出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもない

三月の半ば過ぎにある毎年の行事。華やかなことが苦手なぼくは、きらきらした式よりも、個研で4年間のことをしみじみ話したり、二次会に行って、ほろよい気分でこのさきのことを案じたりすることの方が大切だと思い込もうとするきわめて恣意的な自己弁護作業に忙しい。すいません、式は大切です。毎年この時期に思うのは、出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもないということ。一度出会ってしまえば別れることはないし、もともと出会ってもいないのに別れることなどない。この時期には、ふたつの意味での別れのなさが明確になって、錯綜する。

# by enzian | 2012-03-17 11:25 | ※キャンパスで | Comments(0)

幻想

b0037269_2223949.jpg窓から賀茂川の見える店で食事をしていたら、黄緑色の小さな虫が入ってきたことがある。ぼくはすぐ、それがカワカゲロウの一種で、羽化してほどなくして死ぬ生きものであることに気づいた。

カゲロウは三本の尾毛をたくわえた尻尾を少しもち上げて、コップの縁にとまっている。ここは君の来る場所じゃない。逃がしてやろうと窓を開けたとき、ウェイターが来て、手にもっていた料理を置いて、カゲロウを捕まえようとした。

「逃がしてやってください」。「いえ、逃がすのです」。ウェイターは手早くカゲロウを外に出すと、キッチンに戻っていった。ぼくは片田舎で自然に囲まれて育ったから、ややもすると自分だけが自然のことを知っていて、自分だけが生物のことを知っていて、自分だけが生命の大切さをわかっていて、自分だけが生命愛護的であるかのようにカンチガイしてしまうことがある。

# by enzian | 2012-03-09 22:05 | ※自然のなかで | Comments(3)

「お疲れさまです」の意味

授業での授業(教室での多数を相手にする指導、の意味で使ってみる)や学生指導(研究室等での個別の指導、の意味で使ってみる)が終わると、学生から「お疲れさまです」と言われることが多くなった。「あざーっす」と発音する学生もいる。ほとんど、クラブやアルバイトさきでの乗りなのだろう。昔はなかった用語法だし、少し引っかかりがあるので自分ではなるべく使わないようにしているが、やはり使わざるをえない。これ以外にひとをねぎらう言葉が思いつかないのだ。なにに引っかかっているのか、以下に箇条書きにしてみる。

(1)授業にしても学生指導にしても、ぼくはボランティアでやってるわけではなく、実質的には、学生たちが払う学費から給料をもらってやっていることなのだから、学生がぼくの行為をねぎらう必要はない。(もちろん、学校は利潤追求を至上命題とする企業ではないから、そんなこと承知したうえでなおねぎらってくれる気持ちこそ、大学らしい心のやりとりだと思っている。)

(2)授業にしても学生指導にしても、ぼくは給料が欲しいからやっているのではなく、個人的動機としては、趣味の一環としてやっている(こういうことをいうと、職業意識がないとか難癖をつけるひとがいるだろうが)のだから、ねぎらう必要はない。これはとくに学生指導に当てはまる。

(3)教室での授業ごとき、大した仕事量でもなく、また特別にむずかしいことではない(ちなみに授業をバカにしているわけではない。学生指導とは困難さのレベルが違うと言っている)ので、ねぎらう必要はない。(学生指導には高度の能力が必要だと思うが、(1)(2)の理由からねぎらう必要はない。)

というわけだが、ひょっとすると「ねぎらう」には「労(ねぎら)う」だけでなく「祈(ね)ぐ」の意味も含まれているのかもしれない。だとしたら、学生たちは「お疲れさまです」というねぎらいの言葉で、「もっとしっかり授業や指導をして欲しい」と言っていることになり、やや(゚◇゚)~ガーンとなり、にわかに問題は緊迫の度を増してくる。

# by enzian | 2012-03-05 23:13 | ※キャンパスで | Comments(0)

寸鉄

b0037269_225055100.jpg学生からの言葉がずっと心に残ってしまうことがある。ここ二年ほどでもふたつあった。ひとつは、いまここで詳しくいうわけにはいかないが、初心を忘れかけていたぼくの胸を刺す寸鉄となった。

夜半、怠け心がおこったとき、ぼくはこの言葉と、そのときの学生の切なげな表情を思いだして、なんともいえない気分になる。その願いを果たせないなら、自分がいま大学にいる必要はない。それはたしかなことだ。だがそれにしても、それを果たすことは可能なのだろうか。自分にそんな能力があるのだろうか。そんなことを考えつつ、ぼくはまた、もう少しだけと、誰もまともに認めることなどないであろう研究のために、古ぼけた書物を読み進める。

