生きることに即した思考能力

入らなかったらよかったと後悔するような店にまれに出会う。そういう店は比較的小さく、扉を開けたとたん店長(シェフ)と出くわすような店なのだが、目が合ったとたん、二人の視線がバチバチとぶつかりあって、ぼくはなにかを感じ、相手もぼくが感じたことを瞬間的に読み取る。相手がなにかを読みとってぼくを警戒すべき人物と判断したことをぼくもまた瞬時に読み取る。この間、およそ1秒。こうして、辺りにただよう警戒感に、来てはいけなかった店に来てしまったことを後悔しつつ、重苦しい食事がはじまってしまう。

今年もこういう経験が二度あった。一度は東京で、はじめてもんじゃ焼きを食べたのがそういう店だった。警戒電波をヒリヒリ感じていたから自分で焼きたかったのだが、あいにく未知の食べ物だったから焼いてもらわざるをえなかった。こうして、記念すべきもんじゃ一号はどんな味かもわからないまま終わった。もんじゃ焼きはそれっきり。二回目は奈良で、若いシェフの目をみたとんいかんと思ったが、よりによって珍しくもコースを予約していたことが災いして、美味しいサラダからはじまる気まずいコースを堪能した。

ぼくはかつて品行方正(もう少しべつのいいかたはないのかな)でなかったひととか、いま品行方正でないことをウソでごまかしているひとであることが目を見ればだいたいわかってしまう。そしてそういうひとたちというのは自分の隠そうとしていることを見破られることをいつも警戒しているから、見破るぼくのことがわかるのだろう。

こういうのを第六感とか特殊な直観能力というひとがいるかもしれないが、ちがうと思う。ぼくは一日を生きるために品行不方正から自分を守ることを、ウソを見抜くことを強いられてきた生活が長かったから、痛い経験たちを蓄積したデータベースと、データーベースに検索をかけて瞬時に行動を選び出す(=分析する)ような〈生きることに即した思考能力〉をもってしまっただけで、特殊な直観能力があるわけではない。たぶん、ぼくの心の動きを瞬時に判断した店主たちも同じような思考能力をもっているのだろう。

# by enzian | 2011-12-30 22:38 | ※その他 | Comments(0)

善知識

b0037269_18182961.jpg人間関係で判断に困ったとき、「あのひとであればどう判断するだろうか?」と、許可も得ていないのにかってに登場いただく、〈脳内の常連〉とおぼしきひとたちがいる。

そのひとりはカントで、ひとりは祖母。それぞれ、ぼくにとっては一定の範囲内での押しも押されぬ権威者として、脳内にどっかと鎮座ましましている。祖母はカントなんて名前、それどころか、哲学という言葉も知らなかったけれど、祖母のおかげでぼくは哲学と、そしてカントに出会うことができた。

もうふたりは大学の恩師。とくに学生との関係で迷ったときに、いつもふたりを思い出して、「先生ならどうなさるだろうか?」と思いをめぐらす。記憶のなかにしまってあるふたりの言葉に検索をかけて、類例がないかどうか、参考になるものがないかどうか探しはじめる。そうすると、ひとりはやさしいままに微笑みながら、ひとりは思いやりに満ちた暖かい心を押し殺して明晰に、語りはじめる。ぼくはふたりの言葉にじっと耳を澄ます。

# by enzian | 2011-12-24 18:20 | ※キャンパスで | Comments(0)

柿を食うということ。

個研でくるりくるりと柿を剥いていたら、コンコンとノックの音がして、入ってきた学生がこう言いよりました。「ギャー、センセイが柿をむいている!」と、そしてそれだけ言って、バタバタとどこぞへ走って行きよりました。ぼくはただ柿が食べたかったから剥いていただけなのです。なのにギャーだなんて‥‥。失礼しちゃうわ(死語か?)、なのです。いったい学生はなにを「ギャー」と感じたのでしょうか。考えてみましょう。

(a)柿が珍しかった。
→(コメント)残念です。リンゴやらミカンなど、「いかにもフルーツ」といったものがもてはやされる昨今ですが、柿大好きのぼくとしては、やや日陰の身の柿ではありますが、そのよさも見直してもらいたい。いかにも「ペット」といったイヌやネコ、水族館のラッコがもてはやされる昨今ですが、けっきょく頼りになるのはカワウソだと心得ておくべきなのです。

(b)柿を剥いているおっさんが珍しかった。
→わからないではありません。柿が豊富な地域で育ったぼくでも、ぼく以外のおっさんがニヤニヤしながら柿を剥いている光景を見たことはありません。

