身の周り半径5メートルほどにある、なにげない日常をささやかに見つめ直します。


by enzian
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余力

役職として宗教系の奨学金の授与式に参加する機会があって、院生の一人が自分は別の宗派の人間にもかかわらずこれをもらうことができて、(金額の多少ではなくて)そのこと自体が頑張れる力になるというようなことを言っていて、その気持ちが痛いほどわかった。ぼくもまた、これとよく似た奨学金を、一般家庭で、しかも他大学にいたにもかからずもらっていたからだ。けっきょくぼくはそのお金にまったく手をつけないままに、アルバイトやら非常勤やらのお金で生活して、いつしか大学に職を得た。そういう意味では、傍から見れば、その奨学金は必要なかったのではないかと思えるかもしれないが、それは違う。封を切っていない奨学金があるということが、ぼくのなかでは決定的な意味をもっていたからだ。

その奨学金が浄財をもとにしたものであって、願いのこもったお金であるということは当時のぼくも聞いた。願いのこもったお金を持っている。これがどういう意味であるかは、当時はよくわかっていなかったように思う。だが、自分には他のお金が尽きてもまだ使えるお金があること、まったく門外漢のあるはずの自分であっても受け入れてくれるものがあるということの有り難さというか重みは、はっきりと自覚していた。そうしたストック、余力というか一種の器量への思いがなければ、自分はそもそもこの大学に残ろうとはしなかっただろうし、いまの職に就くこともなかったろう。院生の将来が洋々であることを願う。
# by enzian | 2020-10-23 22:37

秋の花

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もう秋が深まって金木犀の香りが漂っている。つい先月ぐらいにかいだような気がしてならないのだけど、もう一年が経っていたのだった。
# by enzian | 2020-10-17 22:37

半径15センチの世界

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今年はゆっくり萩を見ることができて満足なのである。好きな花なのだ。いたって地味な花だし、それほど美しいとは思えないのだけど、なぜ好きなのかと考えたら、いくつか身に覚えがある。新薬師寺に咲いていたのを見たときがあって、その日の奈良巡りが楽しかったというのが効いているのかもしれない。これはトラウマの逆の意味だな。秋の訪れを告げる花だということもある。ぼくは昔から、オミナエシが咲きはじめたら夏が終わるのだと感じ、萩が咲き始めたら秋が始まると感じるのだ。

小さな花だということもある。学生に「先生は小さな花が好きですね」と言われた。当たり、君には見込みがある。といっても、「小さき花はみな美し」ということではない。地べたに寝そべって、地面と目のあいだの30センチほどのあいだに入って、ようやく見えてくるぐらいの大きさの野の花が好きなのだ。半径5メートルの世界と言っているが、それは同心円状になっていて、いちばん内側には半径15センチの世界があるのかもしれない。

# by enzian | 2020-10-03 10:25

補修?

よせばいいのに、手厳しく学生を叱ってしまう。4年ぶりのことだ。たとえ何十回何百回逡巡して判断したことであったとしても(逡巡せずに叱ることなどあろうか!)、叱れば、すべて無に帰する。それは理があるかどうかではなく、身に刺さった刃の痛さの問題なのだ。こうしてやってしまった後に残るのは、(それでも学生は学ばねばならないわけだから)学生として生きて行くために最低限必要な、冷え冷えとした道具立てとしての関係だけだから、そういう非人間的な関係に自分で自分を追い込んでいるわけなのである。叱れば必ず自分の生きる世界を狭めることになる。叱ってしまった自分を擁護できるようなことが書けないか最後まで考えたが、なにひとつない。

ちなみに、このごろ反省的なことばかり書いているので、私が落ち込んでいるとか元気がないと心配していただいている方がおられるかもしれませんが、当人はいつもどおりの平常運転で、普通に生活しておるのです。その昔、論文らしい論文をはじめて書いたときに「弱いところを補修しながら前に進むタイプだね」と言われたことがある。なんと的を射た批評かと思ったし、書く論文に限らず、自分はそもそもそういうタイプなのではないかと思うが、ひとつ怪しいところがある。「補修」も「修復」も本当にはできているわけではないからだ。だったらなにをしているのだろうか。
# by enzian | 2020-09-13 14:59

