身の周り半径5メートルほどにある、なにげない日常をささやかに見つめ直します。


by enzian
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サトウキビ畑

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学内で講演や発表をすることはひたすら避けてきたのに、避けきれず発表してしまった。発表してしまえば、どこかにうら悲しい思いが残ることがわかっていたのに引き受けたことをバカだなと思いながら話していた。自分のような者は自分しかいないのかもしれない。近くには余計な感情が入るからいけないのだ。次に発表するなら離島のサトウキビ畑がいいな。
# by enzian | 2019-06-08 11:49

断捨離なんて無理

ときどきハゲる夢をみる。今日も昼寝をしていたら、みた。それはいつも焦りに焦る夢で、「これが夢であったら」などと、親が死んだときの夢のように夢のなかで非現実な夢を思い描いている。今日の夢はかなり念入りで、「いつもこの手の夢をみるから、また夢ではないのかしっかり確かめないと‥‥」と思いながら鏡をみて、「やっぱり現実だ」とため息をついていた。

こういうことをいうと自分はハゲとは無縁の人であるように聞こえるかもしれないが、じつは幼いころから猫っ毛で周囲から薄い薄いといわれてきたし、近年ではリアルにハゲが進行しつつある。そんなわけでハゲることにはとうの昔にあきらめがついており、それなりに耐性がついてきているはずだと思っているのだが、じっさいにはそうではないのだ。こんなか細い老廃物でさえもあきらめられないのだから、すっぱりあきらめるとはいかにむずかしいことか。断捨離なんて無理なことしたらあかんと思う。

# by enzian | 2019-06-01 16:41
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『バビル2世』というアニメがあった。これも昔話。いいアニメだったなぁといまさらながらに思うが、とくに印象に残っている話がある。「永遠の都 凍れるゾロウ」というもの。ゴルダという人物が地下に古代都市(ゾロウ)をみつけたが、そこではなぜか時が止まったように人間も植物もそのままの姿で凍りついている。ゾロウを歩きまわり、ゴルダは門のようなもののところで謎の光線を浴びて、その後、目にもとまらないような速さで動くことができるようになった。そのスピードで主人公を大いに苦しめるのだが、あるときとつぜんゴルダは動けなくなり凍りついてしまう。つまりゴルダがゾロウで浴びた光線は加速光線だったわけだけど、それが物体の動きを加速するのは一定の時間だけで、それを超えると、物体(分子の動きとまでは言っていなかったように思う)は凍結してしまう、という話だった。

当時、小学生だった自分にとってはいつか自分が6年生になって卒業式を迎えるなんて考えられないことだったし、滋賀の墓参りに行くときの道のりは無限に続くように思えた。満員の電車はのろのろ動いて、なかなか駅にたどり着かなかった。身の周りの環境が変わったり、いつかは自分が大人になるなんていうことは想像もできなかった。5年生のときの担任の先生が「自分の生徒で高校に行かなかった生徒はいままでひとりもいない」と言ったとき、ぼくは自分がその最初のひとりになるのではないかと震えた。だが、いまもゾロウの話を覚えているのは、一滴一滴と注がれた水があるときコップからあふれ出すように、長い長い道を歩いて扉を開けたらその先に海が広がっているといったことのように、ものごとが一瞬を境にしてすっかり変わることがあるのではないかということも、どこかで考えていたのかもしれない。

# by enzian | 2019-05-17 18:17

いろんなこと

今日は平成最後の日。あまり元号にこだわるタイプでもないが、平成のあいだにはいろんなことがあったと、大晦日に行く年来る年を観ながら1年について振り返るようなことを思っていた。今日だからということではないが、恩師から電話があり、久しぶりに親友に電話をした。やっぱり今日だったからなのだろう。用件ばかり話したが、二人にはもっと感謝の思いを伝えないといけなかった。
# by enzian | 2019-04-30 22:54

帰宅

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「みんなさみしいとおっしゃるけど、ぼくとしては終わってほっとしているんです」と言われた。歳をとってミスが多くなってきたので、大きな迷惑をかけることがないかとひやひやしていたとも聞いていた。こちらもさびしさを感じていたものだから、ほっとしているという言葉を聞いて驚いた。思えば、さびしいというのは相手になにかを求めることを基本にする考え方で、それに対して、ほっとしているという言葉は、相手がなにを求めているか・相手になにができるかを基本にしている。ここに、いつも無責任な当方と、責任感の強いこの方との違いがあると納得した。

