それなりの努力が必要

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学生たち(女性)が話している。「女性専用車両は加齢臭を吸わなくてすむので助かる」。本当に「助かった~」といった顔をしながら話す学生の横顔を見ながら、彼女たちがふだんいかに加齢臭に悩まされているのかがわかって、はっとした。そんなに辛い思いをしているのか……。妙齢の男性としてひとに迷惑をかけないで生きていくためには、ただ自然体でいるだけではだめで、それなりの努力が必要なのだ。それは致し方ないことなのだが、それにしても、自分と違う立場にあるひとの気持ちを理解するのはむずかしいね。(写真は嵐電の妖怪電車、怖い写真ではありませんよ。怖いけど。)

# by enzian | 2017-01-08 17:47

1000投稿目 (≧o≦)ノ~''オメデトでちゅ♪

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というわけで、1,000投稿目です。2004年の5月30日がはじめての投稿でしたから、ここまで12年半ぐらいかかりました。ぼくって継続性あるよなぁと、自分で祝って自分で喜ぶという自己完結型のお祝いをしております。

今日は写真ではなくイラストを添付します。ブログの初期のころ、たくさんコメントを書いてくれた座敷童氏に描いてたもらったものです。なぜぼくが羊になっているのか……その意味をわかる人はもういないかもしれませんね。座敷童さん、その節はありがとう。正直、いまどのような方がこのブログをみておられるのか、わかりません。いまはわからないのですが、このブログがきっかけになって知りあった人はたくさんいました。ブログをみて哲学科に来ました、という人も相当の数になります。

記念の投稿をどういう内容にしようかと思ったのですが、あまりいい手が思いつきませんでした。思いつかなかったので、これを区切りとすべく、個人的に印象に残っている過去の記事を、タグをつけたもののなからちょこちょこと選んで、下にあげておきます。もうほんとうに単なる自己満足にすぎません。

■おちゃめなやつ。
①ちょっとウェットなトロピカル気分 http://enzian.exblog.jp/16010513/
②ホームポジション http://enzian.exblog.jp/15576650/
③全身クッツキムシ男の怪 http://enzian.exblog.jp/9876272/
④眼に沁みる香り http://enzian.exblog.jp/4639780/

①と②は東京時代に書いたもの。②は近所で千鳥っていた酔っ払いの話です。②で書いたような東京の飲みの文化から少しずつ馴染みはじめて、すっかり東京が好きになりした。③と④は書き方が似ていますね。ばかなことを書いているようで、実際にばかなことを書いているのですが、柔軟に多角度からあれこれ考えるという意味ではいちばん哲学的な記事なのかもしれません。

■哲学的ではありませんが、ぼくにとっては忘れられない情景を描いたもの。
⑤善知識 http://enzian.exblog.jp/17442267/  
⑥すべてを捨てる http://enzian.exblog.jp/14176175/
⑦鍬 http://enzian.exblog.jp/13090261/
⑧ミーニャ http://enzian.exblog.jp/12914831/
⑨バレンタインデーの贈り物 http://enzian.exblog.jp/12836663/
⑩プランクトン http://enzian.exblog.jp/12486008/
⑪ヘッドライト http://enzian.exblog.jp/12078408/
⑫「利他的衝動」 http://enzian.exblog.jp/10756001/
⑬小さな出来事 http://enzian.exblog.jp/7892301/
⑭書くということ http://enzian.exblog.jp/7659358/
⑮サワガニとモクズガニ http://enzian.exblog.jp/3964604/
⑯どうしようもないことも、ある http://enzian.exblog.jp/3095188/
⑰ストライク http://enzian.exblog.jp/2231693/
⑱美と崇高 http://enzian.exblog.jp/1609343/
⑲立派なおっちゃんを見た http://enzian.exblog.jp/1037115/
⑳学問との出会い http://enzian.exblog.jp/675918/

⑤はぼくの大学時代の二人の恩師について書いたものです。残念ながらお一方は鬼籍の人となられましたが、いまでもぼくにとっての変わらぬ善知識です。⑥はぼくが敬愛するキリスト教の聖人、アッシジのフランシス(フランチェスコ)について書いたもの。⑦と⑫は祖母ですね。⑨~⑫は母がかかわっている。⑬は大学の職員さんについて、⑰はぼくの親友について、それぞれ一瞬にして揺さぶられた出来事を。二人は気づいていないでしょうけど。⑲がなぜ印象に残っているのかこれまで不思議だったのですが、ごま塩頭のおっちゃんは、どうも父に似ているらしいといまになってわかりました。外見の話です。そして、20個あげた記事のなかで最も印象に残っているのがじつはこの記事なのです。ぼくはこのおっちゃんのような人になれたら……と思ってやってきたのです。なれないですけどね。

