身の周り半径5メートルほどにある、なにげない日常をささやかに見つめ直します。


by enzian
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戻れない故郷

「親友と親土地」という記事で書いたことに訂正を加えておきます。

>このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てくれるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあるということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。

ここの部分。この文章は全体として、いつでも会おうと思えば会える親しいひとがいることや、いつでも戻ろうと思えば戻れる親しんだ土地があることが、この先を生きる支えになってくれるのではないかということを書いているのだけど、この部分をみると、ただ親しんだひとがどこかにいればいい、親しんだ土地がどこかにあればいい、という感じになっている。なのでつぎのように訂正します。

>このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てその気になればいつでも会えるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあってその気になればいつでも行ける(戻れる)ということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。

ぼくはこういう意味でも東北の震災は未曾有の災害だと思っていて、人為的な理由で突然、自宅や住み慣れた土地に戻れなくなったひとの気持ちはいかばかりかと思う。故郷は戻れるからこそ故郷なのだ。もちろん時間の経過によって自然とその土地がなくなり、家がなくなってしまうということはある。そのときひとはそれなりの時間をかけて故郷や家を理念にしていき、いつでも心のなかで戻れるようにしていくのだろう。

# by enzian | 2018-08-10 09:23

墓参りの気配

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ときどき "墓参りの気配" のあるひとに会う。「墓参りの気配」というのは 「墓参りをしそうなひと」いう意味のぼくの造語。造ってはいるものの、どういう場合に使っているのかよくわかっていないので改めて考えてみる。

それはお坊さんのことでしょう?と言われるかもしれないが、ちがう。職業とは関係なしに、誰か自分以外のひとがいなければいまの自分はないことに気づいているひと。そして墓参りに行く・行ってきた、ということを素直に他人に伝えられるひと。会話のなかに自分を生み出してくれた他者がうっすらみえて、墓参りが公然の文化になっているひと、ということになるだろうか。こういうある意味で謙虚で純朴なひとに墓参りの気配を感じているように思う。先日、ゼミのラインで学生が「これから墓掃除に行ってきますー」みたいなことを言っていて、あっと思った。

# by enzian | 2018-08-10 08:39

黙祷

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この時期になると広島か長崎に行きたくなる。昨年、この時期に長崎に行ったときのこと。バスから市街をみていたら、歩いていた若い女性が立ち止まり、しばらく手を合わせたまま立っていた。あれ?と一瞬思ったが、時計をみたら長崎への原爆投下の時間であった。長崎にいるのだとそのとき感じた。
# by enzian | 2018-08-06 10:36

パッシングショット

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先日、定期的に開催される会議に出ていたときのことです。会議なんか総じて楽しいものではありませんから、いつもはグレーな気分で、この会議が少しでも早く終わるためにいま自分ができることはなにか?みなを早く自宅に帰すためにいま自分が世界から求められている義務とはなにか?といった "碌でもない義務" についてしか考えていないのですが、その日ばかりはなぜかとてもさわかやかな気分なのです。とってもすっきりしている。

特別な昼ご飯を食べたわけでもなく、学生と楽しく話したというわけでもなく、はてなにがあったのかなと記憶の糸をたどっていくと、心当たることがありました。午前中、暑いのにやめておけばよいものを、個研の前に置いていた段ボール箱の整理をしていたのでした。40度近いなかそんなことをするものですから、滝のような汗でした。久しぶりに、ポタポタと落ちていく自分の汗をみたのでした。そういえば高校時代、ポタポタ落ちる滝のような汗を一汗かいたあとのプレーはすがすがしかった。いつでもどこにでもパッシングショットを打てるような気がしたものです。

# by enzian | 2018-07-22 22:59

親友と親土地

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地震に大雨が続いて、なにかと落ち着かない。大阪北部地震は、あの揺れと、揺れにともなって生じる低音にやられた。ほかのひとがどうかは知らないけど、地震にしても、音楽にしても、花火にしても、あの地面から体を揺さぶってくるような細かな振動と重低音に当てられると、不安なような、高揚するような、えもいわれぬような気持ちがしばらく続く。いつだったか、内臓を揺らすことは一種の快感につながっているというようなことを読んだような。

