「きっと会える!大好きな人に」

NHK「歴史ヒストリア」、「きっと会える!大好きな人に~渋谷とハチ公 真実の物語~」の回を観た。ぼくらは誰か大切なひとが帰ってくるのを待っているような気がするし、大切なひとのもとに帰りたいと願っているような気がする。だとすれば、いつまでも大切なひとの帰りを待ち続ける姿に、打たれないひとは少ないだろう。番組を観ながら、何度も涙腺がゆるんできて困った。そして、この話の背景にそんなことがあったとは知らなかった。それなりに美談化している部分もあるのかもしれないが、どこもかしこも猛りはじめようとするかのような時代にこんなぴりりと利いたストーリーを作った気骨に、やはりNHKだと思った。

上野博士との再会像は今度東大に行ったときに見てこよう。あとで調べたら、この像をつくろうという発案をしたのは東大の哲学研究者だった。

# by enzian | 2015-10-26 20:22 | ※テレビ・新聞より

カネタタキ

空を見上げたら、昼間の空の青さと夕暮れどきの赤がせめぎ合う、青と赤のグラデーションが見えた。薄暗くなった足下には下草が生えている。少し前まではうるさいほどに鳴き盛っていたコオロギやマツムシの姿はない。ほかの秋虫がいない静寂のなか、ただ、寒さによく耐えるカネタタキだけが鳴いている。彼らはときにはクリスマスのイルミネーションが明滅するなか、12月になっても鳴いていることがある。

隙を見つけては人家に侵入しようとするカネタタキは、今年も我が家の風呂場で捕獲され、そっと庭に放たれたのであった。そして、そやつは見事、二度目の侵入も果たしたのであった。これほどまでに人なつこい虫はほかに知らない。人はただ無性に人を求めるときがあるが、カネタタキはなぜ人家を求めるのだろうか。ぼくはこの虫に、ことのほかやさしい気がする。

# by enzian | 2015-10-16 23:35 | ※その他

当たり前のこと

「他のひとなら当たり前にできることが、なぜわたしにはできないのだろう」‥‥頬に流れるものを見て、なんともいえない気持ちになった。

当たり前のことを当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前でないことでも当たり前のようにできるひとがいる。
当たり前のことでさえどうしてもできないひとがいる。

「なんともいえない」というのは自分の姿をそこに見た気がしたから。ひとがもつ能力は凸凹だといわれることがある。凸凹であるとしたら、どこが凹でどこが凸であるかは違うにしても、どこかが突出していて、どこかが凹んでいるという意味では誰しも同じだということになる。

だが実際には、突出している部分でも一般人の凹んでいる部分にさえ及ばないひとがいて、なにをどう磨こうと、どう経験を積もうと、必要な部分が人並みには及ばない‥‥といったことは厳然としてある。いやというほどある。

かくいう自分も、昔からなにをしても人並みにはできないひとで、当たり前のことが当たり前にできない人間なのだ。「そんな人間でも、いちおう、いままで生きてくることはできたよ」と伝えようとして、やめた。そんな言葉が、なんのなぐさめになるものか。

# by enzian | 2015-10-06 23:24

好ましくないちゃんぽん

すっかり体調を壊してしまった。高熱が続いて、ようやく収まったと思ったら、めまいがして立ち上がれない。一度でさえもすくっと立ち上がれない。これまでほとんどめまいを経験したことのなかったぼくは、めまいの威力におののくばかりなのである。

9月の半ばから体調を壊して思ったのは、自分の心と体の関係は小さいころから変わっていないということ。幼いころよりは高熱の際の “うなされ” はましになったような気がするけど、相変わらず軽度ではあっても、熱が出ているあいだは意味不明な内容でうなされ続けた。

もっと変わっていないと思ったのは、あまりにも不快な思いをすると、それに近接する経験をグレーに染めてしまうということ。幼いころ鶏肉を食べていて気分が悪くなってそれ以来、鶏肉が食べられないなのだけど、よく似たことが起こってしまった。体調を壊したのは長崎でだったが、長崎という街自体がグレーになった。長崎で研究しようとしたキリスト教の殉教もキリスト教自体も、そればかりか、長崎の街で見かけたカステラもちゃんぽんも皿うどんもグレーになった。そう、なんでもかんでも長崎関係はまぜこぜのちゃんぽんになって、いまは思い出すのもイヤなものになってしまっているのだ。こんなことで皿うどんが嫌いになったらどないしてくれんねん、熱。

