というわけで。

帰ってまいりました。とあるところでしばらく毎日書いていたのですが、投稿が1000回を超えて新鮮味がなくなってきたので区切りをつけたのでした。やめた途端、毎日読んでいたのに‥‥みたいなメールがどこどこ届いたのですが、それならそうと言ってくれればよかったのに‥‥とも思ったのでした。言われてもやめていましたが。

あぁエキサイトブログは使いやすい。今後はこちらにときどき書きますが、そんな大したことは書きません。twitterぐらいの使い方です。

# by enzian | 2015-03-21 19:05 | Trackback | Comments(6)

元旦

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ご無沙汰をしております。昨年は元旦に一度投稿しただけでした。元気にしておるのですが、なかなかこちらに記事を書くまでにはいたりません。別のことをしております。なんの交友活動もせぬふつつか者ですが、今年もよろしくお願いいたします。

# by enzian | 2015-01-01 21:14 | ※その他 | Trackback | Comments(6)

新年のご挨拶を。

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みなさま、お元気でいらっしゃいますでしょうか。昨年もぜんぜんでしたが、いちおう、ときどきはブログをのぞいております。元気でやっております。

今年もほとんど書けそうもないブログですが、よろしくお願いいたします。

# by enzian | 2014-01-01 22:37 | ※その他 | Trackback | Comments(10)

暑中見舞い

ごぶさたしております。今年の夏も暑くなりそうですが、いかがお過ごしでしょうか。ぼくはといえば、かの地で毎日文章を書いておるのですが、そこはここからは遠くへだった場所のような気がします。べつのところで文章を書いていても、ときにはここで書けるだろうと思っていのですが、書けないものですね。時間がないのではなく、気分を切り替えることができないのです。じぶんが、一度に二つのことをできない不器用な人間であることを改めて感じています。といっても、不器用でいいと思っているのですが。

今日の京都は雨で、明日も雨が降るようです。きっと雨が降ったから、少しだけ、ここに戻ってきたのでしょう。みなさまには、夏の疲れが出ませんように。

# by enzian | 2013-07-13 18:30 | ※その他 | Trackback | Comments(22)

手動ポンプ

b0037269_172854.jpg街を歩いていて、まれに現役の手動ポンプに出くわすことがあると、ぎーこぎーこやって、水を出してみたくなる。出した水に手をひたしたくなる。

手をひたしたくなる衝動は誰よりも手の体温(今年、自分より体温が高いひとに会って驚いた)が高いぼくの特徴なのだろうか。

幼いころの記憶のなかには一場面だけ、自宅の手動ポンプが動いていて、水がじゃーじゃー出ていたシーンが残っている。ハンドルは重かった。水を手に入れるのは簡単なことじゃない、という印象がわずかにあるのだ。

# by enzian | 2012-09-17 17:10 | ※街を歩く

カラスはカラス

カラスがゴミ場をあさっている。怖がらないものだから、まじまじ見る。非常に精悍で、利口そうな顔をしている。羽根の色はつやややかに黒い。ぼくには美しく見えるのだが、これほどまでにこの鳥がきらわれるのは、この黒がいけないのだろうか。であれば、めでたく紅白に塗りつぶせばよい。

羽根色の問題ではなく、ゴミ場にいるのがいけないのか。であれば、優雅な蝶のように、花から花へと蜜を吸い飛ぶようにしつければよいのか。それでもなおカーカーという鳴き声がイケナイというのなら、小鳥のようにぴぃーぴぃーと鳴くよう教えようか。

そんなことをすれば、カラスがカラスでなくなってしまう。

# by enzian | 2012-08-11 14:41 | ※街を歩く

紙風船

b0037269_0255932.jpg学校からはさほど遠くないところに「ユリヤ商会」というおもちゃ屋があった。店先にはいつも玉を追っかけまわすキツネのようなアライグマのような動物のおもちゃが動いていて、ぼくの学生のころから変わらず老夫婦が店を切り盛りされていた。

かなりの高齢のようで、いつまで続くかと、大きなお世話だろうに、その前をとおるたびにひやひやしていた。正月になれば、ゲイラカイトやらが置かれていて、季節によって商品を変えているのだと驚いたことがある。