(c)柿を剥いているおっさんのテツガクシャが珍しかった。
→誤解です。おっさんのテツガクシャといえども、かすみを食って生きているわけではないのです。柿を食いもすれば、牡蠣を食って当たることもあるのです。

(d)柿を剥いているおっさんのテツガクシャであるenzianが珍しかった。
→誤解ですが、しかたありません。ぼくが台所にマイ包丁をずらり並べる包丁人で、かつアウトドア・果実採集系であり、さらには骨の髄までの体育会系であることを知っているひとなど、ぼくの同僚にさえひとりもいないくらいですから、学生たちがぼくをインドア・本の山埋もれ系ケケケ男だと思い込んでいたとしても、まったく無理のないことなのです。

# by enzian | 2011-12-02 22:45 | ※キャンパスで | Comments(6)

週一の拷問

やりにくくてしかたない授業がひとつある。おかしい、おかしいと思ってはいたが、なぜなのか理由がわからず、ごまかしながら続けていた。ごまかしていたつもりだが、書き落としをしたりして、やはりミスが出てしまう。まじめに授業を聞いている学生に問題はない。問題はまちがいなくこちらにあるが、なぜその教室での授業だけ落ち着かないのかわからなかった。その理由が今週やっとわかった。授業中、教卓の両サイドにある窓ガラスに自分の姿が映るのだ。これまで大教室の授業を遅い時間帯にしたことがなかったから窓ガラスに自分の姿が映るというのは経験したことがなかったが、辺りが真っ暗になると、窓ガラスが鏡面のようになって講義者の姿を映し出してしまうのだ。

学生たちに向かって話していると、同時に、視界の両方の端に学生に向かって話している自分の姿が見える。ぼくはもともと自分の姿を見るのがキライだ。散髪屋にいっても、ほとんど鏡を見たことがないぐらいなのだ。しかも、視界に映るその姿は、おそるべきことに「教壇に立つ教師の姿」なのだ。〈自分=教壇に立つ者〉という自覚のまったくない、というかそれをひたすら避けてきたぼくには、これは拷問に等しい。

# by enzian | 2011-11-26 22:59 | ※キャンパスで | Comments(10)

ウソは最低の防御なり。

b0037269_10115813.jpg誰しもそうだろうが、ウソが好きではない。自分はきわめて腹黒い人間だから、ウソで厚化粧して生活しているが、他人につかれるのは楽しくない。

ウソそのものがキライというより、ウソをついてバレないと思っているひとの了見が痛ましくて、残念でしかたないのだ。「痛ましい」なんて言葉がどれほど思い上がったいい方かはわかっているつもりだが、ぼくは正直だから、感じたままをいうしかない。ややこしいことをいうな。

つかざるをえない事情があるのだろう。事実を語れば関係を壊してしまう、苦労してつかまえた相手の信頼を失ってしまう、都合よく利用できなくなってしまう、と考えているひともいるのだと思う。じっさい、上手にウソをついておくほうが有利な相手も多いのかもしれない。だが、事情があるにしても、ぼくは見え透いたウソをつかれるのが世の中でいちばんキライなのだ。生理的に受けつけない。「私には包み隠さずほんとうのことをいって下さい」なんていうつもりはないし、いえる権利もないと知っている。だから、ぼくの心は、ウソでぼくとの関係を守ろうとしはじめたものをみたとき、なにもいわず、そこから去ってゆく。

# by enzian | 2011-11-22 22:58 | ※好きな人・嫌いな人 | Comments(2)

紐帯

b0037269_16174957.jpg新幹線のホームでは多くのひとが電車を待っていた。なかにひとり、どうしても違和感をぬぐえないひとがいた。

正確にいえば、それは「ひと」というより、もっとべつの生きもののように思えた。彼は終始うすら笑っていた。ときおり周囲に目をやっているが、彼が見ているのはこの世界ではなく、スクリーンに映された影像なのではないか。彼の世界とスクリーンに映された世界はべつの世界で、スクリーン上の人間と彼が交わることはない。混じりあうはずのないものを意味もなくえんえんと見せられ続けている――そういう齟齬(そご)の感覚が彼のうすら笑いになっているのではないか、ぼくにはなぜかそんなふうに思えてならなかった。

電車がホームに入ることを告げるアナウンスが響く。まもなく電車が着いて、車両に乗り込もうとする姿を見てはっとした。彼と、彼の後ろから乗り込もうとする男性の手首は、太い綱で結びつけてあった。