だが、ささやかながらもこうも言っておきたい。ぼくは自分自身がさびしい思いをしていたのと同様に、おこがましいことだが、通い慣れたこの場を去るこの方もさびしい思いをするのではないかと心配してもいたのだ。ぼくは自分自身がさびしい思いをするのがイヤであるのと同じくらいに相手にさびしい思いをさせるのもイヤなのだ。そういう意味で、ほっとしていると言われたときには救われた気もした。ひょっとすると、ほっとしているとは、そこまで計算したうえでの言葉だったのかもしれない。

# by enzian | 2019-03-23 14:16

味重ね

まったく不本意な金を振り込む。この金があれば学生と何度も飲みに行けたのに、なんなら石垣島に行って1泊して帰ってこれたのに‥‥と考えると、久しぶりに煮えくりかえった。が、この責任は甘い顔をした自分にもある、もっと早く学習しておかなかった自分が悪い、となだめる。そんな感じで煮えくりかえっていたが、オープンキャンパスで高校生と話して、少しは水温が下がった。今日こそは、甘言で高校生を釣るかのようなことはやめなければならない(もちろん、もともとそんな気はないのだけど)、夢のような話だけでなくそれなりに苦い話や渋い話も知らせる、なんなら辛い話もしなければならない、でなければ総合的に美味しいとは言えないのではないか(話がずれてきたぞ)という方針で臨んだが、はたしてうまくいったかどうか。高校生との話がうまくいったかどうかはわからないが、お昼の弁当は美味しかった。
# by enzian | 2019-03-21 16:35

いたたまれない

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この歳になるとしかたないことだろうが、この1年、かつて知り合った人たちの死の知らせを何度も受けて、いたたまれない思いになった。「いたたまれない」とは「居た堪まれない」で、事実を目の前にしてそこに居続けることができないという意味だろう。踏みしめているはずの地から足が離れてしまっては、ここでのほほんと文章を書いているどころではないのである。

そのうちのひとりは、お世辞にも恵まれた家に生まれたとは思えない人だったが、大変な努力でトップの成績をとって、しかもそれを鼻にもかけずにいつも謙虚な人だった。この人にはなぜか不可抗力的なトラブルの影がついてまわっていたから、そのことが気にかかっていたのかもしれない。この人の残念な最期を聞いて、ありていにいえば努力は報われないのかと思ってしまったのだ。

ふだんは若い人にあれこれ手を打ってはげますことを生業としている者でもある(はずだ)から、この現実をどう自分のなかで整理したらいいのかわからなくなるのだ。自分のなかで整理できていないことを口に出しても、上滑りの音にしかならない。それでも自分ができることといったら、努力した人に、努力できなくても努力しようとした人に、そのことを誰も知らないわけではありませんよと伝えることなのだろう。

# by enzian | 2019-03-09 11:18

前々から犬にはかなわないと思っていたが、猫にもかなわないとわかりはじめた。そういえば、幼いころ家にいたミーは偉かった。いまでは猫の方がよほど世のなかの役に立つと思っている。
# by enzian | 2019-02-14 23:29

「幸せでした。」

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ここに来るのも久しぶり。書かなくちゃと思っていたのだけど、年末からずっと怒濤のようにいろいろなことがあって、これも書きたい、あれも書かなくちゃいけないと思っているうちに、今日まで書かずにいてしまった。あまりにもたくさんのことがありすぎるとかえって書けないもので、あぁなんか書くことあるのかな~と少し考えるぐらいが、ブログを書くにはちょうどいいのかもしれない。

いっしょに働いてきた方を3月いっぱいで送ることになった。数年前に同じ学科の別のコースの方を送る機会があって、最後の挨拶で話された言葉がずっと心に残っていた。「なにかやっていれば、誰も見ていないようでも、必ず誰かが見ていてくれるんですね」と、もう1つの言葉だった。12月に、3月に送る方の最終講義をして、その懇親会の最後に挨拶に立ったその方は、それらの言葉を口にされたのだった。

