匂いとトラウマ

少しずつ気温が上がってくると、苦手な匂いをしばしばかぐことになる。汗をかいた服を洗わずに何日も着ているような人の匂い。以前はほとんど気にならなかったのだが、一昨年、福井に高校訪問に行ったときに車両全体に鼻が曲がるほどの悪臭をただよわせている人がいて逃げるに逃げられなくて困ったとき以来、この匂いに敏感になった。匂いもまたトラウマに繋がるのだ。

# by enzian | 2016-06-02 23:58

スピーチ

卒業生の結婚式に出る。卒業生の結婚式に出るのはたったの2回目。長く個研に「冠婚葬祭お断り」の張り紙をしていたからそういうことになる。

今日はスピーチをしたが、卒業生のスピーチを引き受けたのは初めて。結婚式でスピーチをしたのは人生で2回目。1回目は、あるときのたった一言でぼくの人間嫌いを揺さぶって、頑強な迷妄から抜け出るきっかけをつくった男の結婚式だった。若かったぼくはなんとかしてそいつの偉さを伝えようとした。そのスピーチの内容はいまでもそっくりそのまま覚えている。それは繰り返し練習をしたからではない。ひとをほめることのできたのがうれしくて、忘れようにも忘れられなかったのだ。

# by enzian | 2016-05-29 23:02

一方通行

ここぞと思ったときには手紙を書く。手紙といっても紙面のものばかりではなく、ややこしい言い方をすれは、メールで手紙を書くこともある。なけなしの精神力を傾けて書いたような文章を「手紙」と呼んでいるのだ。それがどれほど短くいとしても。先日も一通、書いて出した。よかれと思って書いた。手紙であれば、出したあともそれを書くことに意味があったのかどうかと、いつまでもいつまでも考えている。手紙に返信が来ることはほとんどないから、何年も前の手紙のことをときどき思い出す。

# by enzian | 2016-05-19 22:43

理由

今日は水出し緑茶ボトルをくれた人とお茶を飲む。水で出した緑茶は今日もまた上出来で、上等の玉露を飲んでいるかのようであった。これで、秋までお湯を沸かす必要はなくなったか。何度か話したことのある若い研究者が急逝したことを聞かされる。若くして矢継ぎ早に業績を積んできた人だったが、今から思えば、急がねばならぬ理由があった、ということになる。初めていっしよに飲んだときに、金子大榮や安田理深について話したことを覚えている。

# by enzian | 2016-05-11 22:19

重力と恩寵

貧血で倒れたときの印象を、「神に見放されたような感じ」と言った学生がいたという話を聞く。自分はまったく糸が切れたかのような強い貧血に襲われたことはないが、とても興味深く聞いた。「糸が切れた」というのは、操り人形のようになにものかに操られている印象だから、適切ではないかな。「支えを失う」というのがよいか。誰しも地上で生きている限りは重力を受けて、それでようやく立ったり、座ったり、寝そべったりできているわけだから、そういう意味では、生きている限りはなにかからの支えを受けていることになる。いや、死んで物体になってもそこから免れることはできないか‥‥。もちろん、この文章はヴェイユの『重力と恩寵』とはなんの関係もない。

彼の地で書きためた文章を、もったいないから、ときどきここにも再録することにしよう。どんな拙い文章でも、そのときの自分の心の映しで、分身のようなものだから。「そのときの」ものだから、どうしても時系列はずれるけど。ちなみに、この文章は彼の地に書いたものではない。

# by enzian | 2016-05-08 10:33 | ※キャンパスで

水出し緑茶

今日は奨学生候補の面接日。中途半端な時間に終わってしまって、さて、これからなにをしようかとお茶を飲んでいる。はじめて大学で水出し緑茶をつくってみたが、上手くできてご満悦なのである。お湯で出すのよりも、じっくり時間をかけて水から出す方がいいのかもしれない。お茶が旨ければ、大方それでよい。詳しいことは言えないが、とある学生が学生時代の自分とそっくりで驚いた。いやほんと、こんなに(学生時代の)自分に似た男は会ったことがない。「君はぼくか?ぼくなのか?」と言おうとして、言われても相手も困るだろうと思って、やめておいた。これから、人生、いろいろあるぞ。

