円筒形

いかん、連休だというのにいっこうに仕事がはかどらない。あれこれの締め切りが迫っているのに、なんだかんだと言い訳ばかりしている。半ば空気が抜けた風船のようになって、どこに行くでもなく、自宅でころころしている。それでまた、4年前より、より円筒形になったものだから、よく転げもするのだ。

こんなことではいかん、人間性を取り戻さねばならぬと、ハードディスクに記録してある平良修さんの番組を観る。ぼくはあんまりひとのことを褒めないけど、平良さんの言葉にはいつも動かされてしまう。今日もまたひとつ学んだことがあった。ここでは言わないけど。

それにしてもなんど観てもどうしても踏み込めないことがある。小さき者になにかをなすことが、すなわち神になにかをなすことであり、神を愛することでもあるということ。小さき者になにかをなすこと、そのこと自体には違和感を感じないが、小さき者を愛そうとするひとのなかにはしばしば、四六時中、自分より小さき者探しをしているのではないかと思える水晶のごとき瞳をもったひとがいて、その曇りのない瞳に違和感を感じることがあるのだ。ぼくはこの瞳の “やさしさ" に自己の尊厳を傷つけられたことがある。もうひとつは、ぼくはいまのところ、自分の外に小ささ探しをするのではなく、自分自身の小ささを見つめたい、と思っているから。もちろん、こうした違和感に理解不足が含まれていることは知っている。知っているが、それをまだ認めることができない。

# by enzian | 2016-05-03 21:30 | ※その他

やり方しだい

いつもにこやかなひとが話しかけてくる。「せんせい、4年間お疲れさまでした。もう、ずっと続けられるのかと思ってました。それにしても、せんせいの仕事はみんなに嫌われる仕事だったから大変でしたよね」。まったく悪意のないその笑顔に、ただ「ありがとうございます」とだけ応えた。それにしても思うのだが、それ自体として嫌われるような職制なんてあるのかなと思う。今回のことでも、自分のやり方が拙かっただけで、もっと上手くできるひとがやればそんな風にはならなかっただろう。

# by enzian | 2016-05-02 22:29 | Trackback

限度

目の前にいる人間に関心をもたずに、そのひとが自分にどんな利益をもたらしてくれるかだけに関心のあるひと、つまりひとを自分の道具としてしかみられないひととは、それほど長くつきあうことはできない。そこにはおのずと限度がある。もちろん、仕事(ビジネス)としてなら、なにごともない顔をしてつきあい続ける。自分は教員をひとりの人間としてやっているのだろうか、それとも、ビジネスとしてやっているのだろうか。「そんなの一方だけに決められるわけ、ない」といったわかったようなわかっていないような声がどこかから聞こえてきて、床に撥ねつける。

# by enzian | 2016-04-24 07:27 | Trackback

四月

大学がはじまると「やさしくない、やさしくない」と、まったくうるさいことである。そんなこと、言われなくともわかっている。ぼくは人生のベースを生クリームのようなやさしさには置いていないのだ。そんなわかり切ったことをなぜ個研にまで言いに来るのか理解に苦しむのだが、みな、やさしさに飢えているのかもしれない。なかには、一切の批判を拒絶している者さえいる。スィートな言葉のみをまだかまだかと待っているのだ。ぼくはきわめてタチが悪い極悪キノコだから、そういうひとには決してモンブランやらガトーショコラやらを投げてやらない。ぼくの個研に生クリームはないのだ。

そしてなおわからないのは、何時間も個研にいすわってやさしくないことを告げようとすることだ。批判される危険を賭してまで。聞き疲れて、時間を返して欲しい、と呻きたくなるときがある。ただし、生クリームには特段の関心はないが、沖縄のサトウキビは大好きで、個研をサトウキビ畑にできたら‥‥と思ったりする。

# by enzian | 2016-04-20 23:38

すぐ目の前

生死をかけた問題というのが医療現場だとか災害現場だとかにしかないような言い方をするひとの話を聞いて、自分とはずいぶん考え方がちがうなと思った。望遠鏡をメガネのレンズにして歩いているんじゃあるまいし、そういう問題はすぐ目の前にあるし、人間がいる限りどこにでもある。例えば、大学構内にも生死をかけた問題が闊歩していて、個人研究室にはそうした問題が出たり入ったり、ドアの前で待っていたりする。