# by enzian | 2019-02-11 22:06

上下左右

これだけネットが発達して、他人を自分の意見の側に引き込んで利用しようとする人もおのずと目立ってしまうようになると、いったいなにを信じてよいのかわからなくなってしまう。先日も、ウソを見破って真実を知るにはどうしたらいいか的なものに触れる機会があって、じつはそれ自体がある一定の方向への世論誘導を狙っているようなもので困ってしまった。近くにいる学生には、上下左右いずれの方向であろうといたずらに偏った思想を押しつけるような本や情報を薦めて貴重な時間を浪費をさせないようにしなければならないと自戒しているが、うまくできているか、自信はない。
# by enzian | 2018-12-17 11:29

露見

ブログが流行はじめたのはもう10年も20年も前のことだから、そのころにブログを書きはじめた人たちのほとんどはもうブログをやめてしまっていて、変わらず書き続けている人は自分の周りではほとんどいない。続けているわずかな人も、近況をみてみたら、続けていることに意味があるのかと自問自答しながらぽつぽつと書いているような感じだった。かく言う自分も、このブログをどうしたものかと考えている。書いても、以前ほどの読者はいないしね。たとえば、いまぼくが担当している学生でこのブログを読んでいる者はひとりもいない。これは10年前では考えられなかったことだ。学生たちは自前のより軽いSNSに忙しくて、得体の知れないおっさんのブログになんぞ興味がないのだ。そんなこんなで誰も見ていないだろうと思って好き勝手に書いていたら、意外な人が見ていて、前々回のエントリーがばれてしまった。
# by enzian | 2018-12-02 23:45

考え方次第

「それは考え方(解釈)次第で、どうにでもなるよ」とか「その答えは人それぞれで、考えても仕方ないよ」という台詞は、よくよく考えるとその通りなのだろうが、それを目の前の人に迷いもなく口に出して言える人と、なにかに引っかかって言えない/言わないでおく人とでは、これまで読んできた本の数と、人間としての力に雲泥の差があると思う。どこからか抜け落ちて澱のように積み重なる部分や、目的とする方向が違っても瞬間的に交差し合う部分のようなものがまったくないのであれば、そもそも人と話す必要さえないのだ。よくないことだとわかっているのだが、本を読む習慣のない人とは言葉が通じないのではないかと感じることがときどきある。
# by enzian | 2018-12-01 11:57

A4一枚

以前、入試関係の仕事をしていたときに会った高校生がもう院生になっていて驚いた。大丈夫か?と内心思っていた(申し訳ない)その生徒がいまや院生としてしっかりしたレジュメをつくってきて、もっと驚いた。文献を読んでいることがわかる書き方で、句読点も正確に使いこなしている。「どうやって句読点の打ち方を身につけたの?」と聞けば、あまりこれという覚えがないという。ちまたに溢れかえる動画やイラストをどれほど聴いても見ても、文章は進歩しない。昔ながらに何種類もの活字の文献を読み込んで苦労しながらノートをつくって、やがて自分の日本語をつくり上げたのだろう。A4一枚に素性が現れてしまう怖さを改めて認識した。
# by enzian | 2018-11-12 22:56

しっとりとした秋

ハロウィーンのざわざわが終わったので、ようやく秋を楽しめる季節になった。以前は9月から11月いっぱいが秋だと思っていたが、しっとりとした秋は11月だけになってしまった。というわけで今月は秋を楽しむのだ。人がいないところを探して奈良を歩こう。久しぶりに海龍王寺に行くか。

# by enzian | 2018-11-10 09:44

リンドウの花

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幼い頃、実家には畑があって、畑にはうっそうとした竹藪が迫っていた。竹藪と畑とのあいだには柿の木が生えていて、その根元のところ、隣の家の田んぼとの境の畝にはちょうどこのころになると小さなリンドウが紫の花を咲かせていた。一株しかなかったから、どうかしてなくなってしまわないか、花が咲かなくなることはないかと、祖母の畑仕事を手伝いながら、はらはらしながら何度も何度も見ていた。その後、いつしかその畑も売り払われて、辺り一帯の畑は宅地になった。

あれから何度か方々にリンドウを探しに行ったが、なかなかうまく見つけられなかった。野生のリンドウは栽培ものの背の高いけっこう派手なものとは違って、花が咲くまではなかなか見つけられない地味な植物なのだ。記憶のなかのリンドウは年ごとに薄れてゆくままで、それもいたしかたないと思っていた。