客が入っているのを見たことはない。いつかなにかを買ってみようと考えていて、紙風船がいいと思いついた。好きなのだ。ゴムでできているわけでもないものが風船になることが、小さなころは不思議だった。ふっと息を吹き入れて、ぽんと音をならして空に打ち上げると、すっとではなく、ゆっくりふわりと落ちてくる。またぽんと打ち上げる。

先日、店前をとおったら、シャッターは降りており、閉店を告げる紙が貼られていた。誰しもそうだろうが、衰退していくのを見ることには胸をしめつけられる思いがする。伸長していくひとたちを見るのが仕事であったことに胸をなでおろす。

# by enzian | 2012-07-01 00:30 | ※街を歩く

梅雨時に生まれて。

b0037269_12293244.jpg「お前がなにかするときは雨やな。産んだとき、雨が降ってたやろか、どうやろう」――いつも母がつぶやいていた。そのさが?はいまも変わらないようで、ここぞというときには雲がたれこめる。台風が近づき、風が吹く。雪が降る。ときにひととなにかをするときもそんなぐあいだから、心のなかでは申しわけないと方々に謝っている。

今年も、たくさんの心をいただいた。当人でさえほとんど記憶の片隅に追いやっているような日に、毎年変わらず、忘れることなく温かな言葉を届けてくれる卒業生たちがいる。そのひとたちの学生時代のことを思いだしながら、なぜそんなことができるのかと考えていた。――たしかに、自分は雨の日にはじまったのかもしれない。母は雨の日を選んで産んでくれたのかな。

# by enzian | 2012-06-16 12:37 | ※その他 | Comments(8)

枇杷の実

校内のいっかくには枇杷の木が生えている。この季節になるとオレンジ色に色づいてくるが、採るひともおらず、毎年落ちるがままになっている。ある年、学生がひとり、コロコロしたものを抱えて、個研に入ってきたことがある。両手を広げると、その枇杷であった。「誰もひろわないので、少しひらってきました」という。下宿に持ち帰って食べてみるのだという。「甘くないかもしれないよ」と言おうとして、言葉を飲み込んだ。

ぼくはこういうひとが好きだし、こういうひとに会いたくて仕事をしている気がするが、なぜ好きなのかを説明するのはむずかしい。

# by enzian | 2012-06-03 11:18 | ※キャンパスで | Comments(6)

のっぺらぼう

ぼくには昔から変なくせがあって、相手に人間の言葉がつうじないと感じたとき、そのひとがサルに見えるようになってくる。そういうひとがキキー、ウッキーと発話するのをじっと聞きながら、あぁおサルさんがしゃべっていると思っている。とりわけそういうおサルさんが自分の権利主張のみをこととするタイプの場合は、これまたどういうわけか、牙をむいたマントヒヒに見えてくる。もうこうなるとダメで、ぼくはヒヒとは距離をおく。

相手が別の言語を話すひとであれば、苦手な外国語であってもあいさつぐらいできるようにしようかとも思うけど、相手に人間の言葉がつうじないとなると、手のほどこしようがなくなる。これはもうコミュニケーションの問題なのではなく、生物学上の棲み分けの問題なのだと思うし、誰しも出くわす、けっこう切実な問題なのだと思う。

ここで考えるのはふたつのこと。ひとつは、自分が他人から見て、マントヒヒになっていないという保証はどこにもないこと。もうひとつは、ヒヒをじっと見つめているときの自分の表情はどんなものかということ。自分ではのっぺらぼうのようになっているのではと思えるのだが、のっぺらぼうは自分の顔を見ることができない。

# by enzian | 2012-05-27 12:44 | ※その他 | Comments(0)

しゃべる自販機

b0037269_12161575.jpg飲み物を買うと、べたべたの大阪弁やらでべらべらと話しはじめる自動販売機がある。ジュースを買った女性が友人にいっている。「恥ずかしくて、ひとりでは買えんかったわ」。

自販機というものができたとき、どこでもいつでも買えるという便利さを喜んだひとは多いだろうけど、その便利さのなかには、「あぁこれでひとと話さずにものを買うことができる、やれやれ」ということも含まれていたのではないか。「いらっしゃいませ」「まいど」「どれにいたしましょうか」という話しかけは、円滑なコミュニケーションの手段であるにしても、買い手の側にも都合があって、今日に限っては話しかけないで欲しい、この店については「まいど」といってほしくない、そっとしておいて欲しいということもある。