そんなわけで、これまでありがとうございました。これからもよろしくお願いいたします。

# by enzian | 2016-12-31 17:40 | ※その他

喧騒に身を置く

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久しぶりにエキサイトブログの知り合いの方々のブログをみてまわったら、知らぬうちにブログを閉じておられる方がいて、しまったと思った。「しまった」と思ってどうしたかったのかはわからないけど。ぽつぽつ続いているブログもあるが、以前のように頻繁に更新しているのはほとんどなかった。そうだろうと思う、ぼくがブログをはじめて12年以上が経つのだから。10年もあれば生活はいかようにも変化する。いろいろな事情があるだろうから、ブログを書き続けられるというのは少数だけなのかもしれない。もちろん続けないといけない理由なんてまったくないし、ブログとは別の媒体で、ブログ以上に盛んに活動しておられる方もあるのだろう。

ぼくはと言えば、途中ほとんど更新しない時期があって適度の休みになったのか、このブログをぽつぽつ書きはじめている。facebook も twitter もしたことがあったが、積極的にはなれなかった。広くブログも含めてSNSというのは自己承認欲を満たすための道具なんだろうけど、スピードの速いSNSには他者の欲求が生のままに出ていてウゲゲとなってしまうことがある。自分は自分で、よく考えずもせずに拙速に欲望を顕示するものだから、書いた後にもっとうまくアピールしたらよかった……と地団駄を踏むことになる。LINEなんか一回書いてしもたら消せへんやないかと突如、関西弁になってしまうぐらいしっくりこないのだ。グループは喜んでやってるけどね(どっちなんだ)。

今年の年末はお正月の準備がないので、大学からの持ち帰り仕事も手をつけることもなしにぼ~っと年の瀬を迎えている。お正月を迎えるとなるとデパートに行っておせち料理の食材を探したりとか、注連飾りを買ったりとかすることも多いのだが、そういう行事がぽっかりと抜けているのだ。明日が大晦日で明後日からお正月という気分がない。大晦日から正月というのは過ぎ越し1年を静かにしみじみと思う時間なのだろうけど、それに至るためには、一度、アメ横やら黒門市場やら錦市場に行って喧騒に身を置くという “禊(みそ)ぎ” が必要なのかもしれない。

# by enzian | 2016-12-30 11:52

その根を知りたい

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棟方志功展に行ってきた。「二菩薩釈迦十大弟子」の現物を観ることができてうれしかった。白黒の作品だけでなく、美しい色使いを観ることができた。そして棟方の版画を観て、関係ないけど、小さいころから見てきた滝平二郎の版画もいいなと思った。『三コ』が山に腰掛けている姿とか、『八郎』のすっくと立った姿とか、『花さき山』の山姥(的なおばあ)の倒れそうな具合で立っている姿なんかたまらんのだ。それと、棟方が生まれ育った青森に行ってみたいと心から思った。ある人の郷里を知りたいと思ったとき、ぼくはすでにその人のことが好きになっている。

# by enzian | 2016-12-28 16:51

作務衣

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中退した彼がとつぜんやってきた。作務衣を着ていて、細身によく似合っている。「一度着たかったから着ました」と言う。「遠いところからやってきて、ぼくがいなかったどうしたの?」と尋ねたら、「書き置きして帰りました」とこともなげに答えた。先日も、ちがう卒業生が書き置きを残していったばかりだった。ぼくからすれば、せっかく来てくれた人を会わないままで帰してしまうなんてぞっとするほどいやなことなので、メールしてくれたらよかったのに……と思ったが、それはぼくの都合なのだ。

思えば在学中も、いつも彼は個研に来るときあらかじめ連絡することなく現れた。それが彼の心遣いなのだ。ぼくが長く付き合うことになる学生には、無駄なくスケジュールを確認したうえで来る人よりも、とつぜん現れる人が多いような気がする。