# by enzian | 2012-03-02 22:57 | ※キャンパスで | Comments(4)

化粧の底力

こういうことをいうときっとまたイヤミなことをいっているのだろうと思われるだろうが、ぼくは真剣に化粧が偉大だと思っている。あのアイテムの多様さ、謎の深さということもあるのだが、きれいになったのかどうかは美的センスのないぼくにはわからないにせよ、少なくとも使用前使用後で別人になっている、ということはいえるからだ。

あるとき、もうずっと前の話で時効だろうから書くけど、コンパの日に誰かが個研のドアをノックした。ぼくは入ってきたそのひとが誰かしばらくわからなかったのだけど、声を聞いたらゼミの4年生でびっくり仰天したことがある。どこぞの百貨店の化粧品コーナー(こういう呼び方でいいの?)に行って、ぱたぱたとやってもらったらしい。見慣れた顔を識別不能にしてしまうとは‥‥このときぼくは化粧の底力に度肝を抜かれたのだ。

河原の石とか、畑のじゃがいもとかに化粧をして競うような番組やコンテストはできないだろうか。じゃがいもなんか、かなりの美貌になる気がする。「つぎのエントリーは、北海道○○町のメークインさんです」とか。河原の石なら、「さて、続いて長良川の石灰岩さんです」とか「関東からは利根川左岸のチャートさんです」とか、おもしろいと思うけどな。じゃがいもの場合、化粧品が可食のものなら、最後の評価を「美味」にして、参加者たちを肉じゃがにして賞味したら、食べ物を粗末にすることもない。そのうち、生身の人間を超える美貌をもったミス野菜とか、岩石クイーンたちが出てくるかもしれない。

# by enzian | 2012-02-11 23:06 | ※その他 | Comments(0)

本性

酔っ払ったときに本性がでるのか、それとも、酔いというのは本来の自分を覆い隠してしまうものなのか、どちらの考え方もあるだろう。ぼくは前者だと思っているのだけど、同じことは、すごく忙しいときにもいえるのではないか。忙しいときにこそ、そのひとの本性が出るように思うのだ。そういう意味では、忙しいとは、よくいわれるように「心を亡くす」のではなく、「ふだん隠されていた心が現れる」ということになる。なかにはわざと忙しくして自分の反社会的な本性が顕現しないようにしているひともいるようだが、そういうひとのことは考えないでおく。

とすれば、忙しいときこそ、たくさんの仕事を抱えたひとは「みられている」と思う必要がある。忙しいときこそ、ひとへの応対、身のこなし、指先の動き、会話の語尾、言葉の強弱といったものを測られてしまう。「つい忙しくて、ゴメン」という弁明は成り立たず、周囲は「なるほど、そういうひとなのか、よくわかった」とみるわけだ。ぼくは本性をひた隠しにしておきたいので、忙しくなりたくない。忙しくなると、必ずマフラーを落とす。

# by enzian | 2012-02-06 23:46 | ※その他

笑い声の音

笑うときの音、笑い声というのはどう決まるのだろうか。笑い声は一定の条件下、たとえば不意を突かれた場合とか、相手を警戒させたくないときなどに息が口から出るときの音なのだろうけど、「あ」で笑うひともいるし、「い」で笑うひともいる。「う」も「え」も「お」もいる。もちろん、ア行だけでなく、そのほかの音で笑うひともいる。

昨年、同僚にはっきりと「し」で笑い続けるひとを発見して、ちょっと珍しいなと感動した。もちろん、ひとりのひとがどの音で笑うかは完全には一定していていないのだろうけど、作為的な笑いとか外交的な笑いをべつにして、不意をつかれたときの笑いがどの音になるかは、それなりに決まっているのだろう。

「あ」の口で笑う〈ア段のひと〉と、「い」の口で笑う〈イ段のひと〉etc‥‥そこにはなにか差があるのだろうか。それとも、それはまったく偶然なのだろうか。また、寒い地方は口を開けにくいからイ段とかウ段で笑い、暖かい地方は比較的、ア段とかオ段で笑うとか、笑いの地域差はあるのだろうか。ちなみにぼくは「ウケケケ」と笑うといわれたことがあるが、それはぼくが全体から漂わせる悪しき印象によるもので、じっさいにはとっても爽やかに、「あ」か「う」で笑っていると思う。そうにちがいない。