小さな位牌

賽の河原で小石を積む子どもと地蔵菩薩が描かれた絵を見る機会があった。「賽の河原地蔵和讃」では、早く死んだ子どもは親を悲しませる罪をおかしたのであり、そのつぐないのために石を積み続けるとされるが、その子を死に至らしめた人間は彼の地でどのような責め苦を負うことになるのだろうか。

実家の仏壇には小さな位牌がひとつ、ほかの位牌に隠れるようにして置かれている。ぼくは自分と血の繋がったこの人がなぜこの世に生まれてこなかったかを知っている。いまでは世界でひとり、ぼくだけがその理由を知っている。

ずっと昔、ぼくがまだ幼かったころ、母から突然「○○は弟か妹が欲しいか?」と尋ねられたことがあった。ぼくはその質問の意味がなぜかわかった気がして、間髪入れず「要らん」とだけ答えた。もう一人の人間を養う余裕はこの家にはない。ならば、自分がなるべくきっぱりと、しかもそっけなく答えなければならない。ぼくはそう答えたまま、母の顔を見上げることさえしなかった。そしてその演技は首尾良く成功し、その後、その質問が母からも父からも繰り返されることはなかった。

# by enzian | 2020-08-29 22:05

二発ぐらい

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恩師が折に触れて一般に向けて書かれた文章をまとめている。晩年のひどく多忙な時期には急いで書いたのだろうと思えるものもあるが、40代・50代に書かれたものをみると、鋭さと重さを兼ねそなえた言葉が何度も胸に衝き当たってきて、その度に作業を中断せざるをえなくなる。思い上がった言い方をすれば、何年話を聞いても、何年書かれたものを読んでも、一度も胸に当たるものを紡ぎ出せない人が大方なような気がしているので、自分はこの稀な人の下で学ぶことができてよかったと心から思う。そしてもうひとつ。その文章をまとめることのできる自分のような学生を残されたことが、先生の先生たる所以なのではないか。先生、二発ぐらい自分で自分の頭にがーんと喰らわしておきますので、お許しください。
# by enzian | 2020-08-28 19:00

コメント欄

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# by enzian | 2020-08-16 22:42 | Comments(10)
オンラインで人と話している自分の様子を検証する機会があった。激しくショックを受けたので、書かずにはおれない。

(1)軽さ:声が意外に高い。
→もっと低めの、ロマンスグレー的な大人の声(なんだそれは)だと思っていた。じつは軽々しい声なのである。

(2)暴力:相手の話を最後まで聴いていない。
→相手の話が8割5分ぐらいになったら、「あぁわかった」「あぁなるほど」とか言いはじめて、相手の話が終わる前に勝手にまとめはじめる。相手の言うことが理解できたことを早く示したいらしいのだが、要は相手の話を遮っているだけ。これは暴力的なことではないか。

(3)窃盗:相手の話題を横取りする。
→相手が持ち出した話題なのに、いつのまにか横取りして自分の体験談を話しはじめている。共感を示そうとしているつもりなのか、イニシアチブをとろうとしているのか、マウンティングしようとしているのか、自己顕示欲が強いのか、よくわからないが、いずれにせよ相手が大切にしているものを横取りしている。

(4)嘘
→あまつさえ、自分が話すときにはいいかげんなことを言っている。ときに根も葉もない嘘さえ交えている。

(5)偉そう:真理は自分にこそある、という話し方をしている。
→その話し方たるや、もし世界に真理があるなら自分のなかにこそある、なんなら世界で唯一の正義は自分のなかにある、といった具合なのである。なにさまなのだ。

これらをまとめて言うと「偉そうなバカ」ということになる。激しく打ち砕かれたが、わかったからには修正していくのだ。さすがに恥ずかしすぎて、修正しようと決心せずにはおけない。