とはいっても、ぼくは昔から、経験する前は嫌いだったこともいったん経験すると徐々に好きになるタイプだから、この不条理な長崎十把一絡げ嫌いの気持ちも相殺される日がくるのかもしれない。このごろはどこでも行くようになってどこでも好きになってきた傾向があって、体力も怪しくなってきていたから、この先を健康に生きていくためには、ちょうどよいバランスなのかもしれない。

# by enzian | 2015-09-23 15:31 | ※その他

やるべきか、やらざるべきか。

やるべきかやらざるべきか悩んでいることがある。なにもしなければあることが損なわれることはわかっていて、同時に、これまでの痛い経験でどんなに骨を折ってみても無駄に終わることもわかっている。この事例は、ぼくのここ何年かのなかでとくに記憶に残る敗戦事例として残っているものと瓜二つなのだ。

ぼくはこれまで、自分の信念に沿うようなことでやるかやらないかの二択を迷ったときには必ずやってきていて、その判断を一度も後悔したことがないというのを誇りにしてきたのだけど、折り悪く、今年はその誇りが危うくなってきていたりする。まぁ、そんなこと言っても、やるけどね。

# by enzian | 2015-09-23 15:06 | ※その他

ぽたぽた経験希望

先日、久しぶりに青空の下、額からぽたぽたと汗が落ちるような経験をして、おぉこれは高校のクラブのときにいつも感じていたやつだと、すがすがしくてなつかしい気分になった。「じわっ」とか「じゅる」とか「だらだら」といった粘着質を感じさせるものではない。あくまで「ぽたぽた」なのだ。先日のオープンキャンパスは気温が39度になっていて、学生スタッフはさぞ大変だったろう。ぼくは涼しいところに座っていただけだったけど、外にいた同僚は体調を壊していたのだった。

ともかく、今年はお盆休みがとれそうだから、何度か外に出て汗をぽたぽたしたい。ちょうどよいことに、若いころはあれほど頑なで、高校野球の敗戦風景をいつも小バカにしていた涙腺もほどよく緩くなってきたので、できればすがすがしい感動もして、涙もぽたぽたしたい。なになに無理だって?そういうこと、言うなよ。

# by enzian | 2015-08-09 09:02 | ※その他 | Trackback | Comments(0)

食べ物への礼儀

好むと好まざるとにかかわらず、歳を重ねるごとにひとと食事をすることが増えてきた。もちろん、いっしょに食べて楽しい会話ができればいいのだけど、できれば二度目の会食は免除願いたいと思うタイプ、二種。ひとつは、きっちり料理をさらえるという習慣がなくて、来る皿、来る皿に料理を残すひと。もうひとつは、なにを食べても決して「美味しい」と言わないひと。どちらも、いったいどういう育ち方をしてきたのだろうと真剣に考えてしまう。満腹だったり食べられない料理なら仕方ないがそうでないならきれいに食べること、そして、美味しくいただいたのなら「美味しかった」と告げることが、食べ物への礼儀だと思っている。

# by enzian | 2015-06-07 21:24 | ※その他 | Trackback | Comments(6)

サツマイモたち

アスパラとジャガイモを食って、こんな美味いジャガイモは食ったことがない、美味い、美味いと呻(うめ)いていたら、その土地のひとは言いましたな。「いまは(冬越しして)貯蔵したジャガイモの最後の時期なので美味しいのです」。そうかアスパラは採り立てのうまさであるにしても、このジャガイモの甘さは長期保存によるものなのだ。思考を薄く覆っていたものが一枚するりとはがれて落ちて、地面でしゅわりと消えた気がした。バカだなおれは、いままでこんなことも知らなかったのだ。

以前、たった一度だけ家庭菜園でサツマイモをつくって、採り立てをゆでて食べて、その味のなさにがっかりして、二度とサツマイモなんか作るものかと思ったことがあった。いまから思えば問題なのはこちらにあって、あのときのサツマイモたちに悪いことをしたと、しみじみ申し訳ない気持ちになる。