今年は自宅の庭が雑草だらけになっていた。台風が多いやら、蚊が多いやらと言い訳をして夏、秋と放置していたのだ。草刈りが面倒なのでいっそのことコンクリート張りにしようかとぼんやり考えながら窓の外を見ていたら、紫色のものがある。はっとして庭に出たら、野生のリンドウであった。どこからか種が飛んできて、半日陰が好きなリンドウが発芽したのだろう。といっても、リンドウは発芽してから1年は花が咲かないから、これまで草刈りをする度になんとか根は生き残ってこの日を待っていたのだ。しゃがみ込んで、なんとも言えない感謝の気持ちで小さなリンドウを見た。

# by enzian | 2018-10-22 09:10

「金木犀が香りますね」

卒業生向けの広報誌に文章を書いておいたら、方々から読んだと連絡がある。意外と読んでいるものなのだ。髪を切るときに敷くものを探していたら出会ってしまいました、というのもある。窓を開けるとキンモクセイが香っている。漱石は "I Love You" を日本人的には「月が綺麗ですね」ぐらいの訳語になるとしたとかいうのはウソかホントか知らないが、「金木犀が香りますね」はどんな英語の訳語になるだろうか。
# by enzian | 2018-10-06 08:49

エクセル入門

お世話になっている方から想定外の仕事の依頼がある。これはやらねばならない仕事と丸一日を費やして仕上げた。これで納得してもらえないなら仕方ない。他のスケジュールは押したが、集中的にエクセルを使ったおかげで、いまままでエクセルでわからなかったことがいくつか氷解した。長く、エクセルに弱いことが人生の痛点のひとつだったから、昨晩の眠るときの健やかだったことといったら。よくよく考えれば、自分がいまもっている仕事上の技術は、ほとんどすべてこういう苦しい依頼に応える過程で身につけた。こういうことを学生に伝えられればと思うが、一方で、どんな依頼も受けるようなら身を滅ぼす。判断が必要なのだ。あるとき学生に聞かれた。「どのような依頼であれば受ければいいのですか?」ぼくのなかでの答えは明確で、その学生には伝えたが、ここには書かない。自分で納得できる答えを探した方がいいのだ。

# by enzian | 2018-10-01 07:30

かんちがいの機会

この夏は茨城と秋田で話す機会があった。どちらもなじみのない土地だったが、水戸にあれほどはっきりした方言があるとは知らなかった。どこか東北っぽいイントネーションに聞こえた。秋田は予想どおり関西人からすると異次元的な方言(失礼)で、ある程度の年齢以上の方の言葉が聞き取れなくて困った。心残りだったのは、秋田で話し終わった後に、おじいさんが涙ながらに両手をとってなにかを一生懸命伝えようとしてくださったのだが、7割方聞き取れなくて、ただ頷くしかなかったこと。

なにかが琴線に触れたらしく感動しておられたのだが、こちらはそれほど大したことは話していなかったから、なにかの "かんちがい" が生じたのだとしか言いようがない。でも、おじいさん自身が納得していたならそれでよいのかもしれない。かんちがいであろうとなにかの機会になったのなら、なんの機会にもならないよりはよいだろう。

# by enzian | 2018-09-24 12:29

戻れない故郷

「親友と親土地」という記事で書いたことに訂正を加えておきます。

>このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てくれるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあるということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。

ここの部分。この文章は全体として、いつでも会おうと思えば会える親しいひとがいることや、いつでも戻ろうと思えば戻れる親しんだ土地があることが、この先を生きる支えになってくれるのではないかということを書いているのだけど、この部分をみると、ただ親しんだひとがどこかにいればいい、親しんだ土地がどこかにあればいい、という感じになっている。なのでつぎのように訂正します。

>このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てその気になればいつでも会えるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあってその気になればいつでも行ける(戻れる)ということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。

ぼくはこういう意味でも東北の震災は未曾有の災害だと思っていて、人為的な理由で突然、自宅や住み慣れた土地に戻れなくなったひとの気持ちはいかばかりかと思う。故郷は戻れるからこそ故郷なのだ。もちろん時間の経過によって自然とその土地がなくなり、家がなくなってしまうということはある。そのときひとはそれなりの時間をかけて故郷や家を理念にしていき、いつでも心のなかで戻れるようにしていくのだろう。

# by enzian | 2018-08-10 09:23

墓参りの気配

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ときどき "墓参りの気配" のあるひとに会う。「墓参りの気配」というのは 「墓参りをしそうなひと」いう意味のぼくの造語。造ってはいるものの、どういう場合に使っているのかよくわかっていないので改めて考えてみる。