# by enzian | 2020-08-14 11:10
じりじりと暑い時期には広島に行きたくなる。毎年この時期に広島に行きたくなるのは、この本の影響のような気がする。これを小学校の図書室で何度も何度も読んでいて、その表記は「いしぶみ」ではなく「碑」だったと記憶しているが、いまとなっては記憶違いなのかもしれない。いずれにせよそれ以来、自分のなかに「碑」という漢字が、意味もわからないままに刻み込まれている。人にはそれぞれ、自分のなかに刻まれた文字があるのかもしれない。だとすれば、それはどうやって刻まれるのだろうか。その場合の「刻まれる」とはどういうことなのだろうか。

『いしぶみ』は文字通り「記録」で、そこには男子中学生321名(と教師4名)が亡くなっていく経過がそのままに書かれている。原爆投下後、生徒たちがどうやって誰かのもとに戻って、亡くなるまでになにを語ったかを淡々と書いてあるだけなのだが、つまらない思想的な偏りの入っていない生のままの言葉に、人はもともとこういうものによって生きているのだということが感じられて、自分のなかのなにかが抉られたのかもしれない。当時はまだオカルトや、オカルトもどきの宗教書しか読めないころだった。コロナ禍が収まってくることがあれば、せめて生徒たちが感じたような暑さを感じるために広島に行って、街をじっくり歩きたい。長島愛生園歴史館にも行きたい。

# by enzian | 2020-08-07 20:06

いつか

アボカド料理をいつか食べに行こうと思っていたら、いつのまにか閉店していた。コロナの影響があったのかもしれない。いつかなんとかなるとか、いつかしようなんてことの頼りなさには何度も痛い思いをしてきたはずなのに、いつもこのとおりなのである。そんな学習力のない自分のことは棚に上げて、学生には、秋のことも冬のこともわからないから後回しにはせず、できることはいまのうちにしておくのがよいよ、なんて言っている。

それでも思う。経験を重ねて知ったところで、いつかに期待することはやめられないのではないかと。近藤ようこの『水鏡綺譚』の第十三話で、観音からお前はもう立派な人間だと言われた少年も、やはり最後にはいつかと言わざるをえなかった。それにしても、最初に読んだときには、この本がいつか文庫になるなんて思わなかったな。

# by enzian | 2020-07-19 15:19

今生のお別れ

この仕事以外に生きる道はなかったのだから、拾ってくださったその方は命の恩人なのである。「最後に握手していただけますか」とお願いした。自分から誰かに握手をお願いしたのははじめてのことだった。両手で握手して、「ありがとうございました」と告げた。かすかに「こちらこそ。ありがとう」と聞こえた。部屋から出るとき、振り返ってベッドを見たら、こちらを見ておられた。これが今生の別れであることは二人ともわかっているのである。もう一度頭を下げて、そこに居たいという思いを引きちぎって庭に出た。まもなくタクシーが来るだろう。

教室に着いたのは授業開始の30秒前だった。じつに半年ぶりの対面のゼミなのである。若い学生たちはうれしくて仕方がないといった風で、教室にはパッと花が咲いたようであった。この半年、それぞれにいろんなことがあったのだろう。思えばこの教室は、かつて自分がゼミの授業を受けたその教室なのである。
# by enzian | 2020-07-02 22:18

逍遙

ブログを書きはじめたころは街歩きが嫌いだったはずだが、いまは好きになっている。なにがきっかけになって心変わりしたのかと考えると、東京で暮らして下町を歩いたことがそれだった気がする。あれほど違和感があった東京の下町が好きになって、戻った京都でも街並みを歩くのが楽しくなった。そうなのだ。それまで自分は京都の街並みさえ好きではなかった。戻ってようやく好きになったのだ。