# by enzian | 2016-04-10 17:50

復帰

一昨日で重職を退任して、昨日は入学式。気がついたら4年が経っていた。

個研には、以前学生にもらったお茶が飲みきれずに、わずかに残っていた。
それを朝から急須に入れて、ゆっくり蒸らして飲む。美味しい。

今日はオリエンテーション。新しい1年生たちに会おう。

# by enzian | 2016-04-02 10:25

からから。

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まだ窓の外が暗いぐらいの時間。南の窓から誰かが入ってきたような気配がした。それはすぐにぼくの枕元に移動して、頭の上で「パン」というかわいた音を鳴らした。なんだなんだ?と思ったが、まぁなんとなくわかる気もして、そのまま眠った。

四十九日の法要を終えて、父の骨を墓におさめた。麻袋のなかの父は「からから」と、半ば金属のような、半ば石のような音を立てた。夕べはいろいろ考えていて、お世話になったことをたくさん思い出したよ。ありがとう。さようなら。

# by enzian | 2016-02-28 22:33 | ※彼方への私信

昼寝をしているつもりで眠っていたら、「起きてください」と二人から起こされた。部長と前の課長だった。「日曜日に昼寝をしているつもりで寝ていたら、月曜日でした。すいません」とぼくは謝って、「それで、線引きはどうなりましたか?」と聞いた。月曜日には会議があるのだ。二人は「それが、よくわからなくなりました」と答えた。そしてそう話している場所はなぜか、どこかの大きな寺の本堂なのだった。なにかがおかしいと思ったら、やはり昼寝をしていた。

# by enzian | 2016-02-21 15:41 | Trackback

さあ

明日から一般入試がはじまる。わが任務は、居眠り→昼ごはん→居眠り→
おやつ→居眠り。

# by enzian | 2016-02-03 23:36

あれこれ

久しぶりに親友に電話をしたら、ものの1秒で学生時代の雰囲気に戻った。その爽快さといったら、もう。春に会おうという約束を交わす。いかにも彼の地は遠いが、やつなら来るだろう。時間と空間の空白を一瞬で埋めるものがあるのだと思った。いや違う。きっとそこには空白はなかったのだ。これから恐怖の一般入試だが、もうすぐ立春。晴れやかな気分で窓の外を見ると、紅梅が咲き始めていた。

先日、学生と飲んでいたら、在学生と飲んでいるときと卒業生と飲んでいるときでは先生の表情が違うと指摘された。保護の対象と友人とでは別なのだ。

# by enzian | 2016-01-31 10:48 | ※その他

信じて欲しいこと。

ぼくは自分に甘くて他人に辛い。それは自分でも認めているし、自分以外の人もよく知っている。知っているから、かわいそうな少数の人たちがびくびくしながらぼくと付き合っており、大多数の人たちは忌避している。しかも忌避する人の数は年々増加していて、目も当てられない。当人も情けない、申し訳ない、淋し過ぎると思っているが、性根がそういう風にできているようで、いかんともしがたい。25歳ぐらいのころのぼくは、今はダメでも、それなりに歳をとれば人格も円満になって、ちょっとは立派なひとになれるのだろうと思っていた。でもそんなことはなくて、もう修正のしようもなく、命を閉じるまではこのまま一直線に進みそうな勢いなのである。

それはそれで仕方ないとあきらめているのだけど、どうしても無念に思っていることががひとつだけある。それは、そんな自分でも少なからぬ人を認めていて、尊敬もしているということだ。矛盾しているようだけど、ぼくが認めている人は少なくない。尊敬している人もいっぱいいる。それはカントや祖母や恩師といったぼくのなかでの定番?の人たちだけでなくて、いっしょに働いている人たち、ぼくよりもはるかに歳若い学生たち、小さな子どもたち、そういった人たちの、決して目立つことはなくても、たとえ他の誰にも知られることがなくても確固としてあるやさしさやら思いやりやら、温かさやら誠実さやら頑張りやらには心底惚れ込んでいて、尊敬しているのだ。ぼくはこの事実をある時点までほとんど伝えることがなかったが、最近はときどき伝えるようにしている。一生懸命伝えているつもりなのだが、ほとんど誰からもまともには取り合ってもらえない。