みんなかどうかはわからないが、少なくともぼくは、いつもつながりを意識しながら生活しているのではなく、つながりを微妙にオンオフしながら生活している。どうしてもつながりという言葉が必要なら、つながりを維持するためにつながりをオンオフしている。四六時中つながりを十分に意識できなければやっていけないというなら、そのほうが非常事態なのだ。「いらっしゃいませ」を全店員で “輪唱” する合唱系の飲食店や、マニュアルどおりに店全体で前のめりになって話しかけてくるコンビニが多くなってきたなかで、ものいわぬ自販機は、ときに、つながりを過度に求める時勢のなかでは「いま飲みたい」という渇きを癒すときのオアシスなのではないか。もちろん、話しかける自販機がこうして話題になること自体がメーカーとしての広報的な狙いなのだろうが。

# by enzian | 2012-05-06 12:26 | ※街を歩く | Comments(0)

甘い果実

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なんの花か、ご存知ですか?^^

# by enzian | 2012-04-29 11:50 | ※写真 | Trackback | Comments(20)

すでに勝負は決している。

百貨店などちょっと慣れない場所に行くと、入ったときはいいけど、帰る際になるとどうやって入ってきたのか忘れてしまって、帰り道をまちがえる。ぼくはとっても自分にスィートなひとで、個人の問題を全体に帰することで精神の平安を保っているタイプの人間だから、まちがえるのは誰しもそんな具合で、自分だけの問題ではなく、それは “人類に共通する弱点” なのだと思っていたが、どうもそうではないらしい。ちゃんと来た通路を覚えていて、まちがえずに帰って行くひともいる。なにかがおかしいぞ。

考えてみると、ぼくは棚に並んでいる本を取り出したときも、引き出しからなにかを取り出したときも、取り出したときはいいのだけど、いざそれを戻す段になると、それがどこに並んでいたり、入っていたのかをすっかり忘れている。いや正確にいえば、「忘れている」のではなく、「もともと覚えていない」のである。同じように、なにかていねいに包み込まれたいかにも日本的なものをもらったときも、よろこんで開けるのはいいのだけど、もとの包み方に戻すことは決してできない。開けたら戻せないタチなのだ。

ぼくはつねづね、整理整頓ができるひととできないひとの差は、なにかを使ったあとにすぐ戻せるかいなかに勝負のポイントがあると思っていたが、ひょっとすると両者の分かれ目は、すでになにかを使う前に決しているのかもしれない。

# by enzian | 2012-04-29 09:05 | ※その他 | Comments(7)

三文の徳

歳のせいか、早く目が覚めるようになってきた。布団のなかでごろごろしていても時間のムダだというので、ちょっと早めに学校に行くようにしている。ラッシュ時の電車の押し合いへし合いはつまらないが、通学の中高生の話が聞けて楽しかったりする。昨日は押し合いへし合いのなか、ぼくの隣にいたどこぞの女子高生か女子中学生が大きな声で友人に話しかけていた。「ちょっと、なぁ、今朝の夢、聞いて」。それを聞いてぼくは「現実の問題ならまだしも、なんであんたの夢の話なぞ聞かないかんのだ」と頭のなかでツッコミを入れるが、友人はふんふんと聞いている。荒唐無稽の夢内容のようなのだが、それを言うことでなにを得られるのだろうか、とぼくは考えている。

話すことである程度の整理がつくのだ、ということはよく言われる。だが、ぼくがむしろ知りたいのは、話すことで、聞いてもらうことでなぜ整理がつくのかということであり、この場合の「整理がつく」ということがなにを意味しているのかなのだ。そしてもうひとつ。この場合の「聞き手」は、(自分で自分の声を聞いている)女子高生自身と、その友人にくわえて、ひょっとすると、女子高生のまわりで好むと好まざるとにかかわらず彼女の話を聞かされているだろう不特定多数の乗客も含まれているのか、も気になる。わかったからといって、どうなるわけでもないんだけどね。