# by enzian | 2011-11-19 15:52 | ※その他 | Comments(0)

enzian深まる秋

ときどき中学のときの夢をみる。体操服に着替えようとしているのだが、うまく着替えられなくて、授業に間にあうかどうかはらはらしている夢。着替えてグラウンドへ走りだそうとするが、手足が鉛のように重くなって、うまく走れない。スローモーションのようになって、焦りに焦っているうちに目を覚ます。夢をつくっているのは自分だろうが、いったいこれでなにをいわんとしているのか、かいもく、わからない。こんななんの教訓にもならないような夢をみさせるぐらいなら、ぐっすり寝かしてくれよ、と自分に向かって話しかける。

夢ではないが、不思議とよく思い出すひとつの場面がある。暴風吹きすさぶなか、びしょ濡れになって、瀬田の唐橋をぼくと母と弟が歩いている。飛ばされまいと、足を道路にしっかりつけながらわたっていく。これは実体験で、それはそれは恐ろしく、不安で、暗かった。思い出というのはだいたいこんなふうで、とても苦労したとか、とてつもなく怖かった、といったことの方がはっきりと記憶に残ってしまう。いろいろ思い出すが、夜長のこの時期、たいていのことは、よくよく考えれば自分が悪かったのではないかなどと反省してしまう。やはり晩秋はいい。秋が深まるにつれてぼくが澄みゆき、ぼくが深まっていくのだ。

# by enzian | 2011-11-14 22:28 | Comments(0)

ほの暗さ

暦のうえではもう冬になったというが、京都はこれから紅葉の時期を迎える。紅葉は美しいが、京都の秋はどこもかしこもひとだらけで、ゆっくり楽しむどころではない。むしろぼくが好きなのは紅葉もすぎた晩秋。そんな時期、落ち葉の絨毯が敷かれた森を歩くのは楽しい。静かな森には踏みしめた落ち葉のカサカサという音だけが響く。空気が冷えて、星の輝きは日に日に強くなり、海の水は澄んでいく。ハロウィーンがすぎればすぐにイルミネーションとジングルベルで埋め尽くされるのが晩秋から冬にかけての定番となりつつあるが、ハロウィーンとクリスマスのあいだにはしばしの静寂と “ほの暗さ” が欲しい。ほかの季節にはない晩秋のよさをしみじみ味わいたい。

# by enzian | 2011-11-10 23:33 | ※自然のなかで | Comments(0)

観念

「授業中にとつぜん先生の目つきが鋭くなって、なにかを狙っているのだなと思った」。こちらのちょっとした目つきの変化で心の動きを察知されていたと聞いて、その鋭敏さに驚く。たしかにそのとおりで、そのときぼくは授業をしながら、あることのタイミングを狙っていたのだった。そしてそれはじつにろくでもないことで、そんな気持ちをほかの学生にも見抜かれていたのかもしれないと思うと、情けなくなった。ときどき盛り上がって、できるだけひとに迷惑をかけないで生きていきたいなどと願うこともあるが、たちまち無理だと思い知らされて、ほうぼうに迷惑をかけながらやっていくしかないと観念する。

# by enzian | 2011-11-06 23:45 | ※その他 | Comments(0)

粘土細工

昔、ぼくが学生時代、いつも大教室のいちばん前の席に座って、ろくろく授業は聞かず、一心不乱に紙粘土で怪獣をつくっている学生がいて、ぼくらはそやつを「粘土」と呼んでいた。何度か話しかけようとしたが、けっきょく、粘土と話すことはなかった。

ひとの悩みらしきものを聞いていると、多くの場合、いかようにも脱出する方法はあるのだが、その方法を使わないようにしているのは悩んでいる当人だと感じる。場合によっては出口はいたるところにあって、一歩でも足を踏み出せば外の世界にかってに行ってしまうぐらいの状態なのに、まず足を石膏で固定して、ついでひとつひとつの出口を粘土で念入りに目止めしているようなひとたちをみると、悩みとは出口がないということではなく、そこにあるとわかっている出口を利用できない愚かさの自覚なのだ、とさえ思ってしまう。

当然、そういうひとたちに「出口はある」と伝えてもなんの意味もない。求められてもいないものを全力で提示し続けることを、ひとは「徒労」と呼ぶ。おそろしい言葉だ。こうした粘土や石膏の心当たりが自分にもあるのではないかと自問自答してみようともするが、めんどくさいので、自問自答の働きを粘土と石膏でびっちり固めておく。