人がなにを信じるかは、その内容よりもむしろそれを誰が言ったかによる場合が多い。信じるべき内容だから信じるのではなく、信じざるをえない人が言うから信じるのだ。信じざるをえない人格ができあがったとき、同時に聖なる言葉もできあがっている。反対に、例えばちゃらちゃらした人が「人間は清貧であるべきです」と言っても、誰も信じないということにもなる。そういうわけでぼくがやさしいことを言っても受け入れにくいのは重々承知しているのだが、それでも、ぼくがほめた内容については信じて欲しい。

# by enzian | 2016-01-23 22:34 | ※その他

雪ふりつむ。

「太郎をねむらせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。
二郎をねむらせ、二郎の屋根に雪ふりつむ。」

                    (三好達治「雪」)

# by enzian | 2016-01-16 08:51 | ※その他

積み重さなるもの

やっぱり明日は敗戦事例を増やすのかな。
世の中には、頑張ったからあきらめようとすっぱり断念できることと、
いかにしてもあきらめられない、振り切れないことがあると思う。

# by enzian | 2016-01-11 22:45 | ※その他

リフレイン

とっくに縁を切ったと思っていたコミュニティとの関係を考えないといけない。
彼はそれでいいと言うが、ほんとうにそれでよいのだろうか。
おれがいたんじゃお嫁に行けぬ、というフレーズがなぜかずっとリフレインしている。

# by enzian | 2016-01-04 10:29 | ※その他

年賀状あれこれ―達人のこと―

今年も年賀状が届く。ちゃんとしたひとたちは年賀状もちゃんとしている。当方はいいかげんなもので、年末にごく少数の方に、内容も粗末なものを書きはしたが、なんだかんだと言い訳して投函したのが29日だったから、先方にはまだ着いていないだろう。恩師からの年賀状も元旦に着いていたので、こんなことではいかんと元旦から反省した。

年賀状のなかには、毎年、想像を絶する誤字脱字、誤用をいくつもしてくるひとがいて、失礼だとわかっているのだけど、今年も半時間ほど笑ってしまった。決して当人は計算しているわけではないのだろうが、つねひごろ学生の添削をしていてひとがどのような誤字脱字をするかあるていど心得ているはずのこちらの想像を毎年毎年、軽く飛び越えてくるので、ぼくはこのひとが相当の達人であろうと踏んでいる。今年も、わずか数行の文面のなかに4つもの誤字、誤用があった。そしてどの間違いにも悪意がなくて、いやむしろ、お茶目でさえあるのだ。

それがどのくらいお茶目かを説明したいけど、そのまま説明するとばれてしまって、来年からは楽しめなくなってしまうので、雰囲気だけ伝えると、例えばこのブログの文章であれば「年賀状あれこれ」というタイトルだが、その “達人" は、相当上品な毛筆体のフォントを使いながら、1行目から「年賀状あれころ」と軽くやってのけてしまうぐらいの達人なのだ。そして続く2行目、3行目にもこれにまさるとも劣らない第二波・第三波の笑いを用意している。そして、最後の行が「平成二十八年 賀正(「元旦」のつもりらしい)」であるのを見たときには、お腹がよじれて、のたうち回った。

# by enzian | 2016-01-02 19:05 | ※その他

失念

卒業生と話していると、在学時にはわかっていなかったことに気づかされることがよくある。今年も2回、決定的に気づかされて、自分の愚かさに打ちひしがれた。

1回は、以前ドイツ語の文献を読んでいたときに学生がつくっていた授業用の予習ノートを見せてもらったときのこと。そのとてつもない労に驚き、それだけの重労働を毎週負わせていたことにようやく気づいたのだった。思えば、大学の2年生のとき、一通りの文法を終えただけの自分もまた同様の苦労をしていたはずなのに、すっかり忘れていた。もう1回は、詳しくは言えない。その人に限ってそんなことは決してないだろう‥‥自分にはよくわかっている‥‥と確信していたことが実際には起こっていたことに、ようやく気づいたのだった。

