしている。例えば、よくよく考えてみると、ぼくにはどのような人も〈歴史ある伝統的なもの〉が好きなはずで、〈自然〉が好きだと思っている節がある。そんなことだから先日も、はじめて話した院生たちに、「よしっ!寺に行こう」などと、押しつけがましいことを言ってしまっていた。自分としては院生の研究領域からしてプラスになると踏んだうえで言っているつもりなのだが、まったく大きなお世話である。

とはいえ〈歴史ある伝統的なもの〉なんてまだましな方で、たとえ生まれの偶然からいまは自然が好きでなくても、「いやしくも人間として生まれた限りはいずれは自然を愛すべきで、大地と触れあうべきである」ぐらいのことを信じ込んでいる節がある。そしてそれを全方位的に展開しているから、周りの者からすれば迷惑な話である。ぼくは山里で育ち、実家には土間があり、周囲は田んぼに囲まれていた。幼いころ、まだ道路は舗装されておらず、砂利道だった。それらは自分にとって大きな意味をもっているが、だとしても、コンクリートやアスファルトで固められた家で土地で生まれ育ったことになんの不利があるというのか。なにゆえ、水や土くれを愛でることに付き合わされねばならないのか。自然が好きなら、ひとりで草むらに転がって野草と遊んでおればよいのである。

by enzian | 2017-10-09 21:44

「真理は二人からはじまる」

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「先生って徒党を組まないですね」と言われたことがある。そう言われてどう答えたかは覚えていない。徒党というのは自分の目的をかなえるための頭数なんだろう。実際、そういうのは知らず知らずにやってしまっているだろうけど、意識してやりたいとは思わない。お世話になった先生が言っておられた。学者が徒党を組むなどというのは決してしてはいけないこと。だけど、孤立するのもいけない。「真理は二人からはじまる」。孤立するのではなく一種の人間愛(この辺の表現はやや専門的)にもとづいた交流が必要である、と。そのとおりだと思うし、先生は言うだけでなく実際にそうしておられた。実際にそうしておられたから、ぼくもそうしたいと思って教師になった。初心はそうだったんだ。

by enzian | 2017-10-09 18:12

スピーチの後悔

卒業生のスピーチをする。卒業生のスピーチをしたのは、たったの2回目。長く冠婚葬祭を断っていたものだからそういうことになる。もちろん、そんなに好かれる先生でもないので、ますますそういうことになる。学生側からすればそういうことだが、教員としても、もし頼まれればスピーチしたいと思う学生もいるし、頼まれても避けたいと思う学生もいるし、頼まれなくてもしたいと思う学生もいる。この辺りの区別は、成績のよい学生であるとかないとかいうのとはまったく別のことで、なんとも説明しがたい。あえて言えば、こちらの心に痕跡を刻んだ学生であれば、スピーチしやすいし、してみたいとも思うのかもしれない。

長く卒業生からの結婚式の招待を断っていたのでスピーチを頼まれて断ったこともほとんどないが、1例だけ断ったことがある。この卒業生の結婚式への参加が結婚式不参加の禁を棄てるきっかけになったのだが、参加はしたがスピーチは断ってしまった。頼まれなくてもスピーチしたい学生だったのになぜしなかったのかと、いまでも「結婚式」という言葉を聞く度に後悔している。

by enzian | 2017-10-03 22:11