# by enzian | 2011-11-02 23:18 | ※その他 | Comments(0)

人差し指は覚えている

右手の人差し指にはふたつの傷あとがある。ひとつは釣り上げたタチウオに噛まれたあと。大阪湾の夜の防波堤でのできごと。噛まれたあとも根性で釣り続けた。もうひとつは、ずっと記憶をさかのぼる。小学校に入ったばかりのころであったか。近所には小さな水路があって、緑の藻が生え、細長い魚が泳いでいた。澄んだ水の底には、とこどろころ赤やオレンジ色が塗られた瀬戸物の欠片が沈んでいるのがみえた。

あるときぼくらはそれを拾い上げ、壁に投げては割っていた。隣にいた、誰であったかもう覚えていない少年が欠片を投げたとき、指先に強い痛みが走った。ぼくは指先に流れる赤い血をみて家へ走って帰ったように思うが、それは曖昧な記憶で、夢であったか現実であったか、わからない。記憶でたしかめることはできないが、指の傷はそれが事実であったと語っている。思い出すことはできないが、きっと泣いて帰ったぼくに驚いたひとがいて、手当してくれたひとがいたのだ。ときどき人差し指をみて、傷あとをなぞってみる。

# by enzian | 2011-11-01 23:36 | ※山河追想 | Comments(0)

すっきりとぎっくり

坐ろうとしたときにグキリときた。こんな言葉、使いたくもないが、ぎっくり腰なのである。せんじつ、とある大学の方が、いかにもぎっくり腰でさくさくとは歩けませんという風な身のこなしでエレベーターに入ってきたときに思わず笑ってしまい、詫びをいれたばかり。こんな失礼なことをしてしまったら、いずれバチが当たって、自分もなってしまうのではないかと、ひやひやしていたらこれなのである。パソコンの前から一歩も動けやしない。

こういう場合、バチが当たったわけではなく、バチが当たっては困ると意識しているものだから、失礼→ぎっくり腰という天罰、という因果関係を創作してしまうというふうに考えられるのだろうが、自罰と考えるのもおもしろい。失礼な自分を許しておくぐらいなら、自分もぎっくり腰になった方がまだ気持ちとしてはすっきりする。ならば、不自然な坐り方をしてぎっくりしてしまえ、というわけだ。天とは自分なのである。

# by enzian | 2011-10-29 21:24 | ※その他 | Comments(0)

思い切る

「思い切る」という言葉はずっと「決心する」の意味だけだと思っていたが、「断念する」「あきらめる」の意味を含んでいると知ったのはいつのことだったか。『星の王子さま』を読んだときだったかもしれない。「こころ切る」とか「精神切る」という表現はなくて、「思い切る」という表現があるのは、「思い」には、なんとなく粘着質で、枝垂れ柳のようにどこまでも長く伸びて、なかなか区切りがつかない働きのニュアンスがあるからなのだろう。

こちらに戻ってきて一ヶ月が経とうとしているが、研究どころか、昨年度の積み残しの仕事にさえ着手できていない。これでは総倒れの憂き目を見てしまうので、来週からは、自分の責任のなかにあってどうしても必要なこととそうでないこと、言いかえれば、〈内と外〉を区別して、外は思い切ることにする。〈外〉のものごとよ、非情と言うなかれ。

# by enzian | 2011-10-27 23:18 | ※キャンパスで | Comments(2)

見なかったことにして

バスを降りると盛んに雨が降っている。いらっとしながら折りたたみの傘を開けようとすると、暗いバス停に若い女性がひとり立っていた。傘をもっていないらしい。バス停からさほど遠くないところに住んでいる女性とわかる。顔を見たことがある。傘に入れてあげようかと思うが、すぐに打ち消す。相手が少年や男性であれば声をかけられただろうが、しょせん、相手は決して声をかけることはできない存在なのだ。かければ相手にも迷惑だろうし、こちらにもどんな災いがふりかかるかしれない。そんな小さなこともできないとは。なにも見なかったことにして、ひとり傘をさして家路に急ぐ。男と女、つまらぬものだ。

# by enzian | 2011-10-24 21:35 | ※その他 | Comments(0)

エチケット

つねひごろ、どうしてひとはあいも変わらないのかと不満ばかりもっているが、たった半年で、すっかり別のものになったり、きれいにもとに戻っていたりするのを目の当たりにすると、なんとまぁひととはフレキシブルなものかと、ころっと考えを変えたくなる。もちろん、こちらとしても、この種についてはこのような環境においてあのような変化をとげるだろう、あの種についてはあのような環境であるからこのように変化するであろうといった “変化の想定” をしているわけで、そういう意味では、想定の範囲内からでるものはなかった。