# by enzian | 2012-01-28 21:58 | ※その他 | Comments(0)

長押し

なんかいカチカチしても百円ライターの火がつかない。液状のガスは残っているものだから、壊れているとばかり思って、「所詮100円の代物とはこんなものだ」とか、「製造地が悪いのだろう、いったいどこで製造されたのか」などと好き放題いっていた。それが今日、ひょんなことから火がついた。どうしてだろう?と考えはじめたら理由は簡単で、ぼくは火花を出す部分だけを懸命に動かしてカチカチやっていたのだが、ガスが出る部分を長押しせずに、さっさと手を離してしまっていたために火がつかなかったのだ。

われながらバカだなと思ったし、自分は一事が万事こんな調子なんじゃないかなと反省もしたけど、それにしても、「長押し」というのは、ぼくには意外にむずかしい。瞬時に押すことには慣れていても、じわっと長く押すという発想が弱いのだろう。

# by enzian | 2012-01-21 16:50 | ※その他 | Comments(0)

外向的なウナギと内向的なアナゴ

東京ではわたしくしはウナギであったが、京都にもどるとやはりアナゴになっているのである。というようなことをいうと、「ついにenzianがおかしくなった」というひとがいるかもしれないが、もともと総じておかしいから、これ以上おかしくはならない。

そういうことではなくて、わたくしにとっては、ウナギとは店の軒先でぱたぱたと焼かれていて、その恐るべき匂いで行き交うひとの足を止め、大金を払わせるという外向的であからさまなものであり、アナゴとはもっぱら穴のなかに閉じこもっているもの、料理されるとしても人知れず奥の調理場で調理され、特別の匂いでひとを寄せるということもなく、はっと気づくと深川めしに乗っているような内向的で奥ゆかしいものなのである。

25日以降はほとんど家を出ず、家アナゴのような生活をしている。わたくしはアナゴが好物であるが、かといって毎日毎日アナゴではくたびれてしまう。たすけてウナギ。

# by enzian | 2012-01-07 23:54 | ※その他 | Comments(0)

歩きながら考える

b0037269_194271.jpg初夢は不思議な夢だった。見えない乗り物に乗っているようで、地面から少し浮いていて、浮いたまま移動している。それであれこれの場所に行ってみる、という夢。夢のなかでは、「なるほど楽だけど、やっぱり歩くのが好きなんだ。好きなひととしかいっしょには歩かないよ」なんて言っている。いったいだれと話していたのやら。

歩きながら考えるのが好きで、ひょっとすると、パソコンの前でうんうんうなっているよりも、ぷらぷら歩いているときの方がよい考えが浮かんだりする。リラックスもできる。

といっても、どんな道でもいいというのではなく、車がビュンビュンそばを通り過ぎていくような道路はイヤだ。ひとが歩く道、ずっと昔からたくさんのひとが行き交ってきた道がいい。そういう昔のひとたちの気配を感じながら、昔のひとたちを懐かしく思いながらそのひとたちといっしょに歩ける道がいい。

昨年は、文章を書くのに行き詰まるたび、下町をあちこち歩いていた。東京で書いた文章は、それまで書いていた文章とはちがうものになっている。それは、研究方法を少し変えたということもあるのだけど、歩いてきた道のせいもあるのかもしれないな。

# by enzian | 2012-01-04 19:39 | ※街を歩く | Comments(4)

生きることに即した思考能力

入らなかったらよかったと後悔するような店にまれに出会う。そういう店は比較的小さく、扉を開けたとたん店長(シェフ)と出くわすような店なのだが、目が合ったとたん、二人の視線がバチバチとぶつかりあって、ぼくはなにかを感じ、相手もぼくが感じたことを瞬間的に読み取る。相手がなにかを読みとってぼくを警戒すべき人物と判断したことをぼくもまた瞬時に読み取る。この間、およそ1秒。こうして、辺りにただよう警戒感に、来てはいけなかった店に来てしまったことを後悔しつつ、重苦しい食事がはじまってしまう。

今年もこういう経験が二度あった。一度は東京で、はじめてもんじゃ焼きを食べたのがそういう店だった。警戒電波をヒリヒリ感じていたから自分で焼きたかったのだが、あいにく未知の食べ物だったから焼いてもらわざるをえなかった。こうして、記念すべきもんじゃ一号はどんな味かもわからないまま終わった。もんじゃ焼きはそれっきり。二回目は奈良で、若いシェフの目をみたとんいかんと思ったが、よりによって珍しくもコースを予約していたことが災いして、美味しいサラダからはじまる気まずいコースを堪能した。