# by enzian | 2015-05-17 11:50 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

知的な謙虚さ

「学問をして、いったいなんになるのか?」あなたがそう問う理由はわかるような気がします。きらびやかに効力を示すことのできる学問分野はありますが、ぼくが勉強していることなんて、なんの役に立つの?と問われれば、いまここで明らかな証拠を見せることなんて、できないですもの。ひとの役に立とうと、ひとのためになにかをしようと懸命なひとたちをよそ目にして、こちらのやるべきことをするのにいっぱいで、役立たずの世間知らずで申し訳ないことです、と頭を下げるしかありません。

こういう書き方は、自分や自分の持ち物をあからさまには賞賛しない(おちゃらけた自画自賛はしますよ)ぼくの質(たち)によるものでもあるのですが、ひとつだけでも、学問をした結果として出てくるものとして書いておきたいと思うことはあります。知的な謙虚さということです。自分のことを棚に上げていえば、学者は、自分だけが真理の体得者であるかのような態度をとることを稚拙なものとして嫌います。なぜなら、なにかを明らかにするということは、それを取り巻く膨大な数の不分明に気づくことだからです。以下は、ニュートンが自分の生涯を振り返って語った言葉です。

I was like a boy playing on the sea-shore, and diverting myself now and then finding a smoother pebble or a prettier shell than ordinary, whilst the great ocean of truth lay all undiscovered before me. (私は砂浜で遊んでいる少年のようであった。ときおりいつもよりなめらかな小石やかわいらしい貝殻を見つけることに夢中になっているが、真理の大海原は究められないまま私の前に広がっているのだ。)

謙虚さというと消極的なようにも聞こえますが、この謙虚さは一転して知的な敢然(かんぜん)さともなって断固として自分と他人を守るものともなります。幸い、ぼくはそういうことを体現するひとたちに会うことができました。

# by enzian | 2015-05-09 11:24 | ※彼方への私信 | Trackback | Comments(2)

偽装工作

昔、担任の先生が生徒のひとりひとりに贈る言葉を書いてくれことがあった。ぼくには「努力家であれ、いつまでも」と書かれた。その文章のことは覚えていて、いまでもときどき思い出す。努力家なのだろうかと考えることがあるのだ。たしかに、持ち前の鈍くささゆえに、なんであれ人並みであるかのように “偽装" するには他人の2倍も3倍も時間がかかるわけだから、なにかと時間をかけていることはあるかもしれない(ちなみに、偽装さえせずに放置していることの方が多い)。しかし、ぼくはそういう時間消費を「努力」とはいわない。「努力」という言葉はもっと別の意味で使う。わが場合は、できるだけひとさまの足手まといにならないように自分を保護しているだけなのだ。いずれにせよ、この持ち前を持ち変えることはできない。今後も、自分を護り続けなければならない。

# by enzian | 2015-04-26 12:09 | ※その他 | Trackback | Comments(2)

坂願望

電車でサラリーマンたちが「暗峠(くらがりとうげ)がスゴイ」と話していた。暗峠というのは奈良と大阪の境にある峠で、その坂の急勾配で知られる。先日も、NHKの「チャリダー」で坂バカ(急勾配の坂がなにより好きな自転車乗り)が登っていて、このところ「いつか坂バカになりたい」とばかり妄想しているぼくは、よだれを垂らしながら(垂らさなくてもいいのだけど)観ていたのだった。あぁいいないいな、ぼくもいつか大学の仕事がいまほどは忙しくなくなくなって、しかももし大学を首になっていなかったら、チャリダー(自転車乗り)になって、坂バカになって、どこぞに走っていくのだ。とっぴょうしもないようなことを書けば、その昔、ぼくは禅僧になりたくてなりたくてしかたなかったのだけど、それと坂バカ願望とはなんか似ている気がする。

# by enzian | 2015-04-19 22:48 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

動物園

「動物園ではまずどの動物を見ますか?」と聞かれて、うまく答えられなかった。苦し紛れに「キリン」と答えたのだが、しっくりこない。幼少時代は親に連れられて、少年時代は遠足で、青年時代は意中のひとと、壮年になってからは子どもを連れて‥‥それぞれのひとはそれぞれの理由で動物園に行くのかもしれないけど、いま、ぼくのなかには冒頭の問いへのうまい答えはない気がする。人はなぜ動物園に行くのだろう。

「これまで動物園的なところでみて印象に残っている動物はなんですか?」と聞かれたら、愛らしさでは太地町のくじら博物館にいたシャチのナミが浮かぶ。残念ながら、その後、ナミは別の水族館に引き取られて、死んでしまった。太地町はなぜナミを売ってしまったのか‥‥とくやしい思いがしたものだ。恐ろしさでは、上野動物園にいた一匹の巨大なヒグマ。プーさんなんてもんじゃない。吉村の『羆嵐(くまあらし)』を思い出して、身の毛がよだった。