変わらないこともあった。ぼくの相変わらずの怖がられっぷりである。「怖い、怖い」とうるさくてかなわないのである。怖いなら近づかねばよかろうに、耳元での大合唱なのである。まぁ世の中にはお化け屋敷とかモンスターハウスに近づこうとする少数の物好きがいるのだから、こういうことになるのかもしれない。もちろん、自分のことを弁えているぼくは、自分を怖がっているとわかったひとにはもうそれっきり一切近づかない。そんな、怖くて泣いている子どもをさらに怖がらせるようなまね、やなこった。せめて三分の一人前の社会人として、いたずらに近づかないでいてあげることがエチケットだと思っている。

# by enzian | 2011-10-19 22:09 | ※その他 | Comments(0)

清涼飲料水

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あんなにうとましかった夏の暑さが、もう懐かしい。

# by enzian | 2011-10-15 20:38 | ※写真 | Comments(0)

ぴりぴり、ひりひり

とある四川料理店にいったときのはなし。その店の麻婆豆腐は唐辛子や花椒がしっかり使ってあり、かなり本格的に辛く(辣)て、痺れるような味(痲)付けで、この手の料理を食べ慣れているぼくからしても限界の香辛料の効き具合だと思ったのだが、店主によれば「若い方はこれでは足りないとおっしゃる方が多い」ということであった。

こういう料理には汗を出すこと、汗を出したあとの爽快感を楽しむという意味があるのだと思うが、汗を出すために必要な一定量を超えてぴりぴりやひりひり自体を求めているのだとしたら、それは一瞬であっても、生命を維持するための食事に自分への圧迫感とか抵抗感をくわえていることだろうから、(同じことは炭酸飲料水でいったことがあるけど)興味深いことだ。これが自虐の意味ではないかなどという邪推は、怖いのでしないでおく。

# by enzian | 2011-10-13 22:26 | ※その他 | Comments(0)

ぴょん吉、その後

なんにんかのひとにぴょん吉のその後を聞かれたので、書く。こんな話、読んでいるひとがいるとは思わなんだ。引越の日、部屋のものをすべて出してしまうというので、心配していたのは知らぬうちに彼を踏みつぶしてしまわないか、ということだった。朝、段ボール箱をガムテープで閉じていたら、うまくぴょん吉が飛び出してきた。このときばかりはなんとしても捕まえねばならぬと、大捕物をして、見事、御用にした。

どこに逃がそうと迷ったが、けっきょく、ベランダに置くことにした。ベランダはお隣さんたちとつながっているから、人間の部屋が好きなぴょん吉はどこか彼の好きなところにいくだろう。その部屋主とぴょん吉の相性がどうなるのか、スリッパでパンパン叩かれたりしないだろうかなどと心配になるが、考えてどうにかできるものでもない。「お元気で」と、いつも人間との別れのときにもいう言葉とともに、ベランダに置いたのであった。

半年ぶりに京都の山奥の家に戻ったら、カネタタキが侵入していた。夜ごとカンカンと風流なことである。ぼくはぴょん吉のことは忘れて、このカネタタキをあたらしい友だちにすることにした。お前の友だちは節足動物ばかりなのか。

# by enzian | 2011-10-09 22:39 | ※その他 | Comments(0)

慧眼の士

b0037269_23343271.jpg半年間のブランクを埋めることに追われる。資料を整理していたら、校医の先生が退任なさっていたことに気づいた。思わず「しまった」とつぶやく。

その名前は学生時代からあったし、たしかに今年まであった。その名前があることが安心でもあった。慧眼の士。昨年見かけて、足下がおぼつかない風であったので覚悟していたとはいえ、なにかがはらりと落ちたように感じた。私的な関係にあったわけではないとしても、ひとこと、伝えたかった。これまでぼくはいつも最後の瞬間を逸してきている。気づけば、いつもすでに事は終わり、ぽつんと取り残されているのだった。別れはいつか来るものとはいえ、できることなら、お世話になったことのお礼の気持ちを示して別れたい。

# by enzian | 2011-10-07 23:36 | ※キャンパスで | Comments(0)

いつも前から歩いてくるひと

ときどき向こうから歩いてくるひとがいる。誰だか知らない。脇目もふらず、まっすぐ前を向いてどうどうと、ゆったりと歩いている。こちらに興味を示す様子はない。決まって手ぶらだが、ときどき小さなウェストポーチらしきものをつけていることもある。毛むくじゃら系だが、それなりに荒っぽくまとまっている。背丈は大きくない。彼に最初出会ったのは、ぼくが19歳のときで、大学の構内でのことだった。ぼくは一目でその顔を覚えた。なるほど大学とはこのような人間が闊歩するところなのだ、と思った。あのときから彼の風貌はまったく変わらないままで、ときどき忘れかけたころに前から歩いてくる。いつも前から歩いてきてすれ違うばかりで、後ろから来て抜かれたことは一度もない。

