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落とし穴が好き(【R】)

今日もハイジを見る。落とし穴を作ったりなんかしている。ヨーゼフとペーターを落とそうとして、けっきょく自分が落ちてしまう、というオチ。なんともカワイラシイことで。

そういえば、小さいころ、異様に落とし穴を作るのが好きだった。庭やら公園やらでやったらと作ってよろこんでいた。明日はどんな落とし穴を作ろうか、なんて想像するだけで、夜、ワクワクして寝つけないこともあったげな。

何がそんなに楽しかったのだろう。落ちた人がケガをしたり、苦しんだりするのが楽しいというわけではなかった。落とし穴までの動線(人の動く道筋)を緻密に想定し、さまざまな創意工夫によって巧みに動線にまで誘い込み、一歩一歩、着実に奈落まで追い込んでゆく‥‥。人が自分の策略に陥ってゆくプロセスを見るのが、たまらなくおもしろかったのだ。

あのスリリングさ‥‥今思い出しても、ドキドキする。さすがに今は地面を掘ったりはしないけど、あいかわらず見えない穴を自分の周りに堀り散らかしているのかもしれないですよ、みなさん。キャ~。(引かないでね。)

by enzian | 2005-03-31 20:38 | ※テレビ・新聞より | Trackback | Comments(20)

人間距離と人間角度

b0037269_208095.jpg距離感というのは、つくづくむずかしい。車は速度によって安全な車間距離が違うが、人も、他人とのあいだの安心できる人間距離(じんかんきょり)が違う。0センチの人、50センチの人、1メートルの人、2メートル以上の人‥‥。近寄りすぎると馴れ馴れしくなるし、離れすぎると冷たくなる。その距離がまた微妙な条件の変化ですっかり変わってしまうこともある。

人間距離が互いに同じである人同士は、ここちよく付き合うことができるだろう。でも、0センチの人と2メートル以上の人が付き合うことはできるのだろうか。ここちよさ、安心感を犠牲にして付き合うか、付き合うのを諦めるか、しかないのかもしれない。

人間距離だけでなく、この角度に他人がいれば安心できるという人間角度(じんかんかくど)もあるかもしれない。人と連れ立って歩くときには、たぶん相手は自分にとっての人間角度にいるはずだ。彼や彼女と歩くときのことを思い浮かべればいいだろう。無意識のうちに車道側にいて彼女を守ってしまうなんていう、板に付いたジェントルマンは、このさい、無視するものとする。

ぼくの個人研究室には長方形のテーブルが置いてあって、いろんな人とここに座りながら、勉強したり、お菓子を食べたり、人生について語り合ったり(?)することになっている。ぼくの座り位置は一定で、必ずA。来客者にはB~Fに自由に座ってもらうことになっている。AとBCの距離は1メートル以内。AとDEは1.5メートル。AとFは2メートル以上ある。

ぼくのこれまでの経験では、一人の人の座り位置はほぼ一定している。Bを座り位置にする人は最初の訪問以来いつ来てもBだし、Cの人はいつ来てもC、Fの人はF。その位置がその人にとって最も安心できる(あるいは、それに近い)位置なのだろう。BCの人は、人間距離から言えば、50センチから1メートル。DEは1.5メートル。Fは2メートル以上となる。人間角度から言えば、Bは(椅子に座ったままで正面に向いているとすると)右斜め45度。Cは左斜め45度。Dは右斜め22.5度。Eは左斜め22.5度。Fは真正面となる。

さらに、ぼくはこのBCDEFの位置取りでいろいろなことをひそかに判断しているのだけど、これ以上は仕事にかかわるので、教えてあげない。ヒ・ミ・ツ。

by enzian | 2005-03-03 20:23 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(22)

人を見る目がない

学生からの連絡により、同僚がぼくのことを「まじめな人」だと評していたという事実が発覚する。「いったいぜんたいどの辺がまじめだと思っているのか、さらに探りを入れるように」と学生に隠密行動を指示するが、にべもなく断られる。

師の崇高な意図を読みきれぬ学生の、若さゆえの粗相は許してやろう。問題なのはむしろ同僚の方で、長い付き合いになるのに、どうしていまだにぼくのキャラクターを読み切れないのか、いつまでダマされ続けているのかと不思議に思う。ぼくの同僚はホントウにまじめな人だから、複雑に曲がりくねり、入りくんだリアス式海岸のようなぼくの性格を理解しろというのが、土台、無理な話なのかもしれない。