# by enzian | 2016-05-07 16:05 | ※キャンパスで

物見高い

親しく接したことはなかったが、あぁかっこいいなぁとちょと離れたところからちらりちらり見ていた先生がおられた。ときどき書かれる文章を読んで、その美しさと、切れと、じわじわと滲み出てくるなにものかにいつも「うわっすげっ」と、ほとんど中学生のようにはしゃいでいた。あるとき、その方が学校の近くの洋食屋さんでひとり座って食事をとっておられて、その凜とした姿にまたそういう思いを深めた。

その方はもう定年になって学校には来られなくて残念に感じていたが、その方にどこか似ていると思える、やはり女性の先生がおられて、ちょっと離れたところからちらりちらりと見ていた。あるとき、その方の講演を聴く機会があって、あぁまちがいなくこの方は学者なのだ、と改めて感じ入った。内容の学問性の高さだけでなく、その説明の切れのよさといったら、もう。有象無象たちはその片方も持ち合わせていないというのに‥‥。そしてまたあるとき、新しい試みをしたときにその方が見に来られた。「なんとも物見高いことで」と、ややはにかんだような顔で来られたのが印象的だった。想うに、あの学問性と切れのよさは、そういう含羞と同じものから生じたのではなかったのか。いずれにせよ、そのとき、ぼくは「物見高い」という言葉を覚えた。

# by enzian | 2016-05-04 10:34 | ※キャンパスで

円筒形

いかん、連休だというのにいっこうに仕事がはかどらない。あれこれの締め切りが迫っているのに、なんだかんだと言い訳ばかりしている。半ば空気が抜けた風船のようになって、どこに行くでもなく、自宅でころころしている。それでまた、4年前より、より円筒形になったものだから、よく転げもするのだ。

こんなことではいかん、人間性を取り戻さねばならぬと、ハードディスクに記録してある平良修さんの番組を観る。ぼくはあんまりひとのことを褒めないけど、平良さんの言葉にはいつも動かされてしまう。今日もまたひとつ学んだことがあった。ここでは言わないけど。

それにしてもなんど観てもどうしても踏み込めないことがある。小さき者になにかをなすことが、すなわち神になにかをなすことであり、神を愛することでもあるということ。小さき者になにかをなすこと、そのこと自体には違和感を感じないが、小さき者を愛そうとするひとのなかにはしばしば、四六時中、自分より小さき者探しをしているのではないかと思える水晶のごとき瞳をもったひとがいて、その曇りのない瞳に違和感を感じることがあるのだ。ぼくはこの瞳の “やさしさ" に自己の尊厳を傷つけられたことがある。もうひとつは、ぼくはいまのところ、自分の外に小ささ探しをするのではなく、自分自身の小ささを見つめたい、と思っているから。もちろん、こうした違和感に理解不足が含まれていることは知っている。知っているが、それをまだ認めることができない。

# by enzian | 2016-05-03 21:30 | ※その他

やり方しだい

いつもにこやかなひとが話しかけてくる。「せんせい、4年間お疲れさまでした。もう、ずっと続けられるのかと思ってました。それにしても、せんせいの仕事はみんなに嫌われる仕事だったから大変でしたよね」。まったく悪意のないその笑顔に、ただ「ありがとうございます」とだけ応えた。それにしても思うのだが、それ自体として嫌われるような職制なんてあるのかなと思う。今回のことでも、自分のやり方が拙かっただけで、もっと上手くできるひとがやればそんな風にはならなかっただろう。

# by enzian | 2016-05-02 22:29 | Trackback

限度

目の前にいる人間に関心をもたずに、そのひとが自分にどんな利益をもたらしてくれるかだけに関心のあるひと、つまりひとを自分の道具としてしかみられないひととは、それほど長くつきあうことはできない。そこにはおのずと限度がある。もちろん、仕事(ビジネス)としてなら、なにごともない顔をしてつきあい続ける。自分は教員をひとりの人間としてやっているのだろうか、それとも、ビジネスとしてやっているのだろうか。「そんなの一方だけに決められるわけ、ない」といったわかったようなわかっていないような声がどこかから聞こえてきて、床に撥ねつける。

# by enzian | 2016-04-24 07:27 | Trackback

四月

大学がはじまると「やさしくない、やさしくない」と、まったくうるさいことである。そんなこと、言われなくともわかっている。ぼくは人生のベースを生クリームのようなやさしさには置いていないのだ。そんなわかり切ったことをなぜ個研にまで言いに来るのか理解に苦しむのだが、みな、やさしさに飢えているのかもしれない。なかには、一切の批判を拒絶している者さえいる。スィートな言葉のみをまだかまだかと待っているのだ。ぼくはきわめてタチが悪い極悪キノコだから、そういうひとには決してモンブランやらガトーショコラやらを投げてやらない。ぼくの個研に生クリームはないのだ。