# by enzian | 2011-10-07 22:47 | ※キャンパスで | Comments(0)

後ろ向きのまなざし

あたりまえだけど、学生もいろいろ。教師と学生の関係はいわゆる「師弟関係」だけだと考えているかたもおられるかもしれないが、ひととひととの関係だからそんな単純ではない。学生のなかには、「自分の方が能力のある人間であること、より高級な生まれの人間であること」をぼくに知らしめるために、ぼくのゼミを選ぶようなものもいる。権威主義的な傾向のひじょうに強いひとだと思うが、それじたいは悪いことじゃない。

こっちとしては学生が自分よりも優秀だったらうれしいし、さっさと抜き去って、いろんな方面で活躍してもらえたらと切に願っている。そしてもしできることなら、自分が抜き去ったひとたち、後に残されたひとたちがそれをどんな風に感じているかを考えられるような、“後ろ向きのまなざし” もわずかにもち続けているなら、なお魅力的だし、自分(学生自身)を知ることにもなる、と思っているのだが、これはぼくの趣味の問題なんだろな。

# by enzian | 2011-10-02 10:02 | ※キャンパスで | Comments(0)

金の星

b0037269_023215.jpgはじめて聞いたときは調子外れに感じたが、しだいに耳慣れてきた。春と夏のころには「夕焼け」といっても、西日が照りつけていたが、このごろはそれが流れる17時になると、ちょうど夕焼けがはじまろうとしている。夕刻を告げるためにどこからか流れてくる「夕焼け小焼け」に耳を傾けるのが、いつしか楽しみになっていた。

この半年間、街を歩き、たくさんのひとと出会った。肉屋のおばさん、ミニスーパーのおじいさん、天ぷら屋のご夫婦、パン屋のおじいさん、甘味屋のおじさん‥‥。みな忘れられないひとになった。ここに戻ることがあるかどうかはわからないが、ときどき思い出し、また幸運にも近くに来ることがあれば寄り道をして、元気なのだろうか、と気づかれないよう顔を見にいこうとするだろう。

ぼくは最初たいていのものが嫌いだが、けっきょく、たいていのものが好きになる。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。東京も多分に漏れなかった。なにがわかったというわけでもないが、この街が好きになった。それは、ここで生活しているひと、ここで学んでいるひとに心惹かれたということなのだ。夜空にきらめく金の星はほとんど見えなかったけれど、昼の星たちとは申し分なく会えた。さあ京都に帰ろう。

# by enzian | 2011-09-29 19:00 | ※街を歩く | Comments(12)

ぴょん吉のこと。

ぴょん吉というのは、ぼくの部屋で生活をともにしているハエトリグモのことで、あるとき小さな小さなハエトリグモがいるのに気づいて、こんな餌もないであろうところに置いておくのはしのびないと部屋から出してやろうとしたのだが、なんどつかまえようとしても、あの身のこなしでぴょんぴょんと巧みに逃げるので、ついぞあきらめてしまった。ぼくはもうできるだけの努力をした。こんな哲学書と歴史書ばかりの砂漠のようなところで餌がなくて餓死したところで、それは君のせいであって、ぼくの責任ではない。

その後も、ぼくがパソコンの前で勉強をしていると、ときどきモニターの前を横切ったりするので、その度につかまえようとするが、けっきょくぴょんぴょんしてしまうのであった。それできっとひもじい思いをしているのだろうと心配していたのだが、あるとき、ぴょん吉が少しずつ大きくなっていることに気づいた。一週間前に見たときはもう完全に成長して大人サイズになっていた。やつは確実になにかを食べているのだ。なにを食べているのかわからなかったが、昨日、引越前の掃除をしていて、ちょっとわかった。ぼくの部屋には、どうも、ぼくとぴょん吉以外にも二種類の生物がいるらしいのだ 。コワイヨママ。

ひとつは紙魚(しみ)。どんなやつかご存じない方はネットでどうぞ。部屋には古本屋で買った古本がたくさんあるので、そういう経路で紛れ込んで生存しているらしい。もうひとつはダニ。タタミをよ~く見ると、ふんにゃかうごめく極小の生物がいて、(・_・?)となったのだが、ダニであった。こやつらはきっと、ぼくからぱらぱらと落ちる皮膚の破片とかを餌にして生きておるのだ。いつのまにか、東京でダニを養殖しておったのですな。ダニ大漁。ハエトリグモがはたしてダニを食べるのかどうかしらんけど、もしそうだとしたら、ぼくはこの東京生活で立派にぴょん吉を育てあげたことになる。