「上岡龍太郎にはダマされないぞ」という番組が以前あったような、なかったような気がするけど、ぼくの聞こえのよい発言とか、やさしくて繊細そうな言い回しとか、しおらしい人格であるかのような記事なんかにダマされてはいけない。そうしたおびただしい発言の奥には必ずやケケケ的動機が隠されているし、いいかげんだし、ちょっと人を見る目のある学生たちからは、“にっこり笑って、すっぱり切る冷血人間” ということですでに評価は一定しているのだ。

座右の銘は「自分にはやさしく、他人にはきびしく」。ゆめゆめ、ダマされてはいけませんよ。

by enzian | 2005-02-22 22:19 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(13)

座りたくない老人の憂鬱

ドアが開き、初老の男性が乗り込んでくる。座席には目もくれず、ドア際で窓の外を見ている。女性が立ち上がり、老人の肩を叩く。老人は一瞬困惑した表情を浮かべるが、好意に甘えて、席につく。次の駅で老人は降りる。――電車で座りたくない老人は一体どうしたらいいのかと考えるときがある。体を鍛えるためでも、人の情けにすがりたくないからでも、理由は何でもいい。ともかく立ったままでいたい。そのような場合、それなりの年齢に達した人は、電車のなかでどのように振舞えばよいのだろうか?

まず、優先席付近は避けなければならない。危険すぎる。下手に目でも合ったら最後、すかさず席を譲られてしまう。そこはそういう場所なのだ。しかも譲った人は思っているかもしれない。「ちっ、譲らないと、こっちが悪人になってしまうだろうが!」。普通席の近くはどうだろうか。ここでも席を譲られてしまう可能性は高い。譲った人はこう思うかもしれない。「座りたかったら優先席へ行けよな!」。連結器付近へ逃げ込もうとするのも得策ではない。連結器の手前には恐怖の優先席ゾーンが待ち構えているからだ。残るは、ドア際でひたすら窓の外を見るしか手がないが、これも絶対とは言えない。冒頭のような親切な人がいないとも限らないだ。しかもその場合、強力な親切心があだになって、むげに断ることはできない。

そこにさえいれば安心な空間は電車にはない。だとすれば、あとは自分の体に工夫をこらすしかない。乗り込んだとたんに倒れこむか。これなら座席には座らなくていいが、担架に載せられる恐れがある。ヘッドフォンステレオを大音量で聞きながらビートのリズムに乗って乗り込む。座らなくていいが、白い目で見られ続けること必至。「私を老人扱いしないでくださいシール」を見えやすいところに貼る。ちょっと恥ずかしいが、これしかないのかもしれない。気丈な老人にとっては、“やさしさ” (おせっかい?)に満ちた電車の中は不自由きわまりない世界なのかもしれない。

by enzian | 2004-12-15 20:56 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(5)

電車で福笑い

電車で、一心不乱に化粧をしている人を見る。まじまじと見つめるのはマナーに反するかとも思ったが、くちゃくちゃガムを噛みつつ、傍若無人な様子でまったく他人の視線を気にしていないようだったので、しばらく観察してしまった。こういう人は、きっと自分のターゲット以外の人なら、自分が化けてゆく(化粧だからね)過程を見られたところで、どおってことはないのだ。ターゲットには、「キャー恥ずかしい」とか何とか言うのだろうけど、ターゲット以外は、路傍の石ころのようなものなのだ。都合よく、石ころはそう思うことにした。

見たこともないレアなアイテムが次から次へと繰り出された。塗ったくったり、たたいたり、線を引いたり、挟んだり。一瞬の無駄な動きもない。クライマックスは、それまでなかった見事な眉が突如として出現したときだ。揺れる電車のなか、しかもくちゃくちゃガムを噛みながら、まごうことなき匠の技であった。お正月の福笑いよりもはるかに難しいだろうと感心したものだ。だから、これのどこが哲学なのか。

by enzian | 2004-11-22 21:24 | ※通勤途中 | Trackback | Comments(3)

恥ずかしくて、本当のことなんか言えない

まともなこと、正論が苦手だ。堂々と正論が言える人もいるらしいが、そういう人がしゃべっているのを聞くと、恥ずかしくて、鳥肌が立ってくる。自分の気持ちをまっすぐに伝えようとする歌詞や台詞など、恥ずかしくてとても聞けない。いつ聞いてもMISIAの歌詞は恥ずかしいし、何かの手違いで金八先生でも見ようものなら、恥ずかしさを通り越して、純粋な恐怖を覚える。