もちろん、人をわかることができればいい。わかり合えるに越したことはない。当たり前のことだ。だからそれをめざして尽くすが、それは至難なのだ。その難しさ、いや、ほぼ不可能にも思える至難さを、なにかと思い上がって、時に忘れてしまう。

# by enzian | 2015-12-28 22:32

雲散霧消

「来てくれたんか」というか細い声を聞いたその瞬間に、
数十年の憎悪はひとかけらも残さず雲散霧消したのだった。

# by enzian | 2015-12-19 22:45

呑み

いよいよアポイントをとるのが億劫になってきた。アポイントをとらず、ぐだっと呑みに行ける連れをもう少し。やっぱりこういう場合は飲みではなく、呑みかな。

# by enzian | 2015-12-12 09:20

自分を癒す

自分のために病院に行く。ひとのために病院に行く。どちらにしても、けっきょく自分のためなのだ、と気づいた。自分を癒すために行くのだ。

# by enzian | 2015-11-23 21:13

連絡

その人からかかってくる電話はいつも絶望的で、今日もやはり絶望的だった。

# by enzian | 2015-11-15 21:05 | Trackback

「きっと会える!大好きな人に」

NHK「歴史ヒストリア」、「きっと会える!大好きな人に~渋谷とハチ公 真実の物語~」の回を観た。ぼくらは誰か大切なひとが帰ってくるのを待っているような気がするし、大切なひとのもとに帰りたいと願っているような気がする。だとすれば、いつまでも大切なひとの帰りを待ち続ける姿に、打たれないひとは少ないだろう。番組を観ながら、何度も涙腺がゆるんできて困った。そして、この話の背景にそんなことがあったとは知らなかった。それなりに美談化している部分もあるのかもしれないが、どこもかしこも猛りはじめようとするかのような時代にこんなぴりりと利いたストーリーを作った気骨に、やはりNHKだと思った。

上野博士との再会像は今度東大に行ったときに見てこよう。あとで調べたら、この像をつくろうという発案をしたのは東大の哲学研究者だった。

# by enzian | 2015-10-26 20:22 | ※テレビ・新聞より

カネタタキ

空を見上げたら、昼間の空の青さと夕暮れどきの赤がせめぎ合う、青と赤のグラデーションが見えた。薄暗くなった足下には下草が生えている。少し前まではうるさいほどに鳴き盛っていたコオロギやマツムシの姿はない。ほかの秋虫がいない静寂のなか、ただ、寒さによく耐えるカネタタキだけが鳴いている。彼らはときにはクリスマスのイルミネーションが明滅するなか、12月になっても鳴いていることがある。

隙を見つけては人家に侵入しようとするカネタタキは、今年も我が家の風呂場で捕獲され、そっと庭に放たれたのであった。そして、そやつは見事、二度目の侵入も果たしたのであった。これほどまでに人なつこい虫はほかに知らない。人はただ無性に人を求めるときがあるが、カネタタキはなぜ人家を求めるのだろうか。ぼくはこの虫に、ことのほかやさしい気がする。

# by enzian | 2015-10-16 23:35 | ※その他

当たり前のこと

「他のひとなら当たり前にできることが、なぜわたしにはできないのだろう」‥‥頬に流れるものを見て、なんともいえない気持ちになった。

当たり前のことを当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前でないことでも当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前のことでさえどうしてもできないひとがいる。

「なんともいえない」というのは自分の姿をそこに見た気がしたから。ひとがもつ能力は凸凹だといわれることがある。凸凹であるとしたら、どこが凹でどこが凸であるかは違うにしても、どこかが突出していて、どこかが凹んでいるという意味では誰しも同じだということになる。

だが実際には、突出している部分でも一般人の凹んでいる部分にさえ及ばないひとがいて、なにをどう磨こうと、どう経験を積もうと、必要な部分が人並みには及ばない‥‥といったことは厳然としてある。いやというほどある。