ぼくはかつて品行方正(もう少しべつのいいかたはないのかな)でなかったひととか、いま品行方正でないことをウソでごまかしているひとであることが目を見ればだいたいわかってしまう。そしてそういうひとたちというのは自分の隠そうとしていることを見破られることをいつも警戒しているから、見破るぼくのことがわかるのだろう。

こういうのを第六感とか特殊な直観能力というひとがいるかもしれないが、ちがうと思う。ぼくは一日を生きるために品行不方正から自分を守ることを、ウソを見抜くことを強いられてきた生活が長かったから、痛い経験たちを蓄積したデータベースと、データーベースに検索をかけて瞬時に行動を選び出す(=分析する)ような〈生きることに即した思考能力〉をもってしまっただけで、特殊な直観能力があるわけではない。たぶん、ぼくの心の動きを瞬時に判断した店主たちも同じような思考能力をもっているのだろう。

# by enzian | 2011-12-30 22:38 | ※その他 | Comments(0)

善知識

b0037269_18182961.jpg人間関係で判断に困ったとき、「あのひとであればどう判断するだろうか?」と、許可も得ていないのにかってに登場いただく、〈脳内の常連〉とおぼしきひとたちがいる。

そのひとりはカントで、ひとりは祖母。それぞれ、ぼくにとっては一定の範囲内での押しも押されぬ権威者として、脳内にどっかと鎮座ましましている。祖母はカントなんて名前、それどころか、哲学という言葉も知らなかったけれど、祖母のおかげでぼくは哲学と、そしてカントに出会うことができた。

もうふたりは大学の恩師。とくに学生との関係で迷ったときに、いつもふたりを思い出して、「先生ならどうなさるだろうか?」と思いをめぐらす。記憶のなかにしまってあるふたりの言葉に検索をかけて、類例がないかどうか、参考になるものがないかどうか探しはじめる。そうすると、ひとりはやさしいままに微笑みながら、ひとりは思いやりに満ちた暖かい心を押し殺して明晰に、語りはじめる。ぼくはふたりの言葉にじっと耳を澄ます。

# by enzian | 2011-12-24 18:20 | ※キャンパスで | Comments(0)

柿を食うということ。

個研でくるりくるりと柿を剥いていたら、コンコンとノックの音がして、入ってきた学生がこう言いよりました。「ギャー、センセイが柿をむいている!」と、そしてそれだけ言って、バタバタとどこぞへ走って行きよりました。ぼくはただ柿が食べたかったから剥いていただけなのです。なのにギャーだなんて‥‥。失礼しちゃうわ(死語か?)、なのです。いったい学生はなにを「ギャー」と感じたのでしょうか。考えてみましょう。

(a)柿が珍しかった。
→(コメント)残念です。リンゴやらミカンなど、「いかにもフルーツ」といったものがもてはやされる昨今ですが、柿大好きのぼくとしては、やや日陰の身の柿ではありますが、そのよさも見直してもらいたい。いかにも「ペット」といったイヌやネコ、水族館のラッコがもてはやされる昨今ですが、けっきょく頼りになるのはカワウソだと心得ておくべきなのです。

(b)柿を剥いているおっさんが珍しかった。
→わからないではありません。柿が豊富な地域で育ったぼくでも、ぼく以外のおっさんがニヤニヤしながら柿を剥いている光景を見たことはありません。

(c)柿を剥いているおっさんのテツガクシャが珍しかった。
→誤解です。おっさんのテツガクシャといえども、かすみを食って生きているわけではないのです。柿を食いもすれば、牡蠣を食って当たることもあるのです。

(d)柿を剥いているおっさんのテツガクシャであるenzianが珍しかった。
→誤解ですが、しかたありません。ぼくが台所にマイ包丁をずらり並べる包丁人で、かつアウトドア・果実採集系であり、さらには骨の髄までの体育会系であることを知っているひとなど、ぼくの同僚にさえひとりもいないくらいですから、学生たちがぼくをインドア・本の山埋もれ系ケケケ男だと思い込んでいたとしても、まったく無理のないことなのです。