地震があってすぐに、大学時代の友人から安否を問う連絡があった。もう10年以上も会っていないが、ここぞというときには躊躇なく連絡がくる。さすがはやつだと感心しているうちに、えもいわれぬ気持ちも徐々におさまっていった。以前、ここでも書いたことがあるが、ふだん会うことがなくても、ここぞというときには必ず繋がることができるはずだと確信できるひとがいることの幸せを改めて感じたわけである。

このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てくれるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあるということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。どうやって支えてくれるのかはわからない。わからないがそう確信しているものだから、学生には、いろんなところに旅に行った方がいい、いろんなところで学んだ方がいいと無責任に言い散らかしている。
# by enzian | 2018-07-16 22:01

帷子(かたびら)

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明日は祇園祭らしい。どうりで浴衣を着た人が多いと思った。オープンキャンパスの学生スタッフも浴衣を着ていた。浴衣の語源が湯帷子(ゆかたびら)」だというのは先日知った。「帷子」と言えば、京都人にとっては「帷子ノ辻」ではないか。今年も嵐電は妖怪列車を走らせるのだろうか。ときどき、西院の踏切の古い警報機の音が聞きたくなって、嵐電に乗りたくなる。そして日差しを遮るもののない路面電車の細長い駅の上でじりじり焼かれたくなる。
# by enzian | 2018-07-16 11:36

眼は大事

1年前から眼の調子がおもわしくない。どうもだめで病院に行ったらまた網膜剥離ということで、着々と手術に向かっているようで、ようやくゴールデンなウィークにたどりついたというのにテンションは下がりっぱなしなのである。手帳があっても、手帳に書いてある自分の字がみえなくて会議の場所がわからない。スマホのナビがあっても、ナビがみえないのでどっちに向かったらよいかわからない。じつにおもしろくない。みなさんも、視界に蚊が飛ぶような飛蚊症(老化によるものもありますが)が急に出たり、眼に光が入るようなことがあったら、躊躇せずに病院に行ってください。しばらく、ネットを最低限のものに制限しますので、ここも書かなくなると思います。いつも書いてないけどね。では、また~。

追記:手術はとりあえず免れました。( ̄。 ̄;)

# by enzian | 2018-04-28 22:35

わくわく感

新幹線をつくった国鉄総裁、十河信二の物語を観た。技師の秀雄については少し知っていたが、十河についてはほとんど知らなかった。常識では考えられないことを実現した十河の豪傑ぶりがよく言われるが、それよりも印象に残ったのは予測力と、多方面への繊細な配慮だった。番組では新幹線の経済効果のことが言われていて、十河もそれを言っていた。新幹線がなければ、高度経済成長もなかったのだろう。経済のことは詳しくはわからないけど、いくつになっても、新幹線に乗るとなるだけで楽しいことが起こるんじゃないかという期待に胸が躍る。田舎者だからなのかもしれないけど、それは何度乗っても変わらない。通勤電車のように淡々と新幹線に乗る人も多いだろうが、仮にぼくのような "新幹線わくわく人間" が十人に一人いるとすれば、いったいどれほどの数の人にわくわく感を与えていることになるのか。わくわく感を待っている人と、わくわく感を与える人とではまったく別の人類だという印象をもつ。
# by enzian | 2018-04-16 06:20

他者を造る。

夕べはあれやこれやにわずかに一息ついて、ハードディスクにたまった番組を観ていた。慶派(運慶とか快慶とかのあれです)を継いでいる仏師の番組があっておもしろかった(以前、観たような、観なかったような)。その仏師はかつて自分が造った仏像にときどき会いに行って、熱心に手を合わせて見つめていた。自分が造り上げたものに手を合わせ頭を垂れるというのはどういう気持ちなのだろう。手塩にかけて自分が造り出したもの。それはほかの誰でもない自分のものなのだけど、それがあるとき自分をこえて他者となっていく。ここまではよくありそうな感じなのだけど、この仏像は親とも友だちとも先生とも似ていなくて、身の回りのどの人間よりももっと別の他者なのだ。そしてもっと複雑なことに、この別の他者はなぜか自分に近寄ってもくる。わかりにくい文章でまことに申し訳ないこってす。
# by enzian | 2018-04-14 10:53