いい歳をして街歩きが好きになったのはよいが、そうした街並みのあちこちには人の記憶が重なっていて、長い年月が経ってもうそうした人たちには会えないとわかると足取りが重くなる。寺町通りの碁盤屋のおじいさんも、北大路通りのおもちゃ屋の老夫婦ももういない。あの人にはお世話になったばかりで、ついぞなにも返さなかったではないか。そういうふうにして自分はたいてい、あのときどうしたらよかったのかとばかり考えながら歩いている。いろんな通りで、どれほどの失敗を繰り返してきたことか。
# by enzian | 2020-06-19 23:03

梅雨

登校する学生が少なくても、この時期になると正門の脇の西洋菩提樹には小さな花がついて、辺りに香りを漂わせている。学生時代の自分がこの花の香りに気づいていたのか、覚えがない。やっぱり雨か。
# by enzian | 2020-06-13 12:38

知り合う

Teamsについての本を買ってみたら、目新しいことは書いておらず、得るものがなかった。かゆいところに手が届かない本という印象。そんなものより、学生たちと試行錯誤を続けているうちに自然とオンライン授業関係の知見が積み重なってきて、なんとかやっていけそうな見通しが立った。学生たちは、はじめてのオンラインで、これまで直接に会ったことも話したこともない(そしていまなお直接に会っていない)メンバーでプレゼンテーションをやってのけるのである。プレゼンテーションの後で「直接に会ったことも話したこともない人と知り合えるとは思わなかった」と言っていたのが印象に残った。この場合の「知り合う」とはどういうことなのだろうか。
# by enzian | 2020-05-15 22:25

同じ顔の違和感

長くアマゾンの奥地で生活してきて外の社会との接触を経てこなかった人たちは「イゾラゾ」(Isolado 孤立した、隔絶された、の意味)と呼ばれる。イゾラドについてのドキュメンタリーを観ていて感じたことがあった。顔関係のことなので書いておこう。

そのイゾラドは一家族で、父親と母親そして子どもたちからなっているのだけど、ぼくはこの家族に非常に違和感というか、こういうことを言うと失礼なのだが、恐怖感までも感じた。その家族が外の社会の者に対して警戒感をもっていることがその理由であることはまずわかったのだが、どうもそれだけではない。何度か放送を観て、その家族が似た顔をしていることが理由ではないかと思いはじめた。ひょっとすると残された少数の部族のなかで近親婚が繰り返されたからなのかどうかはわからないが、髪型にバラエティーがないこともあって、顔だけでは判別がむずかしいほどにみな似ているのだ。ぼくはこうした自分の感情に混乱してしまった。たとえば、ある家族の父親と子どもが似ているなら、「よくお父さんに似てるねぇ」なんてことになって、そこから和やかな会話がはじまる気がするのだが、家族の大半がほとんど同じ顔となると、とたんに違和感でいっぱいになってしまったのだ。このどうしようもない違和感はなんなのだろう。例えば、人間のなかには近親婚を自然と避けるように仕向ける感情があるのだと言っても、まだ十分には答えていない気がする。今度、学生に聞いてみよう。

# by enzian | 2020-05-11 22:21
継続的な微調整の営みと、その困難さ。_b0037269_10432598.jpg
歳をとるごとに紫が好きになってきた。いつか聖人(せいじん)になってしまうのだろうか。

知っている人しか知らないと思うけど、おせっかいなのである。たしかに8年前までは人のためになろうと生きてきた。5年前まではできるだけ人に迷惑をかけないで生きていきたいと思っていた。だが4年ほど前からは、人に迷惑をかけずに生きることはできない、人に迷惑をかけながら生きていくしかないと覚るようになった。このように身の程を覚りはじめたといっても、覚りなんぞ一気に成就できるものでもないだろう。その後の行動が継続的に微調整されることではじめて、その瞬間的な自覚は遡及的に覚りと呼ばれるようになるのだ。個人的には瞬間的な自覚よりも、こうした継続的な微調整の営みに、そしてその困難さにこそ惹かれる。偉そうなことを申しました。話がずれました。そういうわけで、おせっかいの傾向はいまも根絶できない。昨日も、よせばいいのに学生によけいなメールを送ってしまった(繰り返しますが、ここで書いていることがアクチュアルだとは考えないでください)。