# by enzian | 2011-12-02 22:45 | ※キャンパスで | Comments(6)

週一の拷問

やりにくくてしかたない授業がひとつある。おかしい、おかしいと思ってはいたが、なぜなのか理由がわからず、ごまかしながら続けていた。ごまかしていたつもりだが、書き落としをしたりして、やはりミスが出てしまう。まじめに授業を聞いている学生に問題はない。問題はまちがいなくこちらにあるが、なぜその教室での授業だけ落ち着かないのかわからなかった。その理由が今週やっとわかった。授業中、教卓の両サイドにある窓ガラスに自分の姿が映るのだ。これまで大教室の授業を遅い時間帯にしたことがなかったから窓ガラスに自分の姿が映るというのは経験したことがなかったが、辺りが真っ暗になると、窓ガラスが鏡面のようになって講義者の姿を映し出してしまうのだ。

学生たちに向かって話していると、同時に、視界の両方の端に学生に向かって話している自分の姿が見える。ぼくはもともと自分の姿を見るのがキライだ。散髪屋にいっても、ほとんど鏡を見たことがないぐらいなのだ。しかも、視界に映るその姿は、おそるべきことに「教壇に立つ教師の姿」なのだ。〈自分=教壇に立つ者〉という自覚のまったくない、というかそれをひたすら避けてきたぼくには、これは拷問に等しい。

# by enzian | 2011-11-26 22:59 | ※キャンパスで | Comments(10)

ウソは最低の防御なり。

b0037269_10115813.jpg誰しもそうだろうが、ウソが好きではない。自分はきわめて腹黒い人間だから、ウソで厚化粧して生活しているが、他人につかれるのは楽しくない。

ウソそのものがキライというより、ウソをついてバレないと思っているひとの了見が痛ましくて、残念でしかたないのだ。「痛ましい」なんて言葉がどれほど思い上がったいい方かはわかっているつもりだが、ぼくは正直だから、感じたままをいうしかない。ややこしいことをいうな。

つかざるをえない事情があるのだろう。事実を語れば関係を壊してしまう、苦労してつかまえた相手の信頼を失ってしまう、都合よく利用できなくなってしまう、と考えているひともいるのだと思う。じっさい、上手にウソをついておくほうが有利な相手も多いのかもしれない。だが、事情があるにしても、ぼくは見え透いたウソをつかれるのが世の中でいちばんキライなのだ。生理的に受けつけない。「私には包み隠さずほんとうのことをいって下さい」なんていうつもりはないし、いえる権利もないと知っている。だから、ぼくの心は、ウソでぼくとの関係を守ろうとしはじめたものをみたとき、なにもいわず、そこから去ってゆく。

# by enzian | 2011-11-22 22:58 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(2)

紐帯

b0037269_16174957.jpg新幹線のホームでは多くのひとが電車を待っていた。なかにひとり、どうしても違和感をぬぐえないひとがいた。

正確にいえば、それは「ひと」というより、もっとべつの生きもののように思えた。彼は終始うすら笑っていた。ときおり周囲に目をやっているが、彼が見ているのはこの世界ではなく、スクリーンに映された影像なのではないか。彼の世界とスクリーンに映された世界はべつの世界で、スクリーン上の人間と彼が交わることはない。混じりあうはずのないものを意味もなくえんえんと見せられ続けている――そういう齟齬(そご)の感覚が彼のうすら笑いになっているのではないか、ぼくにはなぜかそんなふうに思えてならなかった。

電車がホームに入ることを告げるアナウンスが響く。まもなく電車が着いて、車両に乗り込もうとする姿を見てはっとした。彼と、彼の後ろから乗り込もうとする男性の手首は、太い綱で結びつけてあった。

# by enzian | 2011-11-19 15:52 | ※その他 | Comments(0)

enzian深まる秋

ときどき中学のときの夢をみる。体操服に着替えようとしているのだが、うまく着替えられなくて、授業に間にあうかどうかはらはらしている夢。着替えてグラウンドへ走りだそうとするが、手足が鉛のように重くなって、うまく走れない。スローモーションのようになって、焦りに焦っているうちに目を覚ます。夢をつくっているのは自分だろうが、いったいこれでなにをいわんとしているのか、かいもく、わからない。こんななんの教訓にもならないような夢をみさせるぐらいなら、ぐっすり寝かしてくれよ、と自分に向かって話しかける。