# by enzian | 2012-04-21 21:38 | Comments(0)

からめとる言葉

それはときにとてもやわらかな印象を与える言葉で、少なくても聞いてしかめっつらをするようなひとはいない。聞こえがよくて、大切なことのように思えるけれど、よくよく考えてみると、なにを指しているのか、わからない。なにを指しているかわからないから、どんなことでもそれで説明できるようにも思える。たいていのことを説明できるから、誰もがその言葉に当てはまるような気がする。みなにあてはまるから、いつしか、万人がそれを目指さないといけない “崇高な目標” の位置をもつようになる。そして最後には、それがあたかも自分の意志をもったかのようにひとり歩きして、それに無関心であったり、それにしたがわなかったりする者を、コミュニティ不適合の常識知らずとか、変人とか、あげくのはては反社会的分子として断罪するようなものとなる。

こういう言葉に動かされないよう注意しないといけないし、こういう言葉を使うひとたちを警戒しなければならない。そして、なにより、自分がそういう言葉を使っていないか、ときどき自問自答する必要がある。

# by enzian | 2012-04-15 18:39 | Comments(0)

閉店

b0037269_21342978.jpgそばの個人研究室をみれば、「閉店しました」という紙が貼ってある。部屋の主が去ったのだ。あまり話したことのないひとでも、一抹のさびしさがある。

昨日、久しぶりにいちばん好きな飲み屋に行ったら、ちがう店の看板がかかっていた。8月末で閉店したのだという。よりによって自分が東京にいるあいだに閉店することもないだろうにと思うが、ぼくもまた半年のあいだ、個人研究室の鍵を閉めたままにしていた。閉店していたのだ。なにかがなくなったり変わったりするとき、ぼくはいつもそこにはいない。

再開して半年しか経たないうちに、また4月から個研をほとんど“開店休業状態” にしなければならなくなった。残念なことに、ぼくはいくつかのことを並行してできるほど器用ではない。大学に損害を与えるわけにはいかないから、自分には研究はあきらめねばならないと言い聞かせて組み伏せようと思うが、学生が不利益を被るいわれはない。学生と話すときぐらいは開店できればいいのだけれど。

# by enzian | 2012-03-27 22:45 | Comments(0)

出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもない

三月の半ば過ぎにある毎年の行事。華やかなことが苦手なぼくは、きらきらした式よりも、個研で4年間のことをしみじみ話したり、二次会に行って、ほろよい気分でこのさきのことを案じたりすることの方が大切だと思い込もうとするきわめて恣意的な自己弁護作業に忙しい。すいません、式は大切です。毎年この時期に思うのは、出会ったひとと別れることはないし、出会わなかったひとと別れることもないということ。一度出会ってしまえば別れることはないし、もともと出会ってもいないのに別れることなどない。この時期には、ふたつの意味での別れのなさが明確になって、錯綜する。

# by enzian | 2012-03-17 11:25 | ※キャンパスで | Comments(0)

幻想

b0037269_2223949.jpg窓から賀茂川の見える店で食事をしていたら、黄緑色の小さな虫が入ってきたことがある。ぼくはすぐ、それがカワカゲロウの一種で、羽化してほどなくして死ぬ生きものであることに気づいた。

カゲロウは三本の尾毛をたくわえた尻尾を少しもち上げて、コップの縁にとまっている。ここは君の来る場所じゃない。逃がしてやろうと窓を開けたとき、ウェイターが来て、手にもっていた料理を置いて、カゲロウを捕まえようとした。

「逃がしてやってください」。「いえ、逃がすのです」。ウェイターは手早くカゲロウを外に出すと、キッチンに戻っていった。ぼくは片田舎で自然に囲まれて育ったから、ややもすると自分だけが自然のことを知っていて、自分だけが生物のことを知っていて、自分だけが生命の大切さをわかっていて、自分だけが生命愛護的であるかのようにカンチガイしてしまうことがある。

# by enzian | 2012-03-09 22:05 | ※自然のなかで | Comments(3)

「お疲れさまです」の意味

授業での授業(教室での多数を相手にする指導、の意味で使ってみる)や学生指導(研究室等での個別の指導、の意味で使ってみる)が終わると、学生から「お疲れさまです」と言われることが多くなった。「あざーっす」と発音する学生もいる。ほとんど、クラブやアルバイトさきでの乗りなのだろう。昔はなかった用語法だし、少し引っかかりがあるので自分ではなるべく使わないようにしているが、やはり使わざるをえない。これ以外にひとをねぎらう言葉が思いつかないのだ。なにに引っかかっているのか、以下に箇条書きにしてみる。