# by enzian | 2016-12-26 22:02

与えられるはずのなかった時間

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別れを告げた年だったと書いたら、心配して声をかけてくれた人がいた。今年は、父をはじめとして親族を多く送った年だったのだ。生身の親族と別れたことが応えたのはもちろんだが、ある日、墓参りに行ったらあるはずの墓が忽然と消えて更地になっていたことがあって、なにがなんやらわからなくなったこともあった。従姉妹の墓がなくなっていたのだ。後から聞けばどこかに移動したということだったが、いつも墓参りの度に花と線香を手向けてきた墓であったから、応えた。

生まれて1年せずに逝った従姉妹の墓はお地蔵さんの形をしていて、くちびるには赤が入れてあった。かわいらしいお母さんの子どもだったから、君が大きくなったらどれほどかわいらしくなったことか……いつもそう話しかけながら線香に火をつけた。そして、その従姉妹のお父さんも亡くなった。父と兄弟だとは思えないほどに、穏やかでやさしい方だった。

ただ、多くの人を送ったさびしい年であっても、感謝したこともあった。ホスピスに入った父と時間をすごせたのだ。何十年も放置した息子を父は責めなかった。ぼくも父がしたことを責めなかった。ぼくは幼いころから、与えられるはずのものがなぜ与えられないのかということを問いにしてきていて、そしてそれを根にもってもきた。だが今回与えられたのは、二人がしてきたことを差し引き計算すれば決して与えられるはずのない、ある意味で不条理だと思えるほど穏やかな時間だった。与えられるはずのないものが条理を越えて与えられたことへの感謝の気持ちを忘れることは、生涯ないだろう。

# by enzian | 2016-12-24 16:02

境目

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旭川の最高気温が-7度だと言っている。三浦綾子の世界だなあと思ってしまった。

生まれ育った自然環境が人の考え方に影響を及ぼすことがあるのかどうか。内陸の旭川ではないが、冬の寒さ厳しい北陸ゆえに粘り強い、内省的な思想が生まれた……といった類いのことはしばしば耳にする。本当なのだろうか。暑すぎずも寒すぎずもない、乾燥しているわけでもなければ、しばしば台風に襲われるでもない、国境に面してもいない地域に育った自分にはよくわからない。和辻の『風土』は何度か読んだが、なにか印象に残ったかと言われると、なにも答えられることがない。だが、なぜか境目というか、ぎりぎりのところにはときどき、たまらなく行きたくなる。たまらなくなって行って、そしてどことなしか安心して戻って来る。

# by enzian | 2016-12-11 10:54

NHK映像ファイル「あの人に会いたい」

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NHK映像ファイル「あの人に会いたい」の川端康成の回を観た。三島由紀夫との対談ではしきりに自分を「怠け者」だと言っている。三島が切り込もうとするが、「怠け者」だと言うばかりで、とりつく島がない。あまりよい感じはしなかった。

印象に残ったのは三島だった。作品だけでなく、日常からあんな言葉づかいをしていたのだ。わずかな時間話しただけでも、この人はこれまで人類が使ったことのない表現を使っているのではないかと思ってしまうような人がいるが、三島はそういう人なのだろう。でも、あんなにも鋭ければ、それはそれですぐに周りに批評するものがなくなってしまう。

「あの人に会いたい」はときどき観る。声が聞きたくなることがあるのだ。声には活字からは読み取れないものが入っている。オープニングとエンディングの音楽、イラストも好きだ。バイオリンが鳴り、時計が逆回りをして、去って行った人たちが10分間だけ戻ってくる。自分の一年を振り返れば、いろいろなことが終わった年だった。心のなかでたくさんの別れを告げた。さびしい一年だった。

# by enzian | 2016-12-05 22:13

運命

はっとするような見方、感じ方をするような人がいて、そういう人にはついつい意見を求めたくなる。それは流行や評判に流されることなく自分で判断する人で、また、人間の弱さもよく知っている人なのだけど、そういう人はどんな世代にもいる。若い学生のなかにもいて、ぼくはそういう人の意見をそれとなく聞いて参考にしている。「それとなく」というのは、参考にしているのがばれると警戒されてしまうから。そういう人のなかには自分がいまを生きていることに居心地の悪さを感じている人がいる。孤立感や、罪悪感を感じている人さえいて、ばれると、参考にされるに値するような意見を無理に言おうとしたり、もっと感覚を鋭くしないといけないと考えはじめる。