執念なのだ。

どんな小さなものでも、ゼロから作り上げていくには執念が必要だということを忘れていた。ヘーゲルは偉大なことがなされるにはパッション(ドイツ語のPassion)が必要だと言ったけど、日本語の語感では「パッション」では弱い。ぼくの個人的な語感では、パッションなんぞ、リゾート地のプールサイドで飲むトロピカルドリンクの印象なのだ(パッションフルーツと間違えているらしい)。ともかく、ぼくは「執念」と言いたい。小さな論文でもそうだけど、ゼロから組み上げていくためには執念がいる。だけど、できあがった論文自体はすっきりきれいに整理されているから(当たり前だ、ごてごてしていたら論文として人前に出せない)、その執念はほとんどみえなくなってしまっている。執念を注げば注ぐほど、それはすっきりきれいに、なだらかになっていくのだ。この矛盾に耐えられない者はなにもつくれない。そして思うのは、こういう執念を継続するには、ときどき「腹の底から笑う」ようなことが欲しいということ。執念に満ちているからこそ、仕事には笑いが欲しい。
# by enzian | 2018-03-25 09:40

鬼ごっこ

鬼ごっこって不条理な遊びだと思いませんでしたか。あきるほど繰り返してやりましたが、「子」になるといつも決して捕まらないところまで逃げて、怖い「鬼」は「鬼」のままなのでした。子どもが鬼に喰われては困るわけですからこんなことになるのでしょうが、幼心に公平でないこのゲームになんの意味があるのだろうと思っていました。けっきょくのところこういうのは逃げる方が有利で、首尾良く捕まえるためには、「子」の隠れそうな場所をその「子」の性質をよく知ったうえで鋭く推測するとか、追いかけるための俊足をもつとか、「鬼」には「子」をはるかに越えた努力とか能力が必要になる、なければ必ず負ける、という教訓を教えるゲームだったのでしょうか。よくわかりませんが、辺りが暗くなって、もう夕ご飯の時間で家に帰れないといけないころになっても、「鬼」は決して見つからないでおこうとして隠れるぼくを無駄に探すのでした。

いまでも、ことあるごとに「逃げる」ひとをみていると、この不条理さを思い出します。あの夕刻からすれば、ぼくもまたあれから多くの経験を重ねて、それなりの推測能力やら、俊足ではありませんが、あきらめずに追い続ける持久力なんかを身につけたように思うのですが、やはりこういうのは逃げる者が優位です。考えうるあらゆる手段を講じて、四方八方を塞いで隙間に目張りをしても、そんなやりかたがよくないというので逆に束縛とか条件とかを取っ払ってみたりしてみても、逃げる必要などそもそもないのだと説得しても‥‥ターゲットは逃げおおすことができる。捕まえることができるのは、相手が逃げることを止めたときだけなのです。こちらに主導権はない。

それにしても思うことがあります。幼いころ、こんな不条理な遊びだとわかっていて、なぜあきるほど繰り返したのか、と。鬼ごっこにあるのは「スリル」だと思うのですが、スリルとはけっきょく一種の快感なのでしょう。そしてスリルとは不条理感を越えるものなのでしょう。すぐに捕まって、捕まえてしまうようならスリルもなにもない。いまでも、いい歳をした幼なじみが「久しぶりに鬼ごっこでもしようか?」と言えば、喜んで「やる」と答える自信があります。
# by enzian | 2018-03-17 12:11

「手当たり次第」の恐怖

問題をできるだけ細かく分け、分けた部分に順番をつけてひとつひとつ、ひとつの残りもなかったと確信できるぐらいに全体に目を通す。ある哲学者は、こういうのは当たり前のことのように思えて、しっかりできている人は意外に少ないと言っている。自分もできていないだろう。自分はそうだろうけど、自分のことは棚に上げて、これと反対のことをしている人をみるとぞっとする。反対のこととは「手当たり次第」ということ。

手当たり次第な人にとっては問題の本質がなんであるかとか、相手がどういう価値をもっているかということはどうでもよくて、問題が生じる度に、それこそ手当たり次第、順序も相手のなんたるかも考えないで道具として使って解決しようとする。それでまったく解決しなければなにかを考えるきっかけになるのかもしれないが、周囲の善良な人たちが全力で尽力するものだからそこそこ解決してしまう。だが、解決してもなぜ解決したかをわかっていないものだから、新しく問題が起こっても相変わらずどう解決したらよいかわからない。手当たり次第の範囲を広げることでその後の問題に対応していくしかない。傍迷惑な話だが、それで人生を生き切る人もいる。