夢ではないが、不思議とよく思い出すひとつの場面がある。暴風吹きすさぶなか、びしょ濡れになって、瀬田の唐橋をぼくと母と弟が歩いている。飛ばされまいと、足を道路にしっかりつけながらわたっていく。これは実体験で、それはそれは恐ろしく、不安で、暗かった。思い出というのはだいたいこんなふうで、とても苦労したとか、とてつもなく怖かった、といったことの方がはっきりと記憶に残ってしまう。いろいろ思い出すが、夜長のこの時期、たいていのことは、よくよく考えれば自分が悪かったのではないかなどと反省してしまう。やはり晩秋はいい。秋が深まるにつれてぼくが澄みゆき、ぼくが深まっていくのだ。

# by enzian | 2011-11-14 22:28 | Comments(0)

ほの暗さ

暦のうえではもう冬になったというが、京都はこれから紅葉の時期を迎える。紅葉は美しいが、京都の秋はどこもかしこもひとだらけで、ゆっくり楽しむどころではない。むしろぼくが好きなのは紅葉もすぎた晩秋。そんな時期、落ち葉の絨毯が敷かれた森を歩くのは楽しい。静かな森には踏みしめた落ち葉のカサカサという音だけが響く。空気が冷えて、星の輝きは日に日に強くなり、海の水は澄んでいく。ハロウィーンがすぎればすぐにイルミネーションとジングルベルで埋め尽くされるのが晩秋から冬にかけての定番となりつつあるが、ハロウィーンとクリスマスのあいだにはしばしの静寂と “ほの暗さ” が欲しい。ほかの季節にはない晩秋のよさをしみじみ味わいたい。

# by enzian | 2011-11-10 23:33 | ※自然のなかで | Comments(0)

観念

「授業中にとつぜん先生の目つきが鋭くなって、なにかを狙っているのだなと思った」。こちらのちょっとした目つきの変化で心の動きを察知されていたと聞いて、その鋭敏さに驚く。たしかにそのとおりで、そのときぼくは授業をしながら、あることのタイミングを狙っていたのだった。そしてそれはじつにろくでもないことで、そんな気持ちをほかの学生にも見抜かれていたのかもしれないと思うと、情けなくなった。ときどき盛り上がって、できるだけひとに迷惑をかけないで生きていきたいなどと願うこともあるが、たちまち無理だと思い知らされて、ほうぼうに迷惑をかけながらやっていくしかないと観念する。

# by enzian | 2011-11-06 23:45 | ※その他 | Comments(0)

粘土細工

昔、ぼくが学生時代、いつも大教室のいちばん前の席に座って、ろくろく授業は聞かず、一心不乱に紙粘土で怪獣をつくっている学生がいて、ぼくらはそやつを「粘土」と呼んでいた。何度か話しかけようとしたが、けっきょく、粘土と話すことはなかった。

ひとの悩みらしきものを聞いていると、多くの場合、いかようにも脱出する方法はあるのだが、その方法を使わないようにしているのは悩んでいる当人だと感じる。場合によっては出口はいたるところにあって、一歩でも足を踏み出せば外の世界にかってに行ってしまうぐらいの状態なのに、まず足を石膏で固定して、ついでひとつひとつの出口を粘土で念入りに目止めしているようなひとたちをみると、悩みとは出口がないということではなく、そこにあるとわかっている出口を利用できない愚かさの自覚なのだ、とさえ思ってしまう。

当然、そういうひとたちに「出口はある」と伝えてもなんの意味もない。求められてもいないものを全力で提示し続けることを、ひとは「徒労」と呼ぶ。おそろしい言葉だ。こうした粘土や石膏の心当たりが自分にもあるのではないかと自問自答してみようともするが、めんどくさいので、自問自答の働きを粘土と石膏でびっちり固めておく。

# by enzian | 2011-11-02 23:18 | ※その他 | Comments(0)

人差し指は覚えている

右手の人差し指にはふたつの傷あとがある。ひとつは釣り上げたタチウオに噛まれたあと。大阪湾の夜の防波堤でのできごと。噛まれたあとも根性で釣り続けた。もうひとつは、ずっと記憶をさかのぼる。小学校に入ったばかりのころであったか。近所には小さな水路があって、緑の藻が生え、細長い魚が泳いでいた。澄んだ水の底には、とこどろころ赤やオレンジ色が塗られた瀬戸物の欠片が沈んでいるのがみえた。