# by enzian | 2015-04-12 22:16 | ※その他 | Trackback | Comments(7)

自分と握手するということ

4月を前に何人かと握手をした。恥ずかしがり屋の自分が握手を求めることなんてありそうもないことだから、わけあって相手から求められたのだけど、握手することの大切さを感じた。うまく言えないが、言葉ではないなにかが伝わった気がした。握手するというのは手の内に凶器を隠していないということを示すための儀式的なものなのだろうと思っていたのだが、どうもそうばかりではないような気がした。ともかく、握手してよかった。ただ残念だったことは、そのうちの何人かは、お別れの握手だったこと‥‥いや、お別れにはせずにまた会おう。

昨日は新入生用の行事で、とある寺に詣でた。「合掌」と言われて、とまどった学生も多かっただろう。そういうぼくもかつて同じ行事のなかで相当にとまどった。とまどっていたときに後ろから話しかけてきたのがいて、そやつはぼくの親友になったのだった。合掌にはいまでもとまどったままでいるが、よくよく考えてみれば、手を合わせるというのは自分と握手することなのではないか。だとすれば、この場合の “自分と握手する" というのはどういうことなのだろう。

# by enzian | 2015-04-05 18:11 | ※その他 | Trackback | Comments(4)

エネルギー量

岡本太郎の記録フィルムを観ていた。なんとも恐ろしいエネルギー量のひとだな、というのが印象。いつも思うのだけど、ひとが一生に使える精神のエネルギー量は乾電池のように一定なのだろうか、それとも太陽の光(厳密に言えば際限はあるんだろうけど)のように際限ないものなのだろうか。際限ないのであればほどほどで休む必要はないし、一定であれば使いすぎずにセーブしながらやっていかねばならない。

無尽蔵で際限などないと思いたいのだが、4月から頑張りすぎて9月には人間関係で力尽きるような、そしてときにはそのまま退学しまうような学生の姿を目の当たりにして地団駄を踏んだりしていると、簡単には際限ないとは思えない。学業も大切だが、大学であれば、ひととして上手に生きていくためのエネルギー配分を学ぶこともできるだろう。人間関係のなかでのエネルギー配分というのは、きっと生まれながらにして身についているようなものではなくて、努力して身につけるしかない技術なのだ。そんな “技術習得過程" で疲れてしまったら、どこぞへ旅に出たり、しばらく休学するのもよい。

もうすぐ4月。また新しいはじまりがやってきて、また新しいひとたちと会うことになる。

# by enzian | 2015-03-29 21:50 | ※その他 | Trackback | Comments(2)

というわけで。

帰ってまいりました。とあるところでしばらく毎日書いていたのですが、投稿が1000回を超えて新鮮味がなくなってきたので区切りをつけたのでした。やめた途端、毎日読んでいたのに‥‥みたいなメールがどこどこ届いたのですが、それならそうと言ってくれればよかったのに‥‥とも思ったのでした。言われてもやめていましたが。

あぁエキサイトブログは使いやすい。今後はこちらにときどき書きますが、そんな大したことは書きません。twitterぐらいの使い方です。

# by enzian | 2015-03-21 19:05 | Trackback | Comments(6)

元旦

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ご無沙汰をしております。昨年は元旦に一度投稿しただけでした。元気にしておるのですが、なかなかこちらに記事を書くまでにはいたりません。別のことをしております。なんの交友活動もせぬふつつか者ですが、今年もよろしくお願いいたします。

# by enzian | 2015-01-01 21:14 | ※その他 | Trackback | Comments(6)

新年のご挨拶を。

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みなさま、お元気でいらっしゃいますでしょうか。昨年もぜんぜんでしたが、いちおう、ときどきはブログをのぞいております。元気でやっております。

今年もほとんど書けそうもないブログですが、よろしくお願いいたします。

# by enzian | 2014-01-01 22:37 | ※その他 | Trackback | Comments(10)

暑中見舞い

ごぶさたしております。今年の夏も暑くなりそうですが、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはといえば、かの地で毎日文章を書いておるのですが、そこはここからは遠くへだった場所のような気がします。べつのところで文章を書いていても、ときにはここで書けるだろうと思っていのですが、書けないものですね。時間がないのではなく、気分を切り替えることができないのです。じぶんが、一度に二つのことをできない不器用な人間であることを改めて感じています。といっても、不器用でいいと思っているのですが。