以前はこういうタイプのある程度の年齢の人をみても我慢したり、おせっかいにも注意しようとしたこともあったが、いまではこういうのは生き方に根づいた性質で外からどうこうできるものでもないと気づいて、「逃げる」のコマンドを選択して(古いなぁ)、早々に逃走するのがよいと思うに至った。
# by enzian | 2018-02-11 22:43

イデアを垣間見ながら

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卒業生と大阪で昼飲みをする。卒業生、大阪、昼飲みと続けばそれ以上なにも必要ないが、やっぱりまだうれしいのでコンデジをもっていく。店はコの字型のカウンター席になっていて、どれを頼んでも激安で、しかも美味しいのだ(ここ大事)。庶民派のグルメだからS級グルメという感じかな。

その卒業生はいつも個人研究室ではぼくの正面にどっかと座るやつで、いつも生意気にも正面切って勝負!となるやつなのだが、カウンターでは互いに同じ方向を向いて、やや遠いところに焦点を当てながら座るせいか、ふだんとはちがう話もできましたな。ねえねえ哲学科の諸君、せんせいは「理念やイデアをみながら飲んでいる」と言いたいのですよ、わかったかな。飲みながらも勉強してるんだよね、すごいね(ふざけるな)。ともかく、すぐに酔っ払ってカメラの存在を忘れてしまったので、写真はほとんど撮らんかった。
# by enzian | 2018-02-06 16:46

コンデジ

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ここ何ヶ月もずっと取り組んできていた書類を昨夜提出して、ぼくはうれしくなって今日は遊びに出たのだった。そしてあまりにもテンションが高くなってしまったせいで、いまさらながらソニーのコンデジを買ってしまったのだった。思えば、海外研修の際に使おうといちばん最初に買ったコンデジがソニー製のもので、大したことはないだろうと高をくくっていたのだが、じっさいにはそれからのぼくの仕事も遊びも変えていったのだった。
# by enzian | 2018-02-02 22:48
facebookというものがありますよね。ぼくも加入(と言うのでしょうか?)しているのですが、ぜんぜんやっておらんのです。久しぶりにみたら、友だちになってくださいみたいなのがきていて、確認しようとしたら消えてしまいました。「ただいま友だち機能に不都合が‥‥」みたいな表示が一瞬出たように思いますが、なんのことやら。それで(なぜかログインしたままになっていたので)ログアウトしてもう一度ログインしようとしたのですが、パスワードを忘れていて、入ることもできません。もうどうしようもないので、このまま放置しておくことにします。すいません。最低のことをしている気がします。こういう問題は、いつか時間が解決してくれるでしょう(するわけないだろ)。
# by enzian | 2018-01-29 21:48

小さなマーク

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プリンターのトナーを買ったら、ベルマークが付いているのに気づいた。しまった、これまでいくつか捨ててしまっていた。小学生のころには、毎月、生徒たちが集めてきたベルマークを回収する機会があったけど、いまはどうなっているのだろう。そのころの一場面なのだけど、どこかのスーパーで、女の子がお母さんにお菓子を「どちらにする?」と聞かれて、「ベルマークがついているからこちらにする」と言ったのを覚えている。なぜかぼくはその場面が忘れられなくて、その女の子はその小さなマークが誰かのためになることを知っていたのだろうか、そして、女の子はどんな大人になっただろうかと、ときどき思い出す。
# by enzian | 2018-01-21 23:46

苦手な問い

1年生の学期終了が見えてきて、「(2年生時に決定する)コースをどう選んだらいいのか」という問い合わせが多くなってくる。ぼくはこの問いが苦手なのだ。なんで苦手かというと、答えの選択肢に自分が入っているからだ。自分が選択肢に入っていない問いであれば、微に入り細に入り、心を込めて説明してもいいが、うまく説明してしまったら自分が選ばれてしまうかもしれない(じっさい選ばれる心配はないのだけど)ような問いには答えたくないからだ。もちろん、この種の問いに正確に答えようとしないのは職務上の義務違反なのでしぶしぶ答えるが、心のこもっていない、マニュアルを読むような説明になっているだろうから、聞いていても楽しくないはずなのだ。この記事も大切なことは書いていないが、15分で書けたのでよしとしよう。
# by enzian | 2018-01-14 21:58