でも、ぼくがそれとなく参考にしている人の見方や考え方は昨日今日に出来上がったものではなく長い時間かけて形作られたもので、自然と外に出てきてしまうようなもの。にわかに取り繕えるものでもなければ、まして消し去ることはできないようなもの。だから、どうあがこうと、その人がなにかを感じ、考え、話す限り、ぼくの参考にならないことはない。

# by enzian | 2016-10-31 21:17

教育能力欠如

久しぶりに講義形式の授業を担当するようになって、ある異変に気づいた。自分のゼミ生が1人も受講していないのだ。学生は自分が好きな先生、自分が尊敬する教員の授業をとるものだから、いまの自分が置かれている状況が推して測れるというものである。しかしそれにしても、いままでこんなことはただの一度もなかった。あっそうそう、今日、「他の授業の抽選に漏れて仕方ないから先生の授業をとっていいですか?」と真顔で相談に来たゼミ生が1人いた。もちろんオーケーした。オーケーして、いろいろな意味で自分の教育能力のなさにひとしきり落ち込んだことは言うまでもない。

# by enzian | 2016-10-25 23:20

七福神

カレーに福神漬けが合うことに改めて気づいた。誰か知らないが考えた人はえらいと思う。七福神と言えば、昨日、米俵ではなく、裏向けになった蓮の葉の上にいる大黒さんの像があることを知った。蓮の葉を表向きにすると水がたまってしまって人びとが溺れてしまうからだという。ずいぶん利他的な話しだが、個人的に七福神はみな、なにがしかの欲望が前面に出すぎているような気がしてやや怖い。申し訳ないが、黒光りした布袋さんとか大黒さんとかが暗闇に立っていたらダッシュで逃げる。

# by enzian | 2016-10-16 22:40

990

いつのまにか記事の数が990になっていた。はじめて10年以上になるのだからそういうことにもなる。いやむしろ、毎日書いていた時期もあったから遅すぎるくらいか。いずれにせよ、今年中には記事数が1000に達するだろう。1000本目の記事のときには、(≧o≦)ノ~''オメデトでちゅ♪とひそかにお祝いするのである。

# by enzian | 2016-10-01 21:55

セイタカアワダチソウ

沖縄に大手のコンビニが進出するらしい。小さな個人商店や共同売店が好きで、行く島の共同売店と御嶽(うたき)の所在から旅の計画を立てる自分からすれば、どこに行っても学内のコンビニと同じような景色が展開するばかりなら、旅気分が失せてしまうのでなんとかならんものかと思っている。ぼくも、おばあさんが一人で肉も魚もお菓子も日用品も扱っているなんでも屋が一軒しかなかった地域に住んでいたから、同じものが欲しいという気持ちはわかる。その地域に一軒のコンビニができたときの感動はいまも忘れられない。コンビニができたころは、夜半に何度、意味もなく自転車で行ったことか。
共同売店なら、地域の人たちはそれぞれ出資の負担もあるからコンビニの進出を歓迎するのは当然だろう。コンビニと小さな個人店や共同売店の共生は困難に思えるが、まれにしか訪れない単なる旅行者がとやかく言える立場にはないのだが、同じ価値を求めるさいにそこにもともとあったものを無くしてしまうと単なる画一物しか残らないことになって、いっときは便利でも結局そこを選ぶ理由がなくなってしまい、滅亡を早めてしまう。あちらでもそちらでもあるものだけではダメでここにしかないものを、さらには、それなりに満たされた人なら自分しか知らないそこにしかないものを求めて移動していく。郷里のなんでも屋はコンビニの出店とともに廃業し、そのコンビニがあった場所も、いまはセイタカアワダチソウが生えて風に揺れている。

# by enzian | 2016-09-25 21:59

邂逅

いい文章を書く方だなあと感心しながら読んでいる。ある言葉を検索していて偶然出会ったブログの話である。10年以上前の文章でほとんど毎日のように書いてあるが、どの文章もおもしろい。「深い」という言葉は日ごろは使うのを避けるようにしているが、この人の文章はさりげない表現を使いながらも、来る日も来る日もなにかに鋭角に切り込んでいて、いや自然と切り込んでしまっていて、さすがのぼくも深いと言わざるをえない。かと思うと、ときどきユーモアのある文章がふわっと盛り込まれていて、ただでさえ深い文章をさらに引け立てている。よくもまあ来る日も来る日もこんないい文章を書けるものだと思いながら、気がつけば、仕事そっちのけでそのブログを読み進めてしまっていた。もちろん、このブログのことなのである。