(1)授業にしても学生指導にしても、ぼくはボランティアでやってるわけではなく、実質的には、学生たちが払う学費から給料をもらってやっていることなのだから、学生がぼくの行為をねぎらう必要はない。(もちろん、学校は利潤追求を至上命題とする企業ではないから、そんなこと承知したうえでなおねぎらってくれる気持ちこそ、大学らしい心のやりとりだと思っている。)

(2)授業にしても学生指導にしても、ぼくは給料が欲しいからやっているのではなく、個人的動機としては、趣味の一環としてやっている(こういうことをいうと、職業意識がないとか難癖をつけるひとがいるだろうが)のだから、ねぎらう必要はない。これはとくに学生指導に当てはまる。

(3)教室での授業ごとき、大した仕事量でもなく、また特別にむずかしいことではない(ちなみに授業をバカにしているわけではない。学生指導とは困難さのレベルが違うと言っている)ので、ねぎらう必要はない。(学生指導には高度の能力が必要だと思うが、(1)(2)の理由からねぎらう必要はない。)

というわけだが、ひょっとすると「ねぎらう」には「労(ねぎら)う」だけでなく「祈(ね)ぐ」の意味も含まれているのかもしれない。だとしたら、学生たちは「お疲れさまです」というねぎらいの言葉で、「もっとしっかり授業や指導をして欲しい」と言っていることになり、やや(゚◇゚)~ガーンとなり、にわかに問題は緊迫の度を増してくる。

# by enzian | 2012-03-05 23:13 | ※キャンパスで | Comments(0)

寸鉄

b0037269_225055100.jpg学生からの言葉がずっと心に残ってしまうことがある。ここ二年ほどでもふたつあった。ひとつは、いまここで詳しくいうわけにはいかないが、初心を忘れかけていたぼくの胸を刺す寸鉄となった。

夜半、怠け心がおこったとき、ぼくはこの言葉と、そのときの学生の切なげな表情を思いだして、なんともいえない気分になる。その願いを果たせないなら、自分がいま大学にいる必要はない。それはたしかなことだ。だがそれにしても、それを果たすことは可能なのだろうか。自分にそんな能力があるのだろうか。そんなことを考えつつ、ぼくはまた、もう少しだけと、誰もまともに認めることなどないであろう研究のために、古ぼけた書物を読み進める。

# by enzian | 2012-03-02 22:57 | ※キャンパスで | Comments(4)

化粧の底力

こういうことをいうときっとまたイヤミなことをいっているのだろうと思われるだろうが、ぼくは真剣に化粧が偉大だと思っている。あのアイテムの多様さ、謎の深さということもあるのだが、きれいになったのかどうかは美的センスのないぼくにはわからないにせよ、少なくとも使用前使用後で別人になっている、ということはいえるからだ。

あるとき、もうずっと前の話で時効だろうから書くけど、コンパの日に誰かが個研のドアをノックした。ぼくは入ってきたそのひとが誰かしばらくわからなかったのだけど、声を聞いたらゼミの4年生でびっくり仰天したことがある。どこぞの百貨店の化粧品コーナー(こういう呼び方でいいの?)に行って、ぱたぱたとやってもらったらしい。見慣れた顔を識別不能にしてしまうとは‥‥このときぼくは化粧の底力に度肝を抜かれたのだ。

河原の石とか、畑のじゃがいもとかに化粧をして競うような番組やコンテストはできないだろうか。じゃがいもなんか、かなりの美貌になる気がする。「つぎのエントリーは、北海道○○町のメークインさんです」とか。河原の石なら、「さて、続いて長良川の石灰岩さんです」とか「関東からは利根川左岸のチャートさんです」とか、おもしろいと思うけどな。じゃがいもの場合、化粧品が可食のものなら、最後の評価を「美味」にして、参加者たちを肉じゃがにして賞味したら、食べ物を粗末にすることもない。そのうち、生身の人間を超える美貌をもったミス野菜とか、岩石クイーンたちが出てくるかもしれない。