愚かな行いを防止する策を講じていないわけではない。「おせっかい防止マニュアル―他人の主体性や自由を阻害しないために―」は頭のなかにはあって、それを格率(自分のルール)として、それを参照しながら行動するようにはしている。その第一条には「(広く他者に影響を及ぼす判断の場合は)尊敬する人たちであればこのような場合にどう判断したかを想定して判断せよ」というのがある。第二条は「(特定の人に影響を及ぼす判断の場合は)その結果としてその人に危害を及ぼすものは避けるよう判断せよ」、第三条は「その判断の結果として判断者(つまり自分)が危害を被るとしても決して後悔しないと意志できる判断のみをなせ」‥‥が続いている。

こう書くと、カントの道徳のように立派なことを書いているようにみえるかもしれないけど、第一条の尊敬する人の最上位にどっかと坐(ましま)すのは、わがおばあちゃんなのだ。ぼくは遠い昔の家族との経験を礎にして生きている。おせっかいで迷惑だった人たちの系統に属している。このブログ自体がその証左なのだ。

# by enzian | 2020-05-09 10:51

遠隔授業で感じること

同時双方向的な遠隔授業でわかってきたことがいくつかある。二つあげてみよう。ひとつは、思っていた以上に人は相手の顔を見て、相手の顔を頼りに判断しているということ。そしてその "顔依存度" が学生によっていろいろだということ。学生のなかには自分の顔を出すのを嫌がる人がいて、アイコンで顔出しして質問をしてもいいと言ってあるのだけど、アイコン顔で質問をすると質問を受ける側の学生がとまどうことがわかってきた。人によっては大混乱に陥る。相手の顔が見えないものだから、どういうつもりで質問をしているのか、あるいは、この返答で納得しているのか‥‥そういうことがからきし読めなくて、対面のとき以上に神経を使うし、授業自体が長くなってしまう。レヴィナスという強制収容所経験をくぐった哲学者は、人の「顔」の意味を重視していて、相手に顔さえなければ人はなんでもできてしまうというようなことを言っている。ぼくはこの顔の哲学というか倫理学の意味をながく読み取れなかったのだが、こんなわけで顔について考える機会が少しできた。

もうひとつは、こういう授業のプレゼンテーションでは参加者の質問が重なりがちだから、発表する者には相当の工夫が必要になるということ。ある場面では抑えたり、ある場面では引き出したり、途中で経過をまとめたり、目標地点を再確認したり。そうやって(ときには顔さえ見えない相手に対しても)、耳を凝らし、想像力をフル稼働して、細やかに配慮したうえで全体を力で統制して先に進めるリーダーシップがいつも以上に必要になるのだ。逆に言えば、これがうまくできないと同時双方向的な遠隔授業でのプレゼンテーションは残酷な現実となる。教室での対面でのプレゼンテーションよりもリーダーシップが必要になるのであれば、この種の授業は普段以上にリーダーシップを養う機会になるのかもしれないが、しんどいと感じる学生もいるだろう。

# by enzian | 2020-05-04 12:15

新しい価値を生み出す。

自分が外の世界にまざまざと影響を与えているという効力感を得たいというのは自然なことだろうから、この時期に得体の知れない「疲れ」が生じることは無理もない。とくに青年とか壮年とか言われる人なら、文字のなかにもそういう意味が含まれているのだろうし、そうなのだろうと思う。だけど一方で、この時期であってもできることは星の数ほどある。研究者であれば、この時期にデータやドキュメントの整理分析をしたり、新しく論文を書くこともできる。これまで読まなかった文献に手をつけることもできる。学生も同じこと。大学図書館は郵送サービス(なんとすばらしい!)をはじめていて本は読み放題だし、この時期に資格の勉強をしたりもできるだろう。いつか振り返って、あのコロナ混乱期に新しく身につけたことがいまの自分に役立っている、と言えればいいのだけど。
# by enzian | 2020-05-03 11:30
オンラインの授業など考えたくもなかったのだが、必要に迫られてやってみるとそれなりに使えることもあるもので、つまらなさの波間に浮かんでチラチラ見える双方向的なオンライン授業のおもしろみをわかってもらえれば、とあれこれ考えている。そしてこういうことをやる場合にはどうしても「まぁまぁ細かいことは抜きにして、一杯飲ろうか」的になってしまう。Line授業からはじまりTeams授業。Zoom飲み会からはじまりTeams新歓コンパ座談会。Teamsは大学からのOfficeを使っているのだけど、学生指導の一環なので在宅の指導教員は一杯飲みながらも可とする。前に進むには弛緩も必要なのだ(冗談ですよ)。
# by enzian | 2020-04-29 12:11