聞くのがイヤなくらいだから、言うのはもっとキライだ。わかり切った正論をとうとうと話す自分など、想像しただけで即刻死にたくなる。もし「ものすごい正論を言う自分のビデオ」というのが密かに作成されて、手足を縛られて無理やりそれを見せられ続けたら、10分以内に泡を吹いて失神するだろう。授業のときなど、さすがに授業内容にかかわることにウソはつけないが、合間の雑談はウソで塗り固めることにしている。ほとんどの学生はそれがウソであることに気づかず、真に受けて眉をひそめる。

分野説明のオリエンテーションなど、毎年ほぼ100パーセント、ウソしか言わない。まともなことなんか、ちっとも言ってやらない。変化球しか投げない。だれが直球なんか投げるかってんだ。ひねってナンボの世界(?)なのだ。誤解されるか、極めてまれに真意を鋭く察知されるか、ギリギリの勝負を楽しんでいる。結果、やはり真に受けて、ほとんどの学生は私の分野に背を向ける。他分野の同僚からは 「デマゴーグ」と呼ばれ、同分野の同僚からはちょっと感謝されている(ゼミが少人数になるからね)。それでいいのだ。万人に好かれる人徳者なんて、ウソ臭いにもほどがある。ちなみに、今書いていることもウソなので、真に受けないでくださいね。クレタ人の話みたいかな。

by enzian | 2004-11-15 23:12 | ※キャンパスで | Trackback | Comments(2)

サプリメント

近所に一件だけあるコンビニのサプリメントの棚が見るたびに立派になっている。かわいらしいデコレーションが施してあるから、店の狙いはティーンの女性なのだろう。どうもやな感じだ。何がやな感じなのか、分析してみる(つくづくヒマだね)。

1.そもそも薬というやつが嫌いで見たくない。この辺の事情については極めて個人的なヒストリーに触れなくてはならないので、詳細は略。いつか気が向いたら書こう。ただし、サプリメントは厳密には薬ではなく「栄養補助食品」だとツッコム人もいるだろうから、次。

2.サプリメントが薬っぽいかたちをしているのがイヤ。薬じゃないなら薬っぽいかたちをするな!まぎらわしくて仕方ない。それより、ビタミンCならレモンのかたちで、カルシウムなら牛の骨のかたちで、ビタミンAならヤツメウナギのかたちにすれば、キワメテわかりわすいではないか。しかし、そんな気持ちの悪い食べ物を誰が買うか、とツッコム人もいるだろうから、次。

3.ティーンの女性をターゲットにしているというのが気に入らない。この手の人たちは何だって無批判に買っちゃうわけだから、そんな大人気ないことを商業論理に組み込むのはフェアではない。これは今ひとつ意味のわからない大雑把なオジサン的見解であり、かつ、「あたしたちの眼力をバカにしないで!」といった轟々たる非難が該当者たちから飛ぶのは火を見るより明らかなので、「失礼をした」とすかさず撤回する。

4.補助的なものがエラそうにしているのが、イヤ。ツッコミのみなさん(誰?)、どうもありがとう。そうなのだ。これこそが、やな感じの源なのだ。脇役が主役よろしくふんぞり返っているのがイヤなのだ。“supplement”とは、主役がいない場合の泣く泣くの代役。代役ではなく主役を、ヤツメウナギを売れ、ヤツメウナギを、コンビニ(だから、それは無理だって)。

ともかく、どうしようもない場合にのみ仕方なくOKせざるをえないものを日常的にしてしまったら、いろいろ問題が起きる。原子力にしても、臓器の利用にしても、堕胎にしても‥‥(良い子は他の例を考えようね)。麻薬なんてその典型だけど、薬はこれが全体的にあてはまる。2に戻ると、薬と似ているから、サプリメントが薬の「どうしようもないときにだけOKするわよ」をなし崩しにするのもやなんだろうな。疲れたら腰に手を当てて「覚せい剤一本ゴクッ」、美容のためには「‥‥一錠ポイッ」みたいなノリ。ぼくは何をさしおいても次世代の課題となるのはドラッグの問題だと思っているけど、もう手遅れなのかもね。

by enzian | 2004-09-23 23:59 | ※街を歩く | Trackback | Comments(2)