# by enzian | 2012-02-11 23:06 | ※その他 | Comments(0)

本性

酔っ払ったときに本性がでるのか、それとも、酔いというのは本来の自分を覆い隠してしまうものなのか、どちらの考え方もあるだろう。ぼくは前者だと思っているのだけど、同じことは、すごく忙しいときにもいえるのではないか。忙しいときにこそ、そのひとの本性が出るように思うのだ。そういう意味では、忙しいとは、よくいわれるように「心を亡くす」のではなく、「ふだん隠されていた心が現れる」ということになる。なかにはわざと忙しくして自分の反社会的な本性が顕現しないようにしているひともいるようだが、そういうひとのことは考えないでおく。

とすれば、忙しいときこそ、たくさんの仕事を抱えたひとは「みられている」と思う必要がある。忙しいときこそ、ひとへの応対、身のこなし、指先の動き、会話の語尾、言葉の強弱といったものを測られてしまう。「つい忙しくて、ゴメン」という弁明は成り立たず、周囲は「なるほど、そういうひとなのか、よくわかった」とみるわけだ。ぼくは本性をひた隠しにしておきたいので、忙しくなりたくない。忙しくなると、必ずマフラーを落とす。

# by enzian | 2012-02-06 23:46 | ※その他

笑い声の音

笑うときの音、笑い声というのはどう決まるのだろうか。笑い声は一定の条件下、たとえば不意を突かれた場合とか、相手を警戒させたくないときなどに息が口から出るときの音なのだろうけど、「あ」で笑うひともいるし、「い」で笑うひともいる。「う」も「え」も「お」もいる。もちろん、ア行だけでなく、そのほかの音で笑うひともいる。

昨年、同僚にはっきりと「し」で笑い続けるひとを発見して、ちょっと珍しいなと感動した。もちろん、ひとりのひとがどの音で笑うかは完全には一定していていないのだろうけど、作為的な笑いとか外交的な笑いをべつにして、不意をつかれたときの笑いがどの音になるかは、それなりに決まっているのだろう。

「あ」の口で笑う〈ア段のひと〉と、「い」の口で笑う〈イ段のひと〉etc‥‥そこにはなにか差があるのだろうか。それとも、それはまったく偶然なのだろうか。また、寒い地方は口を開けにくいからイ段とかウ段で笑い、暖かい地方は比較的、ア段とかオ段で笑うとか、笑いの地域差はあるのだろうか。ちなみにぼくは「ウケケケ」と笑うといわれたことがあるが、それはぼくが全体から漂わせる悪しき印象によるもので、じっさいにはとっても爽やかに、「あ」か「う」で笑っていると思う。そうにちがいない。

# by enzian | 2012-01-28 21:58 | ※その他 | Comments(0)

長押し

なんかいカチカチしても百円ライターの火がつかない。液状のガスは残っているものだから、壊れているとばかり思って、「所詮100円の代物とはこんなものだ」とか、「製造地が悪いのだろう、いったいどこで製造されたのか」などと好き放題いっていた。それが今日、ひょんなことから火がついた。どうしてだろう?と考えはじめたら理由は簡単で、ぼくは火花を出す部分だけを懸命に動かしてカチカチやっていたのだが、ガスが出る部分を長押しせずに、さっさと手を離してしまっていたために火がつかなかったのだ。

われながらバカだなと思ったし、自分は一事が万事こんな調子なんじゃないかなと反省もしたけど、それにしても、「長押し」というのは、ぼくには意外にむずかしい。瞬時に押すことには慣れていても、じわっと長く押すという発想が弱いのだろう。

# by enzian | 2012-01-21 16:50 | ※その他 | Comments(0)

外向的なウナギと内向的なアナゴ

東京ではわたしくしはウナギであったが、京都にもどるとやはりアナゴになっているのである。というようなことをいうと、「ついにenzianがおかしくなった」というひとがいるかもしれないが、もともと総じておかしいから、これ以上おかしくはならない。

そういうことではなくて、わたくしにとっては、ウナギとは店の軒先でぱたぱたと焼かれていて、その恐るべき匂いで行き交うひとの足を止め、大金を払わせるという外向的であからさまなものであり、アナゴとはもっぱら穴のなかに閉じこもっているもの、料理されるとしても人知れず奥の調理場で調理され、特別の匂いでひとを寄せるということもなく、はっと気づくと深川めしに乗っているような内向的で奥ゆかしいものなのである。