リセットする

今年の冬は寒くてしょうがない。部屋にいるのに指がこごえて動かないではないか。どうしたらいいのか。なになに?わたくしの家だけですか、そうですか。ともかく、去年の夏、とんでもなく暑いなかをあっちふらふらこっちふらふらして熱射病になりかけたことでさえ、すでに忘れかけている。こうやって毎年、冬になれば夏が暑苦しかったことを忘れ、また夏になれば冬が寒すぎたことをリセットして忘れるのだ。そして毎年バカにみたいに「夏が楽しみ~きゃ~」「冬が楽しみ~ふふふ」となる。「リセットする」というとなんとなく台無しにするような感じでよろしくないが、こういうリセットはよい。30分かけて書いたが、たいしたことは言っていない。
# by enzian | 2018-01-13 12:05

年賀

年賀状のやりとりが終わった。父の三回忌も終わった。父は認知や行動にいちじるしい特徴があって理解の範囲を超えた人だった。年末も掃除はせず、年賀状も書こうとしなかった。親類やお世話になっている人たちが毎年毎年、丁寧な年賀状を送ってきても、知らん顔をしていた。それでいつも母が怒っていた。母は字が書けず、年賀状を出したくても出せなかった。ぼくは子ども心に父のような、人の気持ちをわかろうとしない人にはならないでおこうと誓ったが、いまから思えば、知らん顔をしていたのではなくて本当にわからなかったのだろう。

そんな父親をみて育った自分も、もうそろそろ年賀状が不要なのではないかと思いはじめた。今年来た年賀状のなかに「今回をもって失礼させていただく」的なものがあって、なるほどと膝をたたいた。ぼくもこの手で年賀状のやりとりを減らしていこうと思うが、生きている限り絶対に出さねばならない人はいる。

挨拶が遅れましたが、今年もよろしくお願いいたします。
# by enzian | 2018-01-07 12:20
授業では質問をするように言うけど、どうしたらうまく質問できるのかを説明したことはない。「相手が明確にできていないことを相手に気づかせてあげるような質問がいい質問だよ」なんて、質問の際の心構えは言っても、そういう質問はどうすればできるのかを説明しない。説明しないのはうまく説明できないからだ。ぼく自身は質問することを苦にしないタイプなのだけど、どうやって質問をひねり出しているか、自分でもしっかり考えたことがない。自信はないけど、もうすぐ新年なので考えてみよう。あえて言えば、もっとも簡単な質問にはいくつか型があるような気がする。

①使われている言葉のなかで特に大切に思える言葉の広がりをじっとみつめて、広がりに不自然な部分や不明な部分があれば、その不自然さや不明さを確認すればいい。なんのことはない、その人が使っている言葉の意味の質問である。

②そういう言葉が二つ三つありそうな場合には、それぞれの言葉の広がりをみて、どう重なっているかをみる。その重なりに不自然な部分や不明な部分があれば、やはりそれを確認すればいい。

③そういう言葉が原因(根拠)と結果(帰結)の関係になっていれば、そのつながりに無理がないかをみてみればいい。

④可能なら、①②③の不自然さ、不明さ、無理をどうすればすっきり整理できるかを考えて、それを自分からの案として「○○(すっきり案)ということでしょうか?」と聞いてあげれば、①②③の質問を一歩進めた高度な質問になる。

ぼくはこういう言葉と言葉の関係を、○や□、→や=を使って頭の中に図式化して、質問するときには「その頭のなかの図式をみながら、その図式に頭のなかで指を指しながら」質問しているような気がする。
# by enzian | 2017-12-31 22:50

一年

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そうこうしているうちに一年が終わってしまう。この一年はどういう一年だったのだろうか。印象に残っているのは待ったこと。待ち疲れたことが印象に残っている。昨年に続き、人と別れた年でもあった。出会った人としか別れはないわけだから、出会ったことがまったくの無駄でなかったらいいのだけど。