# by enzian | 2011-09-25 23:05 | ※その他 | Comments(2)

偉いひとは偉いひとなりに

偉いひとは偉いひとらしく、もっと偉そうにしてもらわないと困る。ぼくは、偉いひとはその偉さに応じて偉そうにすることを当たり前だとまではいわないにしても、「そうなることは理解できます」ぐらいに考えているので、偉いひとはそれなりに偉そうにするものだろうと想定しながらひとと付き合う。ところが、明らかに偉いにもかかわらず、ちっとも偉そうにしないひとは困る。ちょっと油断をすると、ぼくよりも目線を下げているような油断も隙もない謙虚なひとには、内心、穏やかではない。偉くもないのに偉そうにしているひとや、尊敬すべきものをものっていないのに自分を敬えと迫ってくるようなものには1ミリたりとも傾かないが、こういう謙虚なひとのまえではぐらぐら揺れはじめて、かってにひれ伏す。

もちろん、ここでは「偉い」の意味が問題になるが、それは秘密なのである。

# by enzian | 2011-09-24 23:40 | ※その他 | Comments(0)

彼岸花

b0037269_23555824.jpgもうすぐ彼岸というので、彼岸花がどこかに咲いていないか探しながら歩いていた。大学の片隅に一株だけ、雨に打たれて咲いているのをみつけた。

まだ授業のはじまらない学校にも学生は行き来しているが、この花に気づくものはほとんどいないだろう。こんなところに彼岸花の球根を植えたひとがいたのだ。自分の好きなことをして、それでなにかを失ってしまうというなら自分はそれで後悔もないが、悲しませるひとの数は少な目ですませたい。学生が京都の彼岸花の写真を送ってきてくれた。このブログをはじめたころ、彼岸花はたしかに嫌いな花だったが、いつのまにか好きになっている。そろそろ荷造りをはじめよう。

# by enzian | 2011-09-22 00:33 | ※キャンパスで | Comments(7)

はらり

卒業生と話していると、「あのときは言わなかったのですが、じつは○○だったのです」というフレーズをときどき聞くことがある。ひとりの人間からなにかがはらりとほどけて落ちてくる瞬間に立ち会えることの “役得” を噛みしめる瞬間でもあるし、ひとがなにかを言葉にすることのむずかしさを感じる瞬間でもある。

聞く耳をもっていますよ、大丈夫ですよ、などとアピールしても、なにかが熟さねば言葉は落ちてこない。なにかがはらりとほどけて言葉になる瞬間がいつになるのか、言葉の主にもわからないのだ。でも、時間のなかでいつか熟すと考えて待つ。

# by enzian | 2011-09-18 23:58 | ※その他 | Comments(0)

合間

論文を書いていると、どれほど緻密に筋書きを思い描いていたつもりでも、いつか行き詰まってしまう。論文ごとき書けずとも死ぬわけでもあるまい、というひともいるかもしれないが、研究することを生業の何割かにしていて、それを自分のなけなしのアイデンティティだと思い込んでいるタイプの人間にとっては、少なくとも、行き詰まっているあいだは生きた心地がしない。なんとか池地獄でもがく亡者の心地さえして、ほとんど生存の危機に瀕している。

再三こんな目にあっているなら、泥沼に落ち込まない方法を考えればよいのだが、思いつかない。ほんとうのことをいうと、思いつこうとも思っていない。そういうわけで、いつも泥沼でびちゃびちゃやっている。もちろん、あるとき亡者の上にも、するすると光の世界から蜘蛛の糸が降りてくるのだが、いまいましいことに、パソコンの前でうんうんうなっているときには降りてこない。決まって降りてくるのは、就寝前の夢とうつつのあいだか、風呂場で頭をごしごし洗っているとき。考えているとも考えていないともいえない曖昧な合間。

# by enzian | 2011-09-15 21:25 | ※その他 | Comments(0)

なにかが変わりはじめている。

このところ、たしかになにかが変わりはじめている。いちばん最初に気づいたのは毛深くなってきたことだ。もともとぼくは毛深くないタイプだと思うのだが、東京にきて、みるみる毛深くなってきた。ごわごわなのだ。毛深くなるというのはおもしろいもので、短かった体毛がだんだん長くなってきて、あれ(・_・?)と思っていると、その長い体毛がみるみる黒くなってくる。なになに、おれってこんなに毛深かったの?あれあれ?ということになっている。あと一ヶ月もしたら野生動物になってしまうのではないかと心配している。