そしてなおわからないのは、何時間も個研にいすわってやさしくないことを告げようとすることだ。批判される危険を賭してまで。聞き疲れて、時間を返して欲しい、と呻きたくなるときがある。ただし、生クリームには特段の関心はないが、沖縄のサトウキビは大好きで、個研をサトウキビ畑にできたら‥‥と思ったりする。

# by enzian | 2016-04-20 23:38

すぐ目の前

生死をかけた問題というのが医療現場だとか災害現場だとかにしかないような言い方をするひとの話を聞いて、自分とはずいぶん考え方がちがうなと思った。望遠鏡をメガネのレンズにして歩いているんじゃあるまいし、そういう問題はすぐ目の前にあるし、人間がいる限りどこにでもある。例えば、大学構内にも生死をかけた問題が闊歩していて、個人研究室にはそうした問題が出たり入ったり、ドアの前で待っていたりする。

# by enzian | 2016-04-10 17:50

復帰

一昨日で重職を退任して、昨日は入学式。気がついたら4年が経っていた。

個研には、以前学生にもらったお茶が飲みきれずに、わずかに残っていた。
それを朝から急須に入れて、ゆっくり蒸らして飲む。美味しい。

今日はオリエンテーション。新しい1年生たちに会おう。

# by enzian | 2016-04-02 10:25

からから。

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まだ窓の外が暗いぐらいの時間。南の窓から誰かが入ってきたような気配がした。それはすぐにぼくの枕元に移動して、頭の上で「パン」というかわいた音を鳴らした。なんだなんだ?と思ったが、まぁなんとなくわかる気もして、そのまま眠った。

四十九日の法要を終えて、父の骨を墓におさめた。麻袋のなかの父は「からから」と、半ば金属のような、半ば石のような音を立てた。夕べはいろいろ考えていて、お世話になったことをたくさん思い出したよ。ありがとう。さようなら。

# by enzian | 2016-02-28 22:33 | ※彼方への私信

昼寝をしているつもりで眠っていたら、「起きてください」と二人から起こされた。部長と前の課長だった。「日曜日に昼寝をしているつもりで寝ていたら、月曜日でした。すいません」とぼくは謝って、「それで、線引きはどうなりましたか?」と聞いた。月曜日には会議があるのだ。二人は「それが、よくわからなくなりました」と答えた。そしてそう話している場所はなぜか、どこかの大きな寺の本堂なのだった。なにかがおかしいと思ったら、やはり昼寝をしていた。

# by enzian | 2016-02-21 15:41 | Trackback

さあ

明日から一般入試がはじまる。わが任務は、居眠り→昼ごはん→居眠り→
おやつ→居眠り。

# by enzian | 2016-02-03 23:36

あれこれ

久しぶりに親友に電話をしたら、ものの1秒で学生時代の雰囲気に戻った。その爽快さといったら、もう。春に会おうという約束を交わす。いかにも彼の地は遠いが、やつなら来るだろう。時間と空間の空白を一瞬で埋めるものがあるのだと思った。いや違う。きっとそこには空白はなかったのだ。これから恐怖の一般入試だが、もうすぐ立春。晴れやかな気分で窓の外を見ると、紅梅が咲き始めていた。

先日、学生と飲んでいたら、在学生と飲んでいるときと卒業生と飲んでいるときでは先生の表情が違うと指摘された。保護の対象と友人とでは別なのだ。

# by enzian | 2016-01-31 10:48 | ※その他

信じて欲しいこと。

ぼくは自分に甘くて他人に辛い。それは自分でも認めているし、自分以外の人もよく知っている。知っているから、かわいそうな少数の人たちがびくびくしながらぼくと付き合っており、大多数の人たちは忌避している。しかも忌避する人の数は年々増加していて、目も当てられない。当人も情けない、申し訳ない、淋し過ぎると思っているが、性根がそういう風にできているようで、いかんともしがたい。25歳ぐらいのころのぼくは、今はダメでも、それなりに歳をとれば人格も円満になって、ちょっとは立派なひとになれるのだろうと思っていた。でもそんなことはなくて、もう修正のしようもなく、命を閉じるまではこのまま一直線に進みそうな勢いなのである。