# by enzian | 2016-09-25 15:13

布団の上

発熱とぎっくり腰で2日間大学を休講にするという失態を演じる。2日連続で休講にするのははじめて。結石以外の体調不良で休講にした記憶もほとんどない。熱で寝ていたら立てなくなっていた。今日は全国父母兄姉懇談会。全国から保護者が集まる。熱は下がったのでなんとか行かねばならない。まずどうやって立ち上がるか、言うことを聞かない腰をさすりながら、布団の上で思案している。

# by enzian | 2016-09-24 07:05

役割

夜遅く喉がかわいて台所に行ったらカネタタキを発見した。君も喉がかわいて水場に来ていたのか。しばらく鳴いていなかったので心配していた。ドタバタしてなんとか捕獲し、庭に放す。君たちがなぜ侵入しようとするのかはぼくにはかいもくわからないけど、もう入って来ないように。なぜか今年は、これでもう自分の役割は果たしただろうと思うことがよくあった。そしてその仕事がむだでなかったらよいのにと思うことがよくある。

# by enzian | 2016-09-05 21:30 | ※その他

曰く言い難し

ものの捉え方、たとえばものをどういうふうに覚えているのか、いや、日常流れてくる音をどういうふうに感じるかでもいいし、食べものの味をどんなふうに感じるかでも、匂いをどういうふうに感じているかでもいい。そういう日常の当たり前のものの捉え方が自分と他人とでどう違うのかということを考える機会をもっと早くもつように働きかけてもらえないか。自分と他人との違いを「わがまま」とか「強情」とか「変わり者」に詰め込んでしまって、もうそれ以上なにも考えようとはしなくなって、考えさせようとする刺激も与えられてこなかった大人に、一から説明し、解きほぐして組み直してもらうとする作業があるとすれば、その際のいかんともしがたい手遅れ感をどう表現すればよいものか。

# by enzian | 2016-09-02 23:58 | ※その他

「自分の意見」

むずかしい判断をしなければならないことはある。だけど、そのときに、(1)自分以外の人の意見を聞いてみる、そのうえで、(2)最終的には自分で判断する、という二つのことができる人は、当たり前のことのようでいて、意外に少ないと感じる。いつも(1)しかないのにそれをそのまま(2)であるかのように思い込んでいる人、逆に、(1)の回路がまったくない人もいる。ふだんは(1)(2)があるけど、なぜか、ここぞという判断のときだけ(2)が消失してしまう人もいる。こんな風にいろんな人がいるのにはいろんな理由があるのだろうけど、「自分の意見」というのは、(1)を経た(2)以外にはないと思う。それはふだんの人間関係であろうと学問の世界であろうと同じことだろう。

# by enzian | 2016-08-30 23:31 | ※その他

スルメ

この三日間でほとんどすべてのエネルギーを使い果たす。もう話す気力も、お風呂に行く気力もなくて、黙ったまま、床の上でスルメのように伸びている。床が冷たくて心地よい。その昔、立派な学者になりたいと思っていた。自分が立派な学者にならない可能性などほとんどまったくない、とまじめに思っていた。洗面所でカネタタキが鳴いている。すまない、今日も君を保護できそうにない。

# by enzian | 2016-08-25 23:08

初侵入

昨夜、今年度はじめてのカネタタキの侵入あり。捕獲しそこねて、夜中、キンキンと鳴いておりました。その鳴き声はよろしいのですが、我が家にはぴょんぴょんグモ(ハエトリグモ)が一匹おりますゆえ、ぴょんぴょん氏がカネタタキを捕獲する前に救助せねば。

# by enzian | 2016-08-24 21:25

約束

映画『ガンジー』を観る。この映画を観ていつも思うのは、敵としての他者を克服するのは比較的やさしくても、同族への嫉妬や嫌悪を克服するのはほとんど不可能ではないかということ。敵としての他者を克服するためには共同やら協働やら結託ができる。良きにつけ悪しきにつけ、支え合いながらの闘いができる。しかし同族への上向きコンプレックスや下向きコンプレックスの克服はほかならぬ愚かな自分の自分自身との支えなき闘いで、孤独な闘いだからだ。正義感にもとづいた勇敢な闘いであればいかにも見栄えがよいが、誰しも見栄えのよくない情けない闘いなどしたくない。

だが、そうは言ってもガンジーは実際にそれをした人なのだろう。偉人とはいずれもこういうただならぬ孤独を乗り換えて、その孤独感を別のものに昇華した人たちなのだろうか。結果として、ときを超えて、あなたが闘う際の支えになるという約束をした人たちなのだろうか。