恥ずかしい

学生であれば誰とでも付き合うが、もうけっこうな大人が相手なら、自分の好みを最大限尊重してなるべく好きな人とだけ付き合いたい。そうではありませんか。では自分が好きな人とはどういう人かと聞かれても答えたくない。答えらしきものはあるけど、こんなところで書けるものか。でもこういう書き方ならバレないのでいいかもしれない。長いこと、なにを「美しい」と感じるかが一致すればいいのに...と思ってきたが、最近は、それは二の次だとわかりはじめた。むしろ個人的に決定的だと思うのは、なにを「恥ずかしい(みっともない)」と感じるか、がそれなりに一致する人。瞬間的で場所を選ばない美感よりも恥の感覚の方が、誰かと時間と空間を共有する生活感に傾いている。
# by enzian | 2020-04-25 17:11

「すばらしい世界旅行」

久米明さんが亡くなった。「すばらしい世界旅行」のナレーションが忘れられない。飛行機というものに乗って、海というところを越えていけば、この山里とはまったく違う世界があるのだと教えてくれた。フランスってなんだろう?ヤノマミって誰だろう?久米さんはナレーションだけではなく、その風貌も、なぜか大好きだった。けっきょく自分は世界を駆け回るような人間にはならなかったが。このごろ学生をみていて言いたいこと。外の世界に対して効果的なことをできないでいることの疲れを軽くみない方がいい。目に見えないものに緊張していることへの不安を軽視しない方がいい。気づかないかもしれないけど、なにもしなくてもなにもみなくても、いやそうであるがゆえに疲れている。疲れている自分を認めた方がいい。
# by enzian | 2020-04-25 16:26

直観的

本質を突くような言葉をぽっと言うひとがいる。この一言があれば、もう誰もなにも付け加えることができなくなるような。ぼくはこういうことを言うひとに何人か出会っていて、よくよく考えてみると二つのタイプがあるように感じる。ひとつは、考えられないような速さで選択肢全数の計算をする人で、ひとよりも早く出た計算結果をふともらしてしまうようなひと。まだ知らない計算結果だから周りははっとする。もうひとつは、計算をしているようには見えないのだけど、物事の核心を突いた決定的な一言を一直線に言うひと。前者は秀才ということになるのだろうけど、後者については、どうやってそういう言葉が出てきたのかわからない。よくわからないので拙い形容詞で直観的としか表現できない。だけど、これは直観的ではあるけど感情的というのとは違う。このところを誰かが伝えればよかったのにと思う。ぼくは自分では結論を導き出せないとき、ここぞというところでこの直観的な言葉を頼りにしていた。
# by enzian | 2020-03-24 20:46

不条理な世界からの脱出

朝から卒業論文の優秀賞をつくっている。印刷して印鑑を押して、副賞を買ってくる。その副賞も学科の教員たちのポケットマネーで購入されるという、なんともお人好したちが寄って集ってつくっている手作り感満載の賞なのだ。今年度も2人が優秀賞に選ばれていて(誰もみていないのでここで言っても大丈夫だろう)、歴代の受賞者は23名になった。そしてその優秀賞者のなかにわがゼミ生は過去2名しかいないことに気づき、朝からいやな汗が出た。