今日の京都は雨で、明日も雨が降るようです。きっと雨が降ったから、少しだけ、ここに戻ってきたのでしょう。みなさまには、夏の疲れが出ませんように。

# by enzian | 2013-07-13 18:30 | ※その他 | Trackback | Comments(22)

手動ポンプ

b0037269_172854.jpg街を歩いていて、まれに現役の手動ポンプに出くわすことがあると、ぎーこぎーこやって、水を出してみたくなる。出した水に手をひたしたくなる。

手をひたしたくなる衝動は誰よりも手の体温(今年、自分より体温が高いひとに会って驚いた)が高いぼくの特徴なのだろうか。

幼いころの記憶のなかには一場面だけ、自宅の手動ポンプが動いていて、水がじゃーじゃー出ていたシーンが残っている。ハンドルは重かった。水を手に入れるのは簡単なことじゃない、という印象がわずかにあるのだ。

# by enzian | 2012-09-17 17:10 | ※街を歩く

カラスはカラス

カラスがゴミ場をあさっている。怖がらないものだから、まじまじ見る。非常に精悍で、利口そうな顔をしている。羽根の色はつやややかに黒い。ぼくには美しく見えるのだが、これほどまでにこの鳥がきらわれるのは、この黒がいけないのだろうか。であれば、めでたく紅白に塗りつぶせばよい。

羽根色の問題ではなく、ゴミ場にいるのがいけないのか。であれば、優雅な蝶のように、花から花へと蜜を吸い飛ぶようにしつければよいのか。それでもなおカーカーという鳴き声がイケナイというのなら、小鳥のようにぴぃーぴぃーと鳴くよう教えようか。

そんなことをすれば、カラスがカラスでなくなってしまう。

# by enzian | 2012-08-11 14:41 | ※街を歩く

紙風船

b0037269_0255932.jpg学校からはさほど遠くないところに「ユリヤ商会」というおもちゃ屋があった。店先にはいつも玉を追っかけまわすキツネのようなアライグマのような動物のおもちゃが動いていて、ぼくの学生のころから変わらず老夫婦が店を切り盛りされていた。

かなりの高齢のようで、いつまで続くかと、大きなお世話だろうに、その前をとおるたびにひやひやしていた。正月になれば、ゲイラカイトやらが置かれていて、季節によって商品を変えているのだと驚いたことがある。

客が入っているのを見たことはない。いつかなにかを買ってみようと考えていて、紙風船がいいと思いついた。好きなのだ。ゴムでできているわけでもないものが風船になることが、小さなころは不思議だった。ふっと息を吹き入れて、ぽんと音をならして空に打ち上げると、すっとではなく、ゆっくりふわりと落ちてくる。またぽんと打ち上げる。

先日、店前をとおったら、シャッターは降りており、閉店を告げる紙が貼られていた。誰しもそうだろうが、衰退していくのを見ることには胸をしめつけられる思いがする。伸長していくひとたちを見るのが仕事であったことに胸をなでおろす。

# by enzian | 2012-07-01 00:30 | ※街を歩く

梅雨時に生まれて。

b0037269_12293244.jpg「お前がなにかするときは雨やな。産んだとき、雨が降ってたやろか、どうやろう」――いつも母がつぶやいていた。そのさが?はいまも変わらないようで、ここぞというときには雲がたれこめる。台風が近づき、風が吹く。雪が降る。ときにひととなにかをするときもそんなぐあいだから、心のなかでは申しわけないと方々に謝っている。

今年も、たくさんの心をいただいた。当人でさえほとんど記憶の片隅に追いやっているような日に、毎年変わらず、忘れることなく温かな言葉を届けてくれる卒業生たちがいる。そのひとたちの学生時代のことを思いだしながら、なぜそんなことができるのかと考えていた。――たしかに、自分は雨の日にはじまったのかもしれない。母は雨の日を選んで産んでくれたのかな。