それはそれで仕方ないとあきらめているのだけど、どうしても無念に思っていることががひとつだけある。それは、そんな自分でも少なからぬ人を認めていて、尊敬もしているということだ。矛盾しているようだけど、ぼくが認めている人は少なくない。尊敬している人もいっぱいいる。それはカントや祖母や恩師といったぼくのなかでの定番?の人たちだけでなくて、いっしょに働いている人たち、ぼくよりもはるかに歳若い学生たち、小さな子どもたち、そういった人たちの、決して目立つことはなくても、たとえ他の誰にも知られることがなくても確固としてあるやさしさやら思いやりやら、温かさやら誠実さやら頑張りやらには心底惚れ込んでいて、尊敬しているのだ。ぼくはこの事実をある時点までほとんど伝えることがなかったが、最近はときどき伝えるようにしている。一生懸命伝えているつもりなのだが、ほとんど誰からもまともには取り合ってもらえない。

人がなにを信じるかは、その内容よりもむしろそれを誰が言ったかによる場合が多い。信じるべき内容だから信じるのではなく、信じざるをえない人が言うから信じるのだ。信じざるをえない人格ができあがったとき、同時に聖なる言葉もできあがっている。反対に、例えばちゃらちゃらした人が「人間は清貧であるべきです」と言っても、誰も信じないということにもなる。そういうわけでぼくがやさしいことを言っても受け入れにくいのは重々承知しているのだが、それでも、ぼくがほめた内容については信じて欲しい。

# by enzian | 2016-01-23 22:34 | ※その他

雪ふりつむ。

「太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。」

                    (三好達治「雪」)

# by enzian | 2016-01-16 08:51 | ※その他

積み重さなるもの

やっぱり明日は敗戦事例を増やすのかな。
世の中には、頑張ったからあきらめようとすっぱり断念できることと、
いかにしてもあきらめられない、振り切れないことがあると思う。

# by enzian | 2016-01-11 22:45 | ※その他

リフレイン

とっくに縁を切ったと思っていたコミュニティとの関係を考えないといけない。
彼はそれでいいと言うが、ほんとうにそれでよいのだろうか。
おれがいたんじゃお嫁に行けぬ、というフレーズがなぜかずっとリフレインしている。

# by enzian | 2016-01-04 10:29 | ※その他

年賀状あれこれ―達人のこと―

今年も年賀状が届く。ちゃんとしたひとたちは年賀状もちゃんとしている。当方はいいかげんなもので、年末にごく少数の方に、内容も粗末なものを書きはしたが、なんだかんだと言い訳して投函したのが29日だったから、先方にはまだ着いていないだろう。恩師からの年賀状も元旦に着いていたので、こんなことではいかんと元旦から反省した。

年賀状のなかには、毎年、想像を絶する誤字脱字、誤用をいくつもしてくるひとがいて、失礼だとわかっているのだけど、今年も半時間ほど笑ってしまった。決して当人は計算しているわけではないのだろうが、つねひごろ学生の添削をしていてひとがどのような誤字脱字をするかあるていど心得ているはずのこちらの想像を毎年毎年、軽く飛び越えてくるので、ぼくはこのひとが相当の達人であろうと踏んでいる。今年も、わずか数行の文面のなかに4つもの誤字、誤用があった。そしてどの間違いにも悪意がなくて、いやむしろ、お茶目でさえあるのだ。

それがどのくらいお茶目かを説明したいけど、そのまま説明するとばれてしまって、来年からは楽しめなくなってしまうので、雰囲気だけ伝えると、例えばこのブログの文章であれば「年賀状あれこれ」というタイトルだが、その “達人" は、相当上品な毛筆体のフォントを使いながら、1行目から「年賀状あれころ」と軽くやってのけてしまうぐらいの達人なのだ。そして続く2行目、3行目にもこれにまさるとも劣らない第二波・第三波の笑いを用意している。そして、最後の行が「平成二十八年 賀正(「元旦」のつもりらしい)」であるのを見たときには、お腹がよじれて、のたうち回った。

# by enzian | 2016-01-02 19:05 | ※その他

失念

卒業生と話していると、在学時にはわかっていなかったことに気づかされることがよくある。今年も2回、決定的に気づかされて、自分の愚かさに打ちひしがれた。

1回は、以前ドイツ語の文献を読んでいたときに学生がつくっていた授業用の予習ノートを見せてもらったときのこと。そのとてつもない労に驚き、それだけの重労働を毎週負わせていたことにようやく気づいたのだった。思えば、大学の2年生のとき、一通りの文法を終えただけの自分もまた同様の苦労をしていたはずなのに、すっかり忘れていた。もう1回は、詳しくは言えない。その人に限ってそんなことは決してないだろう‥‥自分にはよくわかっている‥‥と確信していたことが実際には起こっていたことに、ようやく気づいたのだった。