ゼミによってはここ4年連続で受賞者を出しているところがあるから、自分のゼミ生が極端に少ないのだ。過去の自分のゼミ生が優秀でなかったなんてことはないから、明らかに「指導者が悪い」のである。もとはといえばこの賞をつくるべきだと吠えたのは自分で、毎年、賞状を手作りしているのも自分なのだが、できあがった賞を渡す先は他のゼミ生なのである。こんな不条理があってたまるものか。この不条理な世界から脱出するためにはなにか策を講じる必要がある。どうするか。

# by enzian | 2020-03-08 16:49

昨今

むずかしい状況になってしまった。こんななかでなにができるのかと考えている。論文を書いたり、データを整理したりする仕事は、ありがたいことに大学に行かなくても自宅ですることができるから、そういう意味では不自由はない。だけど、今月末から学生を相手にできるかとか考えると不安になる。もし新型コロナが、会話で飛沫が短時間空気中に浮遊してそれを取り込むことでも感染する、しかもその死亡率も無視できるわけではない...となってしまうと、インターネットも動画配信もある時代だといっても、もともと人は相手と自分の身体とのリアルな距離を測りながら発話することを中心にして意志のやりとりをしているのだから、こういうコミュニケーションを根こそぎ封じられるのはかなり痛い。このウイルスは人の非常に大切な部分を直撃しかねないのだ。それは人を必要以上に不安にさせるのではないか。だから話しを戻すと、この不安をなんとかする方法はないかとあれこれ試行している。

# by enzian | 2020-03-07 17:08

バレエ公演

役を演ずるというのが嫌いなのである。無責任なことを言っているのはわかっているが、昔から「役」というのを敬遠しているのは、自分のなかでは、「役」には「演じる」ことがセットになっているからなのだ。そういうわけでテレビのドラマは苦手で、観ればおもしろいことは薄々わかっているのだが、よほどのことがない限り観ようとしない。「役者」という言葉さえ嫌いで、お好みの番組があっても、役者や俳優が案内役やらナレーションをしているのがわかると、それだけで半分は観る/聴く気を失う。この症状は中高生の頃には深刻で、あの頃の自分を後ろ手に縛って生の舞台を見せるように固定しておけば、10分も経たずに失神していただろう。

演じることが苦手なのは自分でもよくわかっていて、演じること=事実でない所作をしていること=ウソをついていること、という思い込みがあって、矯正できないからだ。なぜ別のものを演じるのか?そうではなくてそれ自体に成れ、それ自身で在れ、ということになってしまうやっかいな性質は、もうこの歳では変えようがない。しかしその割には昔からバレエが好きで、ローザンヌコンクールの放送などは毎年欠かさず観て、勝手に採点して喜んでいる。昨年はバレエに詳しい人を知ったことがきっかけになったのか、ついに新国立劇場のバレエ公演を観に行ってしまった。そしてあまりの感動に鳥肌が立ったのだった。新型コロナが収まったら、また、のこのこ観にでかけるのだ。

# by enzian | 2020-03-02 23:45
行った者が帰ってこない。_b0037269_22073639.jpg
行きたかった舞鶴引揚記念館に行った。この寒い時期、新型コロナ禍の最中に自分以外に行く人はいないのではないかと思っていたら、若い女性が2人、熱心に展示物を見ていて驚いた。あんまり驚いたものだから、どんな人なのかとその瞳をのぞき込んでしまって、やや引かれてしまった。それからはなるべく近寄らないように、適度な間隔をとりながら展示物を見るよう細心の注意を払った。

行きたかった理由はよくわからない。岸壁の母のことは聞いたことがあったからその実際を知りたかったというのはあるが、それより、行った者が帰ってこないというのが解せない自分の性質が関係しているのだろう。行ったら帰ってくるのが当たり前。行ったっきり、ついぞ帰ってこ(られ)ないなんて、どこかに不条理の思いを起こさないではすまないのではないか。先日も、何日もかけて遠い海に餌を採りに行っているペンギンの親と、ただ親を帰りを待つ雛の映像をみて、締めつけられる思いがした。
# by enzian | 2020-03-01 22:17