25日以降はほとんど家を出ず、家アナゴのような生活をしている。わたくしはアナゴが好物であるが、かといって毎日毎日アナゴではくたびれてしまう。たすけてウナギ。

# by enzian | 2012-01-07 23:54 | ※その他 | Comments(0)

歩きながら考える

b0037269_194271.jpg初夢は不思議な夢だった。見えない乗り物に乗っているようで、地面から少し浮いていて、浮いたまま移動している。それであれこれの場所に行ってみる、という夢。夢のなかでは、「なるほど楽だけど、やっぱり歩くのが好きなんだ。好きなひととしかいっしょには歩かないよ」なんて言っている。いったいだれと話していたのやら。

歩きながら考えるのが好きで、ひょっとすると、パソコンの前でうんうんうなっているよりも、ぷらぷら歩いているときの方がよい考えが浮かんだりする。リラックスもできる。

といっても、どんな道でもいいというのではなく、車がビュンビュンそばを通り過ぎていくような道路はイヤだ。ひとが歩く道、ずっと昔からたくさんのひとが行き交ってきた道がいい。そういう昔のひとたちの気配を感じながら、昔のひとたちを懐かしく思いながらそのひとたちといっしょに歩ける道がいい。

昨年は、文章を書くのに行き詰まるたび、下町をあちこち歩いていた。東京で書いた文章は、それまで書いていた文章とはちがうものになっている。それは、研究方法を少し変えたということもあるのだけど、歩いてきた道のせいもあるのかもしれないな。

# by enzian | 2012-01-04 19:39 | ※街を歩く | Comments(4)

生きることに即した思考能力

入らなかったらよかったと後悔するような店にまれに出会う。そういう店は比較的小さく、扉を開けたとたん店長(シェフ)と出くわすような店なのだが、目が合ったとたん、二人の視線がバチバチとぶつかりあって、ぼくはなにかを感じ、相手もぼくが感じたことを瞬間的に読み取る。相手がなにかを読みとってぼくを警戒すべき人物と判断したことをぼくもまた瞬時に読み取る。この間、およそ1秒。こうして、辺りにただよう警戒感に、来てはいけなかった店に来てしまったことを後悔しつつ、重苦しい食事がはじまってしまう。

今年もこういう経験が二度あった。一度は東京で、はじめてもんじゃ焼きを食べたのがそういう店だった。警戒電波をヒリヒリ感じていたから自分で焼きたかったのだが、あいにく未知の食べ物だったから焼いてもらわざるをえなかった。こうして、記念すべきもんじゃ一号はどんな味かもわからないまま終わった。もんじゃ焼きはそれっきり。二回目は奈良で、若いシェフの目をみたとんいかんと思ったが、よりによって珍しくもコースを予約していたことが災いして、美味しいサラダからはじまる気まずいコースを堪能した。

ぼくはかつて品行方正(もう少しべつのいいかたはないのかな)でなかったひととか、いま品行方正でないことをウソでごまかしているひとであることが目を見ればだいたいわかってしまう。そしてそういうひとたちというのは自分の隠そうとしていることを見破られることをいつも警戒しているから、見破るぼくのことがわかるのだろう。

こういうのを第六感とか特殊な直観能力というひとがいるかもしれないが、ちがうと思う。ぼくは一日を生きるために品行不方正から自分を守ることを、ウソを見抜くことを強いられてきた生活が長かったから、痛い経験たちを蓄積したデータベースと、データーベースに検索をかけて瞬時に行動を選び出す(=分析する)ような〈生きることに即した思考能力〉をもってしまっただけで、特殊な直観能力があるわけではない。たぶん、ぼくの心の動きを瞬時に判断した店主たちも同じような思考能力をもっているのだろう。

# by enzian | 2011-12-30 22:38 | ※その他 | Comments(0)

善知識

b0037269_18182961.jpg人間関係で判断に困ったとき、「あのひとであればどう判断するだろうか?」と、許可も得ていないのにかってに登場いただく、〈脳内の常連〉とおぼしきひとたちがいる。