# by enzian | 2012-06-16 12:37 | ※その他 | Comments(8)

枇杷の実

校内のいっかくには枇杷の木が生えている。この季節になるとオレンジ色に色づいてくるが、採るひともおらず、毎年落ちるがままになっている。ある年、学生がひとり、コロコロしたものを抱えて、個研に入ってきたことがある。両手を広げると、その枇杷であった。「誰もひろわないので、少しひらってきました」という。下宿に持ち帰って食べてみるのだという。「甘くないかもしれないよ」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。

ぼくはこういうひとが好きだし、こういうひとに会いたくて仕事をしている気がするが、なぜ好きなのかを説明するのはむずかしい。

# by enzian | 2012-06-03 11:18 | ※キャンパスで | Comments(6)

のっぺらぼう

ぼくには昔から変なくせがあって、相手に人間の言葉がつうじないと感じたとき、そのひとがサルに見えるようになってくる。そういうひとがキキー、ウッキーと発話するのをじっと聞きながら、あぁおサルさんがしゃべっていると思っている。とりわけそういうおサルさんが自分の権利主張のみをこととするタイプの場合は、これまたどういうわけか、牙をむいたマントヒヒに見えてくる。もうこうなるとダメで、ぼくはヒヒとは距離をおく。

相手が別の言語を話すひとであれば、苦手な外国語であってもあいさつぐらいできるようにしようかとも思うけど、相手に人間の言葉がつうじないとなると、手のほどこしようがなくなる。これはもうコミュニケーションの問題なのではなく、生物学上の棲み分けの問題なのだと思うし、誰しも出くわす、けっこう切実な問題なのだと思う。

ここで考えるのはふたつのこと。ひとつは、自分が他人から見て、マントヒヒになっていないという保証はどこにもないこと。もうひとつは、ヒヒをじっと見つめているときの自分の表情はどんなものかということ。自分ではのっぺらぼうのようになっているのではと思えるのだが、のっぺらぼうは自分の顔を見ることができない。

# by enzian | 2012-05-27 12:44 | ※その他 | Comments(0)

しゃべる自販機

b0037269_12161575.jpg飲み物を買うと、べたべたの大阪弁やらでべらべらと話しはじめる自動販売機がある。ジュースを買った女性が友人にいっている。「恥ずかしくて、ひとりでは買えんかったわ」。

自販機というものができたとき、どこでもいつでも買えるという便利さを喜んだひとは多いだろうけど、その便利さのなかには、「あぁこれでひとと話さずにものを買うことができる、やれやれ」ということも含まれていたのではないか。「いらっしゃいませ」「まいど」「どれにいたしましょうか」という話しかけは、円滑なコミュニケーションの手段であるにしても、買い手の側にも都合があって、今日に限っては話しかけないで欲しい、この店については「まいど」といってほしくない、そっとしておいて欲しいということもある。

みんなかどうかはわからないが、少なくともぼくは、いつもつながりを意識しながら生活しているのではなく、つながりを微妙にオンオフしながら生活している。どうしてもつながりという言葉が必要なら、つながりを維持するためにつながりをオンオフしている。四六時中つながりを十分に意識できなければやっていけないというなら、そのほうが非常事態なのだ。「いらっしゃいませ」を全店員で “輪唱” する合唱系の飲食店や、マニュアルどおりに店全体で前のめりになって話しかけてくるコンビニが多くなってきたなかで、ものいわぬ自販機は、ときに、つながりを過度に求める時勢のなかでは「いま飲みたい」という渇きを癒すときのオアシスなのではないか。もちろん、話しかける自販機がこうして話題になること自体がメーカーとしての広報的な狙いなのだろうが。

# by enzian | 2012-05-06 12:26 | ※街を歩く | Comments(0)

甘い果実

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なんの花か、ご存知ですか?^^

# by enzian | 2012-04-29 11:50 | ※写真 | Trackback | Comments(20)

すでに勝負は決している。

百貨店などちょっと慣れない場所に行くと、入ったときはいいけど、帰る際になるとどうやって入ってきたのか忘れてしまって、帰り道をまちがえる。ぼくはとっても自分にスィートなひとで、個人の問題を全体に帰することで精神の平安を保っているタイプの人間だから、まちがえるのは誰しもそんな具合で、自分だけの問題ではなく、それは “人類に共通する弱点” なのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。ちゃんと来た通路を覚えていて、まちがえずに帰って行くひともいる。なにかがおかしいぞ。