よいこともあった。仏像鑑賞がはっきり趣味と言えるものになったこと。昔からよくわからないままに、ああ修行者になりたい、求道者になりたい‥‥的な感じで寺を訪れて仏像をみていたけど、仏像や寺を一種の美としても感じようとするようになった。ぼくは美にうといから、こういう部分を自分のなかにもてるのはうれしい。それとありがたいことに寺は全国の津々浦々にあるから、いろんな地域に足を運ぶことにもなって、いろんな人や文化に触れることができて、ご機嫌なのだ。ほかにもよかったことをひとつあげれば、大学院の授業で専攻のちがう院生のあつまるゼミ(演習)を担当できたこと。これは楽しかった。異なった専攻の院生と話したりすることはあまりないから、大きな刺激になった。来年も、誰かに会えれば。人と出会うこと以上に楽しいことなんてないから。
# by enzian | 2017-12-29 22:14

調和

この一週間で心を動かされたのは弦の音。顧問をしているアンサンブルの演奏会に行ったのだ。というようなことを言うと、立派な顧問のように聞こえるが、ふだんなにもやっていないので、その罪滅ぼしのために、自分自身の居心地の悪さをやわらげるために行っただけのこと。はじめて足を踏み入れた会場には学生の家族やら、近隣の方も来ておられた。大きな着信音が鳴り響いて、おばさんが誰かにすじ肉の煮込みについて大声で指示しはじめる。開演の20秒前になっても終わらないので、笑えるやら、ひやひやしたりやらしたが、それはそれ、はかったように携帯は切れたのであった。熱心に動画撮影のセットをして演奏を聴きはじめた‥‥と思ったおじいさんは、開始5分ほどで寝入ってしまった。きっとその動画を家で観るんだよね、ちがう?自分が知らない別の世界があって、そこにはそれぞれの調和があるのだろう。
# by enzian | 2017-12-10 11:05

ほだ木

この一週間でいちばんびっくりしたのは、椎茸栽培のほだ木をもらったこと。彼はいつもとつぜん現れてぼくの度肝を抜くが、今回もやってくれた。何時間も電車に乗って、長さ1メートル、重さも10キロ近くはあるかという立派なほだ木をもってきてくれたのだ。キノコ愛好家のぼくでも、近鉄や京都地下鉄で椎茸のほだ木を運んでいるひとはみたことがない。驚いたぼくに、彼は「先生が喜ばれるだろうと思ったので」と、こともなげに答えたのだった。

今後、研究室の前の廊下をほだ木をもって歩くぼくの雄姿を、しばしば学生たちは目にすることであろう(ときどき水やりをするのですな)。決して、思想的に偏ったひとでヘルメットをかぶって角棒をもって授業を阻止しようとしている(哲学科の先生で昔、そういうことをしていたひとがいるけどね)とかいうことではないので、怪しまないでね。大切に育てます。
# by enzian | 2017-12-06 22:56

人は変わるのか?

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取材の必要があって、卒業生の職場に行った。卒業生が大学に来ることはいつものことだけど、自分が卒業生の職場に行くというのはあまりない。ゼミにいたころはあらゆる人間に対して尖っていたのが、いまは生徒におもてなしの作法を教えている。対談もしたが、一番大切であろうことは取材陣の前では話せなくて、2メートル離れながら大切なことの周りをくるくる回るような、煮え切らないというか、出汁のきいていないおでんのような対談になってしまった。取材をしてくれた人には申し訳ないことだった。だが、話せなかったといっても、話せなかったことをやつとぼくが知っていることは、やつもぼくも知っている。

このところ考えていることがある。雑な言い方をすれば、人は変わるのかどうかということ。いや、このごろではなく、物心ついたときからずっと考えてきたことなのかもしれない。
# by enzian | 2017-11-25 10:29
気づいたら、文芸関係の授業に出ていた(自分が教えていた、とは決して言わない)学生が「日本ファンタージノベル大賞」をとっていた(http://www.shinchosha.co.jp/prizes/fantasy/)。すごいな、一発でとったんじゃないか。じつはこの男は、前にブログで書いたことがあるけど、ぼくがこれまで出会った学生のなかでもっとも学生時代の自分に似ている、似すぎていると思って驚愕した男なのであった。どうりで、ただ者じゃないと思った。(ーー )ォィ
# by enzian | 2017-11-24 21:53