かくいう自分も、昔からなにをしても人並みにはできないひとで、当たり前のことが当たり前にできない人間なのだ。「そんな人間でも、いちおう、いままで生きてくることはできたよ」と伝えようとして、やめた。そんな言葉が、なんのなぐさめになるものか。

# by enzian | 2015-10-06 23:24

好ましくないちゃんぽん

すっかり体調を壊してしまった。高熱が続いて、ようやく収まったと思ったら、めまいがして立ち上がれない。一度でさえもすくっと立ち上がれない。これまでほとんどめまいを経験したことのなかったぼくは、めまいの威力におののくばかりなのである。

9月の半ばから体調を壊して思ったのは、自分の心と体の関係は小さいころから変わっていないということ。幼いころよりは高熱の際の “うなされ” はましになったような気がするけど、相変わらず軽度ではあっても、熱が出ているあいだは意味不明な内容でうなされ続けた。

もっと変わっていないと思ったのは、あまりにも不快な思いをすると、それに近接する経験をグレーに染めてしまうということ。幼いころ鶏肉を食べていて気分が悪くなってそれ以来、鶏肉が食べられないなのだけど、よく似たことが起こってしまった。体調を壊したのは長崎でだったが、長崎という街自体がグレーになった。長崎で研究しようとしたキリスト教の殉教もキリスト教自体も、そればかりか、長崎の街で見かけたカステラもちゃんぽんも皿うどんもグレーになった。そう、なんでもかんでも長崎関係はまぜこぜのちゃんぽんになって、いまは思い出すのもイヤなものになってしまっているのだ。こんなことで皿うどんが嫌いになったらどないしてくれんねん、熱。

とはいっても、ぼくは昔から、経験する前は嫌いだったこともいったん経験すると徐々に好きになるタイプだから、この不条理な長崎十把一絡げ嫌いの気持ちも相殺される日がくるのかもしれない。このごろはどこでも行くようになってどこでも好きになってきた傾向があって、体力も怪しくなってきていたから、この先を健康に生きていくためには、ちょうどよいバランスなのかもしれない。

# by enzian | 2015-09-23 15:31 | ※その他

やるべきか、やらざるべきか。

やるべきかやらざるべきか悩んでいることがある。なにもしなければあることが損なわれることはわかっていて、同時に、これまでの痛い経験でどんなに骨を折ってみても無駄に終わることもわかっている。この事例は、ぼくのここ何年かのなかでとくに記憶に残る敗戦事例として残っているものと瓜二つなのだ。

ぼくはこれまで、自分の信念に沿うようなことでやるかやらないかの二択を迷ったときには必ずやってきていて、その判断を一度も後悔したことがないというのを誇りにしてきたのだけど、折り悪く、今年はその誇りが危うくなってきていたりする。まぁ、そんなこと言っても、やるけどね。

# by enzian | 2015-09-23 15:06 | ※その他

ぽたぽた経験希望

先日、久しぶりに青空の下、額からぽたぽたと汗が落ちるような経験をして、おぉこれは高校のクラブのときにいつも感じていたやつだと、すがすがしくてなつかしい気分になった。「じわっ」とか「じゅる」とか「だらだら」といった粘着質を感じさせるものではない。あくまで「ぽたぽた」なのだ。先日のオープンキャンパスは気温が39度になっていて、学生スタッフはさぞ大変だったろう。ぼくは涼しいところに座っていただけだったけど、外にいた同僚は体調を壊していたのだった。

ともかく、今年はお盆休みがとれそうだから、何度か外に出て汗をぽたぽたしたい。ちょうどよいことに、若いころはあれほど頑なで、高校野球の敗戦風景をいつも小バカにしていた涙腺もほどよく緩くなってきたので、できればすがすがしい感動もして、涙もぽたぽたしたい。なになに無理だって?そういうこと、言うなよ。