つぎにおかしいと気づいたのは、ホクロがいたるところにできてきたことだ。東京に来るまえにはぜったいなかったホクロが腕といわず顔といわず、いたるところにできはじめた。京都にいたときは額にはホクロなんかなかったはずなのに、いま見ると三つもできていて、二等辺三角形を形作っている。そしてなおかしいことに、前にあったはずのホクロが消えている。ホクロが移動しているのかどうかわからないが、こんなことなら京都で全身写真を撮っておいて京都に戻ったときの写真と比べて楽しめばよかった。

眉間にしわがよってきたことに気づいたのは、ほぼ一週間ほどまえだった。珍しく洗面台で鏡を見たら、眉間に二本しわを寄せて、恐ろしげな顔をしたおっさんが立っている。いまのところ、このしわはなぜか朝には目立つが夜には目立たないという半日ものに留まっているが、いつフルタイムになるとも限らん。毛深くてもよいし、ホクロなどいっこうに気にならないが、このしわはおもしろくない。〈深層において般若*である〉というのはよいが、〈表面的に般若である〉というのは、わかりやすすぎてイヤだ。ひねりなくして哲学なし。

昨日気づいて、じつはいまも落ち込んでいることがある。とあるところで話をしたのだが、質疑応答のときに質問を忘れてしまったのだ。20代のころの、バカなりに頭が回転したぼくであったら、一度に数個の質問をされても余裕で答えた。ひとつを強く考えて答えながら、あとの数個に柔らかな思考をかぶせながら保持しておくことができた。それができなくなった。質問を受けて、ぼくはそのひとつの質問に二つの側面から答えようとして、ひとつめを答えている最中にもうひとつの側面を消してしまった。のみならず、その質問自体を忘れてしまった。たったひとつの質問の保持ができなくなった。老いたのだ。

野生動物風であってもかまわない。あからさまな般若になってもごまかしごまかし仕事はできるが、こういう保持ができないのは困る。教壇での講義ごときであればノートを見ればすむことだが、ひとと対話することができなくなるではないか。

*般若の面をさす。念のため。

# by enzian | 2011-09-09 21:10 | ※その他 | Comments(0)

聖なる物語

なんでもかんでも東北のためにとか、被災地に勇気を与えるために‥‥といったストーリーで意味づけるひとがいて驚いてしまう(ついでに言うと、この「勇気を与える」という言葉づかいには違和感を覚える)。揚げ足をとられては困るのではっきり言っておくと、被災地のためになにかをすることにとやかく言っていっているのではない。そんなこと、言うわけないじゃないか。そうではなく、まったくそんなつもりもなくスポーツをしたり、働いたり、趣味に興じたりしているだけなのに、それを第三者が「それは被災地の方のためですよね?」といった感じで強引に結びつけるのはいかがなものかと思うのだ。

もちろん、被災地のためになにかをするのは立派なことだと思う。それは当たり前なのだが、純粋に自分が勝つためにスポーツしたり、自分の儲けのために仕事をしたり、キノコ鍋にするためにキノコ狩りに行ったりするのも大いにけっこうなことなのだ。ひとの行動を勝手に自分好みの聖なる物語の一部にすることは、個人の空想のなかでは自由だが、それを三次元の他人に押しつけるのは暴力以外のなにものでもないと思う。

# by enzian | 2011-08-26 21:27 | ※テレビ・新聞より | Comments(2)

積年の願い

b0037269_0225723.jpg歳をとって好きなものが増えるのはうれしい。いまから思えば小さいころには食べ物の好き嫌いがたくさんあったのだが、どれも、いつのまにか好きなものになっている。

おはぎが好きになったのはひとつの大事件だった。粒餡が苦手だったし、「おにぎりを甘い餡でくるむ」という浮世離れしたコンセプトが許せなかった。そんなぼくを尻目に、祖母はめんどうのかかる小豆を毎年畑でつくって、くつくつ煮て、それを母といっしょにいそいそと巨大なおはぎにしていた。遠くから見ているぼくに、「お前は食べないのか?」といつも聞いた。

あんなに嫌っていた粒餡おはぎだったが、いまでは大好きな食べ物になっている。嫌いなものを好きになるというのは、それを好きになって欲しいという自分の好きなひとの願いがまずあって、自分もまた、いますぐにではなくてもその願いにいつか添いたいという願いが休むことなく働き続けてきた結果なのだ、そうにちがいない、と思い込んでいる。

# by enzian | 2011-08-21 00:28 | ※その他 | Comments(4)