無題

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次に行くのはいつになるか。
# by enzian | 2017-11-22 22:38

ついで参り

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いつだったか、なにかを終えて空いた午後に墓参りに行きましょうか?と言って、親類から「ついで参りはよくないから」と断られたことがあった。「ついで参り」に決まった意味があるのかどうか知らないが、その人の言い方から、なにかのついでに墓参りに行くことだと理解した。世のなかには順序を超えたものがあって、それを比較対照のなかで順位づけしてはいけない、まして二の次、三の次にしてはいけない、ということだろうか。なにかと忙しいことだから、優先順位を決めて整列整理する方が合理的でスマートであるようにも思えるが、このときの親戚の言葉は身にこたえて、恥ずかしい思いをした。

思えば、毎月墓参りに行っていた祖母はついで参りをしなかった。養子に出して自営業をしていた娘(冒頭の親類)の店に週に何度も乳母車を押して40分かけて行くときも、決してついではしなかった。店にまっすぐ行って豆腐一丁買ってまっすぐ帰ってきた。あるとき、「豆腐なら別のところで買ってくるからもう買いに行くのはやめて、危ないから」と言ったら、「こおめ(子ども)の顔を見に行ってるんや」と言われて、もう二度と止めようとは思わなくなった。
# by enzian | 2017-11-19 18:55

腰を据える

「それはどういうこと?」と問ったら、「腰を据えるということです」と答えた学生がいて、印象に残った。これまでこのタイプの問いには「立場」とか「立ち位置」とか、もっというと「立脚地」という答えを想定していたけど、「腰を据える」というのはイメージしたことがなかった。なるほど、立っているだけでは立ち話しかできないが、腰を置けば膝をつき合わせて話すことができる。「~に立つ」よりも「~に腰を据える」の方が、より他人との関係を志向した社会性の強い言葉なのではないか。ぼく自身、大切なことは膝をつき合わせて話しているような気がする。腰を据えるということの意味を考えてみたいと思った。

高校生ぐらいの若いひとにもときどき、ふだんから言葉の意味を考えて、それをきれいに整理された多層の引き出しに仕舞っており、ここぞというときにタイミングよく取り出してくるような印象を与えるひとがいて、老練な言葉づかいに感心させられることがある。
# by enzian | 2017-11-12 16:51
退学した学生が遊びに来ることがある。彼らは在学時よりも明るくて、元気になっていることが多い(もちろん遊びに来るぐらいだから、そういうことになる)。近況を聞けば、アルバイトがうまくいっていて、結婚を予定している相手もいるという。在学時代はなんら有効打を打てず、こちらとしては完全に敗北した相手である。別人のようになって喜々として話すその人の横顔をみて、ほんとうによかったと心から喜びながら、かすかに口惜しい思いもした。
# by enzian | 2017-11-04 18:22

菱と蓮

生まれてはじめて菱の実を食べた。昔、母が「栗のように美味しい」と言っていて、いつか食べたいと思っていた。泥が沈殿したような池に生えること、鋭い棘(とげ)が生えていることは知っていたから、「そんなものが栗の味のわけがあるまい」と、生意気なことを思っていた。こちらでは食べる習慣がなく、なかなか食べられずにいたが、先日、百貨店の食料品売り場に見つけて、買ってきた。ゆでて食べるらしい。ゆでて皮をむけば、ちょっとピンクいろがかった白い実で、なるほどば栗っぽい。食べてみたら、なんとこれがまぁ美味しいのだ。柔らかくゆだった部分は甘く栗のようで、堅めにゆだった部分はクワイのようだが、クワイのような苦みはない。ややアクがあるが、炊き込みご飯にしたら、栗ご飯との区別がつかなくなった。栗より歯ごたえがある分、美味しい気さえした。これほど美味しいものだとは。

仏教では泥深い池から生えて美しい花を咲かせることから蓮の花が珍重される。夏の朝、水面からぐいと身をもたげて艶やかに咲く蓮の花はたしかに抜群に美しいが、泥水のなかにあって滋味豊かに実る棘だらけの菱の実や、ずっと泥のなかで育つ穴だらけの蓮根が、美しくはないにせよ、より懐かしい。
# by enzian | 2017-10-29 15:59