# by enzian | 2015-08-09 09:02 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

食べ物への礼儀

好むと好まざるとにかかわらず、歳を重ねるごとにひとと食事をすることが増えてきた。もちろん、いっしょに食べて楽しい会話ができればいいのだけど、できれば二度目の会食は免除願いたいと思うタイプ、二種。ひとつは、きっちり料理をさらえるという習慣がなくて、来る皿、来る皿に料理を残すひと。もうひとつは、なにを食べても決して「美味しい」と言わないひと。どちらも、いったいどういう育ち方をしてきたのだろうと真剣に考えてしまう。満腹だったり食べられない料理なら仕方ないがそうでないならきれいに食べること、そして、美味しくいただいたのなら「美味しかった」と告げることが、食べ物への礼儀だと思っている。

# by enzian | 2015-06-07 21:24 | ※その他 | Trackback | Comments(6)

サツマイモたち

アスパラとジャガイモを食って、こんな美味いジャガイモは食ったことがない、美味い、美味いと呻(うめ)いていたら、その土地のひとは言いましたな。「いまは(冬越しして)貯蔵したジャガイモの最後の時期なので美味しいのです」。そうかアスパラは採り立てのうまさであるにしても、このジャガイモの甘さは長期保存によるものなのだ。思考を薄く覆っていたものが一枚するりとはがれて落ちて、地面でしゅわりと消えた気がした。バカだなおれは、いままでこんなことも知らなかったのだ。

以前、たった一度だけ家庭菜園でサツマイモをつくって、採り立てをゆでて食べて、その味のなさにがっかりして、二度とサツマイモなんか作るものかと思ったことがあった。いまから思えば問題なのはこちらにあって、あのときのサツマイモたちに悪いことをしたと、しみじみ申し訳ない気持ちになる。

# by enzian | 2015-05-17 11:50 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

知的な謙虚さ

「学問をして、いったいなんになるのか?」あなたがそう問う理由はわかるような気がします。きらびやかに効力を示すことのできる学問分野はありますが、ぼくが勉強していることなんて、なんの役に立つの?と問われれば、いまここで明らかな証拠を見せることなんて、できないですもの。ひとの役に立とうと、ひとのためになにかをしようと懸命なひとたちをよそ目にして、こちらのやるべきことをするのにいっぱいで、役立たずの世間知らずで申し訳ないことです、と頭を下げるしかありません。

こういう書き方は、自分や自分の持ち物をあからさまには賞賛しない(おちゃらけた自画自賛はしますよ)ぼくの質(たち)によるものでもあるのですが、ひとつだけでも、学問をした結果として出てくるものとして書いておきたいと思うことはあります。知的な謙虚さということです。自分のことを棚に上げていえば、学者は、自分だけが真理の体得者であるかのような態度をとることを稚拙なものとして嫌います。なぜなら、なにかを明らかにするということは、それを取り巻く膨大な数の不分明に気づくことだからです。以下は、ニュートンが自分の生涯を振り返って語った言葉です。

I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. (私は砂浜で遊んでいる少年のようであった。ときおりいつもよりなめらかな小石やかわいらしい貝殻を見つけることに夢中になっているが、真理の大海原は究められないまま私の前に広がっているのだ。)

謙虚さというと消極的なようにも聞こえますが、この謙虚さは一転して知的な敢然(かんぜん)さともなって断固として自分と他人を守るものともなります。幸い、ぼくはそういうことを体現するひとたちに会うことができました。

# by enzian | 2015-05-09 11:24 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(2)

偽装工作

昔、担任の先生が生徒のひとりひとりに贈る言葉を書いてくれことがあった。ぼくには「努力家であれ、いつまでも」と書かれた。その文章のことは覚えていて、いまでもときどき思い出す。努力家なのだろうかと考えることがあるのだ。たしかに、持ち前の鈍くささゆえに、なんであれ人並みであるかのように “偽装" するには他人の2倍も3倍も時間がかかるわけだから、なにかと時間をかけていることはあるかもしれない(ちなみに、偽装さえせずに放置していることの方が多い)。しかし、ぼくはそういう時間消費を「努力」とはいわない。「努力」という言葉はもっと別の意味で使う。わが場合は、できるだけひとさまの足手まといにならないように自分を保護しているだけなのだ。いずれにせよ、この持ち前を持ち変えることはできない。今後も、自分を護り続けなければならない。

# by enzian | 2015-04-26 12:09 | ※その他 | Trackback | Comments(2)