# by enzian | 2016-08-20 11:34

意味づけをしないでおく、ということ。

オリンピックの放送をみていたら、やたらと競技者の物語を聞かせるようなアナウンサーがいて、思わず消音ボタンを押してしまった。さして知りもしない競技者について、お父さんがどうたら、なくなったお母さんとの約束がどうたら、スポーツと人間ドラマをなにかと結びつけようとしているのだが、知りもしないなら、素になって競技をアナウンスせよ、と思ってしまうのだ。いつからはじまった傾向なのかわからないが、とくに民放ではこういう「人間ドラマ化して、出演者を意味づける」という手法がまかりとおっている。対象のことをよく取材して伝えることは大切なことだろうし、物語のなかに落とし込んで意味づけよう、理解しようとすること自体は人を理解しようとする態度として問題ではないが、それが行きすぎて知りもしない者に勝手な意味づけをすることになれば、それは暴力以外のなにものでもない。

事実、実況放送のなかでも勝手に作ったストーリーのなかに競技者を落とし込んで、「それっ○○、いまこそお母さんとの約束を果たすときだ!」みたいな自己陶酔型の実況をえんえん続けられると、さらにインタビューでの質問までそんな感じだと、アホかと興ざめしてチャンネルを変える。そういうのは競技者自身が言うことであって、会ったこともない者がわけ知り顔で言うことではないのだ。さらに、こういう意味づける手法があまりにまかりとおると、「人間ドラマのないタイプのスポーツはスポーツでない、涙のないスポーツはスポーツではない、だからもっとドラマ化せよ」といった風潮まで出てこないだろうか。民放が好んで応援するスポーツ的なものにはそんなことはないだろうか。ときと場合と立場によっては下手な意味づけをしないでおく、という抑制も必要だと思う。

# by enzian | 2016-08-18 16:37 | ※テレビ・新聞より

すでにつながってしまっている。

「人と人がつながる」というのは、必ずしも友好的にみえるとか、波風が立たないとかいうことではないだろう。もちろん、つながっているという実感があって見た目も友好的な関係であるということはあって、その方が好ましいに決まっている。が、たしかにどこかでつながっているという実感があるのだけど、残念ながら見た目も、中層的なところ(どこ?)でも反発やら敵対心やら嫉妬やら恨みやらが渦巻いていて、ようやくどこか別のところ(どこ?)で結びついているか、線のはじまりとはじまりが近くにあって微弱に影響を及ぼし合っているぐらいだ、ということがよくあるような気がする。

見た感じは友好的な関係にある人たちがいるが、そういう人たちであれば必ずつながっているとはいえない。互いにまったく関心もなく、感化し合うこともないが、利害関係があったり、義務関係があったりしてつき合っていることも現実としてある。それは当たり前のことだ。だが逆に、利害関係も義務関係もなく、友好的でないと見える人たちであっても、まちがいなくつながっていると確信のもてる人たちがいる。そういう人たちのなかには頻繁に会うわけでもないし、声を聞くことも、ひょっとしたらもう顔を合わせることもないと思える場合もあるが、いつかあるときにつながってしまっていて、それはもう切れることがなく、いまもたしかにどこかでつながったままなのだ。それは、いわゆる「腐れ縁」といったものではない。

ぼくは関心がない人の文章を読もうとしないから、たぶん同じようにぼくに関心のない人はぼくの文章を読もうとしないだろう。もし、ぼくがこのブログに書いている文章をひそかに(ひそかでなくてもいいけど)読み続けてくださっている方があるなら、その方は幸か不幸か、もうぼくとつながってしまっている人なのだろうと思い込んでいる。いや、それでまちがいないだろう。

# by enzian | 2016-08-16 10:27 | ※その他

禁忌

バス停で待っていたら、どこからか樹液の匂いがしてきた。クヌギやコナラの樹液の匂いだ。バス停は公園に接していて、見ればコナラが生えている。幼いころは夏となればひまさえあれば森に行って、クワガタを追いかけていた。幹から滲み出る樹液は甘いような酸っぱいような匂いを辺りに漂わせている。そこではオオムラサキやヨツボシケシキスイやスズメバチやクワガタが争うようにして樹液を吸っていて、クワガタだけをそっと捕まえて野球帽に入れる。そのころの少年たちの頭髪には、決まってちょこんとクワガタが乗っていた。