あるときぼくらはそれを拾い上げ、壁に投げては割っていた。隣にいた、誰であったかもう覚えていない少年が欠片を投げたとき、指先に強い痛みが走った。ぼくは指先に流れる赤い血をみて家へ走って帰ったように思うが、それは曖昧な記憶で、夢であったか現実であったか、わからない。記憶でたしかめることはできないが、指の傷はそれが事実であったと語っている。思い出すことはできないが、きっと泣いて帰ったぼくに驚いたひとがいて、手当してくれたひとがいたのだ。ときどき人差し指をみて、傷あとをなぞってみる。

# by enzian | 2011-11-01 23:36 | ※山河追想 | Comments(0)

すっきりとぎっくり

坐ろうとしたときにグキリときた。こんな言葉、使いたくもないが、ぎっくり腰なのである。せんじつ、とある大学の方が、いかにもぎっくり腰でさくさくとは歩けませんという風な身のこなしでエレベーターに入ってきたときに思わず笑ってしまい、詫びをいれたばかり。こんな失礼なことをしてしまったら、いずれバチが当たって、自分もなってしまうのではないかと、ひやひやしていたらこれなのである。パソコンの前から一歩も動けやしない。

こういう場合、バチが当たったわけではなく、バチが当たっては困ると意識しているものだから、失礼→ぎっくり腰という天罰、という因果関係を創作してしまうというふうに考えられるのだろうが、自罰と考えるのもおもしろい。失礼な自分を許しておくぐらいなら、自分もぎっくり腰になった方がまだ気持ちとしてはすっきりする。ならば、不自然な坐り方をしてぎっくりしてしまえ、というわけだ。天とは自分なのである。

# by enzian | 2011-10-29 21:24 | ※その他 | Comments(0)

思い切る

「思い切る」という言葉はずっと「決心する」の意味だけだと思っていたが、「断念する」「あきらめる」の意味を含んでいると知ったのはいつのことだったか。『星の王子さま』を読んだときだったかもしれない。「こころ切る」とか「精神切る」という表現はなくて、「思い切る」という表現があるのは、「思い」には、なんとなく粘着質で、枝垂れ柳のようにどこまでも長く伸びて、なかなか区切りがつかない働きのニュアンスがあるからなのだろう。

こちらに戻ってきて一ヶ月が経とうとしているが、研究どころか、昨年度の積み残しの仕事にさえ着手できていない。これでは総倒れの憂き目を見てしまうので、来週からは、自分の責任のなかにあってどうしても必要なこととそうでないこと、言いかえれば、〈内と外〉を区別して、外は思い切ることにする。〈外〉のものごとよ、非情と言うなかれ。

# by enzian | 2011-10-27 23:18 | ※キャンパスで | Comments(2)

見なかったことにして

バスを降りると盛んに雨が降っている。いらっとしながら折りたたみの傘を開けようとすると、暗いバス停に若い女性がひとり立っていた。傘をもっていないらしい。バス停からさほど遠くないところに住んでいる女性とわかる。顔を見たことがある。傘に入れてあげようかと思うが、すぐに打ち消す。相手が少年や男性であれば声をかけられただろうが、しょせん、相手は決して声をかけることはできない存在なのだ。かければ相手にも迷惑だろうし、こちらにもどんな災いがふりかかるかしれない。そんな小さなこともできないとは。なにも見なかったことにして、ひとり傘をさして家路に急ぐ。男と女、つまらぬものだ。

# by enzian | 2011-10-24 21:35 | ※その他 | Comments(0)

エチケット

つねひごろ、どうしてひとはあいも変わらないのかと不満ばかりもっているが、たった半年で、すっかり別のものになったり、きれいにもとに戻っていたりするのを目の当たりにすると、なんとまぁひととはフレキシブルなものかと、ころっと考えを変えたくなる。もちろん、こちらとしても、この種についてはこのような環境においてあのような変化をとげるだろう、あの種についてはあのような環境であるからこのように変化するであろうといった “変化の想定” をしているわけで、そういう意味では、想定の範囲内からでるものはなかった。

変わらないこともあった。ぼくの相変わらずの怖がられっぷりである。「怖い、怖い」とうるさくてかなわないのである。怖いなら近づかねばよかろうに、耳元での大合唱なのである。まぁ世の中にはお化け屋敷とかモンスターハウスに近づこうとする少数の物好きがいるのだから、こういうことになるのかもしれない。もちろん、自分のことを弁えているぼくは、自分を怖がっているとわかったひとにはもうそれっきり一切近づかない。そんな、怖くて泣いている子どもをさらに怖がらせるようなまね、やなこった。せめて三分の一人前の社会人として、いたずらに近づかないでいてあげることがエチケットだと思っている。