私の好きな生き物たち。

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例年この時期にはたくさんチョコレートをいただきます。ありがたいことです。ですが本当のことをいうと、いただく量が量ですから、食傷気味でしばらくチョコレートは見たくないくらいなのです‥‥というようなことはもちろんまったくないので、自分で買ってきたチョコレートです。

わたくしがこよなく愛する明治のミルクチョコレートなのですが、いろんな動物が登場する新しいパッケージのものです。50種類のデザインがあるようです。よくよく考えると、去年の今頃も変わったパッケージのものが売っていたような気がしますので、この時期だけちょっと凝ったパッケージにするのでしょうね。このパッケージで年中売ればよいのに‥‥と思うのですが、そういうわけにもいかないのでしょう。

年中は無理でもこの時期だけでも、わたくしがこよなく愛してきたカワウソのパッケージは使ってもらいたいものです(もうあるのかしらん?)。いや、カワウソはブレイクしてしまってかわいそうな感じになっているので、現時点でわたくし一推しの五月山動物園のウォンバットとか、琵琶湖博物館のビワコオオナマズでつくってもらえないかと考えているのです。オオナマズ氏のデザインなんて、お膝元の滋賀県では飛ぶように売れると思うのですが。そんなことないですか?そうですか。

# by enzian | 2020-02-10 19:51

うなずきさんを見ながら

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一般の方も講演に参加できるような学会があって、それらしき人たちが近くに座りました。講演がはじまると彼女らはコクコクうなずきはじめます。かなりむずかしい話し(ぼくもよく理解できなかった)なので、なにをうなずいているのだろうと見ていました。わかりました。うなずきさんたちは文章と文章の繋がりの論理でうなずいでいるのではなく、知っている単語が出てくるとうなずいているのです。論文にしても講演にしても単語ではなく、単語と単語の関係、文と文のつながり方が問われるものですから、単語だけじゃ困るんだけど‥‥と思ったのですが、それでも単語がわからなければはじまらない。だから、ぞれぞれに感情移入ができるような、どういったらよいのでしょうか “開かれた単語” のようなものをあえて挟んでいくというのも、時と場合によっては大切なことなのかもしれません。学者はえてしてこういう操作を嫌がるのですが。
# by enzian | 2020-02-08 23:02

気づかないのは罪か?

「学生と話すときは顔だけを見て、それ以外のところは見ないように」。そう指導されてきたものですから、なるべくそうするようにします。なので、学生がどんな服装でいたかはまず覚えていません。目ばかりを見るので、髪を切っても気づきません。女子学生が化粧を変えても気づきません。見たところでなにもわかりはしないしそれでよいと思っているのですが、あるとき、ふと個研から出て行く学生の後ろ姿を見たときに、はっとしました。そうか、それを見せに来ていたのか‥‥気づかないのは罪なのでしょうか。あの後ろ姿を思い出すと、あぁと思います。
# by enzian | 2020-02-07 23:31

観音レンズ

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レンズを買いました。キヤノンのEF50mm F1.8 STMというもの。キヤノンのなかでは最も安いぐらいのレンズなのですが、「神のレンズ」(キヤノンだから「観音のレンズ」の方がいいのでしょうが)だと評判なのです。デジタルの一眼レフカメラを使いはじめたときには一つ前の型のEF50mm F1.8 IIを使っていて、いちばん最初に撮って出てきた写真を見て、その質感と光にぶったまげたのでした。新しい世界に足を踏み入れてしまったと思ったのです。さらにこの新型は旧型にあった弱点もほとんど克服しているようです。この時期はあれこれあって無理なのですが、早くこれを持ってどこか行きたくてたまらん状態なのです。レンズのよさというのは出不精をどこかに連れて出してくれて、なにかに引き会わせてくれることではないかと思ったのですが、こういうのは人でも犬でも車でもお気に入りのものであれば同じことなのでしょう。そういえば旧型を買ったのも真冬で、最初に撮ったのは冬枯れの植物だったような気がします。
# by enzian | 2020-01-18 10:34