だがお盆の時期になると「ゲンジトリ」は禁じられた。森へ行けばいくらでもクワガタが採れる時期だったから、少し手を伸ばせば採れるクワガタが採れないというなんとも解せない時期でもあった。いつか禁を破ってやろうとも思っていた。祖母は「お盆には地獄のかまのふたが開く」と言っていて、その言葉がお盆に独特の、わずかに淀んだような空気を与えていた。長く禁忌の理由が、先祖が帰ってくる時期に殺生をするのは先祖への体面上避けるべきだと考えられているからなのだろうと思っていたが、あるとき、お盆には先祖が小動物に姿を変えて帰ってくるのだと聞いて、肝を冷やした。

# by enzian | 2016-08-14 22:06

知らない。

昨日は父の初盆だった。実家に帰って掃除をした。父と同級生だという人が来て、父方の祖父のことに触れた。「なんにもしゃべらん人やった」。それは、父の葬儀のときに「耳が悪くて兵役が免除になった」ということを聞いて以来のわずかな情報だった。祖父は線路での作業中に、おそらくは近づく電車に気づかずに跳ねられて亡くなったのだ。それを推測させることを一度だけ母が漏らしたことがある。父は一度も祖父のことを話さなかった。ぼくの三人の祖父はみな早く亡くなっていて、ぼくはいずれの仔細も知らない。

# by enzian | 2016-08-14 21:43

十分

オープンキャンパス。保護者だけが関心を示して、話して、子ども(高校生)はなにも話さないというパターンが増えてきて、なんとも言えない気分になる。親の目を見て話しながら、同時にちらちらと子どもも見ながらなにかを伝えようとする。話し終わってどっと疲れようとしたとき、それまでなにも話さなかった子がぽつりと言った。「おもしろかった」。

# by enzian | 2016-08-07 07:43

日傘

今日はあまりの日差しについに日傘を差した。日傘といっても、本当の日傘ではなくて雨傘を代用した。男性用の日傘も売っているらしいが、日傘=涼やかな和装をした貴婦人、というアホな脳内変換装置が働いてしまって、今日まで買わずにいたっている。

# by enzian | 2016-08-05 12:11

あからさま

関心のないひとと義務感にかられて話しているときと、話して楽しいと思えるひとと話しているときとでは、自分の雰囲気はあからさまに変わっているのだろう。いい大人だからそういうのはうまく隠さないといけないのだけど、隠し切れないときがある。ちなみに、関心のないひととは人間的な価値観をやりとりできないひとのこと。なんらかの事情によって相手からはなにも飛んでこないし、こちらから飛ばしても相手側には受け入れる準備や能力がない。そう、そこにはまるっきり交流がない。価値観を出し入れする communication が成り立たず、そういうことをする場としての community が発生しない。事実をありのままに言えば、得るものも与えるものも皆無なのだから、話しても個人的には時間の無駄ということになる。ただし、教師としてはそうも言ってはいられないから、冒頭の義務感を唯一の推進力にしてのろのろ進む。

# by enzian | 2016-08-03 23:34

言葉

自分の言葉に自分がもっている以上の力がこもってなにごとかをなして欲しい、と切に願った。もちろん、そんなの、ありえないことなのだけど。

# by enzian | 2016-07-21 23:29

一喜一憂

危惧していたことは危惧のとおり、失敗に終わった。今回は祖母のことに触れてしまったので、居眠る高校生たちを前に、祖母に申し訳ないと思いながら話していた。生徒が居眠るのは、100%、居眠るような授業をした教師の責任なのだ。ひどい出来の授業をして自分が恥ずかしい思いをするのは自業自得だからよいが、勝手に授業の材料にして祖母に傷をつけたという意味で、またぼくは大学の代表として授業をしたわけでもあるわけだから、大学に泥を塗ったという意味で、手痛い失敗をおかしてしまった。もう一度チャンスがあればなんとかできるかもしれないが、授業にもう一度のチャンスはない。

昨日はオープンキャンパスで、なんにんかと話した。1年振りで会った高校生がずいぶん大人になっていて、驚いた。話を聞いていると、いろんな壁があって乗り越えてきたらしい。大学の教員が高校生を相手にして一喜一憂することがあるなんて思いもしないことかもしれないが、事実はそうなのである。

# by enzian | 2016-07-18 17:55 | ※キャンパスで