そのひとりはカントで、ひとりは祖母。それぞれ、ぼくにとっては一定の範囲内での押しも押されぬ権威者として、脳内にどっかと鎮座ましましている。祖母はカントなんて名前、それどころか、哲学という言葉も知らなかったけれど、祖母のおかげでぼくは哲学と、そしてカントに出会うことができた。

もうふたりは大学の恩師。とくに学生との関係で迷ったときに、いつもふたりを思い出して、「先生ならどうなさるだろうか?」と思いをめぐらす。記憶のなかにしまってあるふたりの言葉に検索をかけて、類例がないかどうか、参考になるものがないかどうか探しはじめる。そうすると、ひとりはやさしいままに微笑みながら、ひとりは思いやりに満ちた暖かい心を押し殺して明晰に、語りはじめる。ぼくはふたりの言葉にじっと耳を澄ます。

# by enzian | 2011-12-24 18:20 | ※キャンパスで | Comments(0)

柿を食うということ。

個研でくるりくるりと柿を剥いていたら、コンコンとノックの音がして、入ってきた学生がこう言いよりました。「ギャー、センセイが柿をむいている!」と、そしてそれだけ言って、バタバタとどこぞへ走って行きよりました。ぼくはただ柿が食べたかったから剥いていただけなのです。なのにギャーだなんて‥‥。失礼しちゃうわ(死語か?)、なのです。いったい学生はなにを「ギャー」と感じたのでしょうか。考えてみましょう。

(a)柿が珍しかった。
→(コメント)残念です。リンゴやらミカンなど、「いかにもフルーツ」といったものがもてはやされる昨今ですが、柿大好きのぼくとしては、やや日陰の身の柿ではありますが、そのよさも見直してもらいたい。いかにも「ペット」といったイヌやネコ、水族館のラッコがもてはやされる昨今ですが、けっきょく頼りになるのはカワウソだと心得ておくべきなのです。

(b)柿を剥いているおっさんが珍しかった。
→わからないではありません。柿が豊富な地域で育ったぼくでも、ぼく以外のおっさんがニヤニヤしながら柿を剥いている光景を見たことはありません。

(c)柿を剥いているおっさんのテツガクシャが珍しかった。
→誤解です。おっさんのテツガクシャといえども、かすみを食って生きているわけではないのです。柿を食いもすれば、牡蠣を食って当たることもあるのです。

(d)柿を剥いているおっさんのテツガクシャであるenzianが珍しかった。
→誤解ですが、しかたありません。ぼくが台所にマイ包丁をずらり並べる包丁人で、かつアウトドア・果実採集系であり、さらには骨の髄までの体育会系であることを知っているひとなど、ぼくの同僚にさえひとりもいないくらいですから、学生たちがぼくをインドア・本の山埋もれ系ケケケ男だと思い込んでいたとしても、まったく無理のないことなのです。

# by enzian | 2011-12-02 22:45 | ※キャンパスで | Comments(6)

週一の拷問

やりにくくてしかたない授業がひとつある。おかしい、おかしいと思ってはいたが、なぜなのか理由がわからず、ごまかしながら続けていた。ごまかしていたつもりだが、書き落としをしたりして、やはりミスが出てしまう。まじめに授業を聞いている学生に問題はない。問題はまちがいなくこちらにあるが、なぜその教室での授業だけ落ち着かないのかわからなかった。その理由が今週やっとわかった。授業中、教卓の両サイドにある窓ガラスに自分の姿が映るのだ。これまで大教室の授業を遅い時間帯にしたことがなかったから窓ガラスに自分の姿が映るというのは経験したことがなかったが、辺りが真っ暗になると、窓ガラスが鏡面のようになって講義者の姿を映し出してしまうのだ。

学生たちに向かって話していると、同時に、視界の両方の端に学生に向かって話している自分の姿が見える。ぼくはもともと自分の姿を見るのがキライだ。散髪屋にいっても、ほとんど鏡を見たことがないぐらいなのだ。しかも、視界に映るその姿は、おそるべきことに「教壇に立つ教師の姿」なのだ。〈自分=教壇に立つ者〉という自覚のまったくない、というかそれをひたすら避けてきたぼくには、これは拷問に等しい。

# by enzian | 2011-11-26 22:59 | ※キャンパスで | Comments(10)