もちろん、人をわかることができればいい。わかり合えるに越したことはない。当たり前のことだ。だからそれをめざして尽くすが、それは至難なのだ。その難しさ、いや、ほぼ不可能にも思える至難さを、なにかと思い上がって、時に忘れてしまう。

# by enzian | 2015-12-28 22:32

雲散霧消

「来てくれたんか」というか細い声を聞いたその瞬間に、
数十年の憎悪はひとかけらも残さず雲散霧消したのだった。

# by enzian | 2015-12-19 22:45

呑み

いよいよアポイントをとるのが億劫になってきた。アポイントをとらず、ぐだっと呑みに行ける連れをもう少し。やっぱりこういう場合は飲みではなく、呑みかな。

# by enzian | 2015-12-12 09:20

自分を癒す

自分のために病院に行く。ひとのために病院に行く。どちらにしても、けっきょく自分のためなのだ、と気づいた。自分を癒すために行くのだ。

# by enzian | 2015-11-23 21:13

連絡

その人からかかってくる電話はいつも絶望的で、今日もやはり絶望的だった。

# by enzian | 2015-11-15 21:05 | Trackback

「きっと会える!大好きな人に」

NHK「歴史ヒストリア」、「きっと会える!大好きな人に~渋谷とハチ公 真実の物語~」の回を観た。ぼくらは誰か大切なひとが帰ってくるのを待っているような気がするし、大切なひとのもとに帰りたいと願っているような気がする。だとすれば、いつまでも大切なひとの帰りを待ち続ける姿に、打たれないひとは少ないだろう。番組を観ながら、何度も涙腺がゆるんできて困った。そして、この話の背景にそんなことがあったとは知らなかった。それなりに美談化している部分もあるのかもしれないが、どこもかしこも猛りはじめようとするかのような時代にこんなぴりりと利いたストーリーを作った気骨に、やはりNHKだと思った。

上野博士との再会像は今度東大に行ったときに見てこよう。あとで調べたら、この像をつくろうという発案をしたのは東大の哲学研究者だった。

# by enzian | 2015-10-26 20:22 | ※テレビ・新聞より

カネタタキ

空を見上げたら、昼間の空の青さと夕暮れどきの赤がせめぎ合う、青と赤のグラデーションが見えた。薄暗くなった足下には下草が生えている。少し前まではうるさいほどに鳴き盛っていたコオロギやマツムシの姿はない。ほかの秋虫がいない静寂のなか、ただ、寒さによく耐えるカネタタキだけが鳴いている。彼らはときにはクリスマスのイルミネーションが明滅するなか、12月になっても鳴いていることがある。

隙を見つけては人家に侵入しようとするカネタタキは、今年も我が家の風呂場で捕獲され、そっと庭に放たれたのであった。そして、そやつは見事、二度目の侵入も果たしたのであった。これほどまでに人なつこい虫はほかに知らない。人はただ無性に人を求めるときがあるが、カネタタキはなぜ人家を求めるのだろうか。ぼくはこの虫に、ことのほかやさしい気がする。

# by enzian | 2015-10-16 23:35 | ※その他

当たり前のこと

「他のひとなら当たり前にできることが、なぜわたしにはできないのだろう」‥‥頬に流れるものを見て、なんともいえない気持ちになった。

当たり前のことを当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前でないことでも当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前のことでさえどうしてもできないひとがいる。

「なんともいえない」というのは自分の姿をそこに見た気がしたから。ひとがもつ能力は凸凹だといわれることがある。凸凹であるとしたら、どこが凹でどこが凸であるかは違うにしても、どこかが突出していて、どこかが凹んでいるという意味では誰しも同じだということになる。

だが実際には、突出している部分でも一般人の凹んでいる部分にさえ及ばないひとがいて、なにをどう磨こうと、どう経験を積もうと、必要な部分が人並みには及ばない‥‥といったことは厳然としてある。いやというほどある。

かくいう自分も、昔からなにをしても人並みにはできないひとで、当たり前のことが当たり前にできない人間なのだ。「そんな人間でも、いちおう、いままで生きてくることはできたよ」と伝えようとして、やめた。そんな言葉が、なんのなぐさめになるものか。

# by enzian | 2015-10-06 23:24