考えてみると、ぼくは棚に並んでいる本を取り出したときも、引き出しからなにかを取り出したときも、取り出したときはいいのだけど、いざそれを戻す段になると、それがどこに並んでいたり、入っていたのかをすっかり忘れている。いや正確にいえば、「忘れている」のではなく、「もともと覚えていない」のである。同じように、なにかていねいに包み込まれたいかにも日本的なものをもらったときも、よろこんで開けるのはいいのだけど、もとの包み方に戻すことは決してできない。開けたら戻せないタチなのだ。

ぼくはつねづね、整理整頓ができるひととできないひとの差は、なにかを使ったあとにすぐ戻せるかいなかに勝負のポイントがあると思っていたが、ひょっとすると両者の分かれ目は、すでになにかを使う前に決しているのかもしれない。

# by enzian | 2012-04-29 09:05 | ※その他 | Comments(7)

三文の徳

歳のせいか、早く目が覚めるようになってきた。布団のなかでごろごろしていても時間のムダだというので、ちょっと早めに学校に行くようにしている。ラッシュ時の電車の押し合いへし合いはつまらないが、通学の中高生の話が聞けて楽しかったりする。昨日は押し合いへし合いのなか、ぼくの隣にいたどこぞの女子高生か女子中学生が大きな声で友人に話しかけていた。「ちょっと、なぁ、今朝の夢、聞いて」。それを聞いてぼくは「現実の問題ならまだしも、なんであんたの夢の話なぞ聞かないかんのだ」と頭のなかでツッコミを入れるが、友人はふんふんと聞いている。荒唐無稽の夢内容のようなのだが、それを言うことでなにを得られるのだろうか、とぼくは考えている。

話すことである程度の整理がつくのだ、ということはよく言われる。だが、ぼくがむしろ知りたいのは、話すことで、聞いてもらうことでなぜ整理がつくのかということであり、この場合の「整理がつく」ということがなにを意味しているのかなのだ。そしてもうひとつ。この場合の「聞き手」は、(自分で自分の声を聞いている)女子高生自身と、その友人にくわえて、ひょっとすると、女子高生のまわりで好むと好まざるとにかかわらず彼女の話を聞かされているだろう不特定多数の乗客も含まれているのか、も気になる。わかったからといって、どうなるわけでもないんだけどね。

# by enzian | 2012-04-21 21:38 | Comments(0)

からめとる言葉

それはときにとてもやわらかな印象を与える言葉で、少なくても聞いてしかめっつらをするようなひとはいない。聞こえがよくて、大切なことのように思えるけれど、よくよく考えてみると、なにを指しているのか、わからない。なにを指しているかわからないから、どんなことでもそれで説明できるようにも思える。たいていのことを説明できるから、誰もがその言葉に当てはまるような気がする。みなにあてはまるから、いつしか、万人がそれを目指さないといけない “崇高な目標” の位置をもつようになる。そして最後には、それがあたかも自分の意志をもったかのようにひとり歩きして、それに無関心であったり、それにしたがわなかったりする者を、コミュニティ不適合の常識知らずとか、変人とか、あげくのはては反社会的分子として断罪するようなものとなる。

こういう言葉に動かされないよう注意しないといけないし、こういう言葉を使うひとたちを警戒しなければならない。そして、なにより、自分がそういう言葉を使っていないか、ときどき自問自答する必要がある。

# by enzian | 2012-04-15 18:39 | Comments(0)

閉店

b0037269_21342978.jpgそばの個人研究室をみれば、「閉店しました」という紙が貼ってある。部屋の主が去ったのだ。あまり話したことのないひとでも、一抹のさびしさがある。

昨日、久しぶりにいちばん好きな飲み屋に行ったら、ちがう店の看板がかかっていた。8月末で閉店したのだという。よりによって自分が東京にいるあいだに閉店することもないだろうにと思うが、ぼくもまた半年のあいだ、個人研究室の鍵を閉めたままにしていた。閉店していたのだ。なにかがなくなったり変わったりするとき、ぼくはいつもそこにはいない。

再開して半年しか経たないうちに、また4月から個研をほとんど“開店休業状態” にしなければならなくなった。残念なことに、ぼくはいくつかのことを並行してできるほど器用ではない。大学に損害を与えるわけにはいかないから、自分には研究はあきらめねばならないと言い聞かせて組み伏せようと思うが、学生が不利益を被るいわれはない。学生と話すときぐらいは開店できればいいのだけれど。

# by enzian | 2012-03-27 22:45 | Comments(0)