# by enzian | 2011-10-19 22:09 | ※その他 | Comments(0)

清涼飲料水

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あんなにうとましかった夏の暑さが、もう懐かしい。

# by enzian | 2011-10-15 20:38 | ※写真 | Comments(0)

ぴりぴり、ひりひり

とある四川料理店にいったときのはなし。その店の麻婆豆腐は唐辛子や花椒がしっかり使ってあり、かなり本格的に辛く(辣)て、痺れるような味(痲)付けで、この手の料理を食べ慣れているぼくからしても限界の香辛料の効き具合だと思ったのだが、店主によれば「若い方はこれでは足りないとおっしゃる方が多い」ということであった。

こういう料理には汗を出すこと、汗を出したあとの爽快感を楽しむという意味があるのだと思うが、汗を出すために必要な一定量を超えてぴりぴりやひりひり自体を求めているのだとしたら、それは一瞬であっても、生命を維持するための食事に自分への圧迫感とか抵抗感をくわえていることだろうから、(同じことは炭酸飲料水でいったことがあるけど)興味深いことだ。これが自虐の意味ではないかなどという邪推は、怖いのでしないでおく。

# by enzian | 2011-10-13 22:26 | ※その他 | Comments(0)

ぴょん吉、その後

なんにんかのひとにぴょん吉のその後を聞かれたので、書く。こんな話、読んでいるひとがいるとは思わなんだ。引越の日、部屋のものをすべて出してしまうというので、心配していたのは知らぬうちに彼を踏みつぶしてしまわないか、ということだった。朝、段ボール箱をガムテープで閉じていたら、うまくぴょん吉が飛び出してきた。このときばかりはなんとしても捕まえねばならぬと、大捕物をして、見事、御用にした。

どこに逃がそうと迷ったが、けっきょく、ベランダに置くことにした。ベランダはお隣さんたちとつながっているから、人間の部屋が好きなぴょん吉はどこか彼の好きなところにいくだろう。その部屋主とぴょん吉の相性がどうなるのか、スリッパでパンパン叩かれたりしないだろうかなどと心配になるが、考えてどうにかできるものでもない。「お元気で」と、いつも人間との別れのときにもいう言葉とともに、ベランダに置いたのであった。

半年ぶりに京都の山奥の家に戻ったら、カネタタキが侵入していた。夜ごとカンカンと風流なことである。ぼくはぴょん吉のことは忘れて、このカネタタキをあたらしい友だちにすることにした。お前の友だちは節足動物ばかりなのか。

# by enzian | 2011-10-09 22:39 | ※その他 | Comments(0)

慧眼の士

b0037269_23343271.jpg半年間のブランクを埋めることに追われる。資料を整理していたら、校医の先生が退任なさっていたことに気づいた。思わず「しまった」とつぶやく。

その名前は学生時代からあったし、たしかに今年まであった。その名前があることが安心でもあった。慧眼の士。昨年見かけて、足下がおぼつかない風であったので覚悟していたとはいえ、なにかがはらりと落ちたように感じた。私的な関係にあったわけではないとしても、ひとこと、伝えたかった。これまでぼくはいつも最後の瞬間を逸してきている。気づけば、いつもすでに事は終わり、ぽつんと取り残されているのだった。別れはいつか来るものとはいえ、できることなら、お世話になったことのお礼の気持ちを示して別れたい。

# by enzian | 2011-10-07 23:36 | ※キャンパスで | Comments(0)

いつも前から歩いてくるひと

ときどき向こうから歩いてくるひとがいる。誰だか知らない。脇目もふらず、まっすぐ前を向いてどうどうと、ゆったりと歩いている。こちらに興味を示す様子はない。決まって手ぶらだが、ときどき小さなウェストポーチらしきものをつけていることもある。毛むくじゃら系だが、それなりに荒っぽくまとまっている。背丈は大きくない。彼に最初出会ったのは、ぼくが19歳のときで、大学の構内でのことだった。ぼくは一目でその顔を覚えた。なるほど大学とはこのような人間が闊歩するところなのだ、と思った。あのときから彼の風貌はまったく変わらないままで、ときどき忘れかけたころに前から歩いてくる。いつも前から歩いてきてすれ違うばかりで、後ろから来て抜かれたことは一度もない。

# by enzian | 2011-10-07 22:47 | ※キャンパスで | Comments(0)