それはお坊さんのことでしょう?と言われるかもしれないが、ちがう。職業とは関係なしに、誰か自分以外のひとがいなければいまの自分はないことに気づいているひと。そして墓参りに行く・行ってきた、ということを素直に他人に伝えられるひと。会話のなかに自分を生み出してくれた他者がうっすらみえて、墓参りが公然の文化になっているひと、ということになるだろうか。こういうある意味で謙虚で純朴なひとに墓参りの気配を感じているように思う。先日、ゼミのラインで学生が「これから墓掃除に行ってきますー」みたいなことを言っていて、あっと思った。

# by enzian | 2018-08-10 08:39

黙祷

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この時期になると広島か長崎に行きたくなる。昨年、この時期に長崎に行ったときのこと。バスから市街をみていたら、歩いていた若い女性が立ち止まり、しばらく手を合わせたまま立っていた。あれ?と一瞬思ったが、時計をみたら長崎への原爆投下の時間であった。長崎にいるのだとそのとき感じた。
# by enzian | 2018-08-06 10:36

パッシングショット

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先日、定期的に開催される会議に出ていたときのことです。会議なんか総じて楽しいものではありませんから、いつもはグレーな気分で、この会議が少しでも早く終わるためにいま自分ができることはなにか?みなを早く自宅に帰すためにいま自分が世界から求められている義務とはなにか?といった "碌でもない義務" についてしか考えていないのですが、その日ばかりはなぜかとてもさわかやかな気分なのです。とってもすっきりしている。

特別な昼ご飯を食べたわけでもなく、学生と楽しく話したというわけでもなく、はてなにがあったのかなと記憶の糸をたどっていくと、心当たることがありました。午前中、暑いのにやめておけばよいものを、個研の前に置いていた段ボール箱の整理をしていたのでした。40度近いなかそんなことをするものですから、滝のような汗でした。久しぶりに、ポタポタと落ちていく自分の汗をみたのでした。そういえば高校時代、ポタポタ落ちる滝のような汗を一汗かいたあとのプレーはすがすがしかった。いつでもどこにでもパッシングショットを打てるような気がしたものです。

# by enzian | 2018-07-22 22:59

親友と親土地

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地震に大雨が続いて、なにかと落ち着かない。大阪北部地震は、あの揺れと、揺れにともなって生じる低音にやられた。ほかのひとがどうかは知らないけど、地震にしても、音楽にしても、花火にしても、あの地面から体を揺さぶってくるような細かな振動と重低音に当てられると、不安なような、高揚するような、えもいわれぬような気持ちがしばらく続く。いつだったか、内臓を揺らすことは一種の快感につながっているというようなことを読んだような。

地震があってすぐに、大学時代の友人から安否を問う連絡があった。もう10年以上も会っていないが、ここぞというときには躊躇なく連絡がくる。さすがはやつだと感心しているうちに、えもいわれぬ気持ちも徐々におさまっていった。以前、ここでも書いたことがあるが、ふだん会うことがなくても、ここぞというときには必ず繋がることができるはずだと確信できるひとがいることの幸せを改めて感じたわけである。

このごろ考えていることがある。この手のやつが世界のどこかに居てくれるということと、自分が親しんだ土地が世界のどこかにあるということは、後者は前者ほどには濃い力はないにしてもどこか似たところがあって、自分がこの先を生きていくときの支えになってくれるような気がするのだ。どうやって支えてくれるのかはわからない。わからないがそう確信しているものだから、学生には、いろんなところに旅に行った方がいい、いろんなところで学んだ方がいいと無責任に言い散らかしている。
# by enzian | 2018-07-16 22:01

帷子(かたびら)

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明日は祇園祭らしい。どうりで浴衣を着た人が多いと思った。オープンキャンパスの学生スタッフも浴衣を着ていた。浴衣の語源が湯帷子(ゆかたびら)」だというのは先日知った。「帷子」と言えば、京都人にとっては「帷子ノ辻」ではないか。今年も嵐電は妖怪列車を走らせるのだろうか。ときどき、西院の踏切の古い警報機の音が聞きたくなって、嵐電に乗りたくなる。そして日差しを遮るもののない路面電車の細長い駅の上でじりじり焼かれたくなる。
# by enzian | 2018-07-16 11:36

眼は大事

1年前から眼の調子がおもわしくない。どうもだめで病院に行ったらまた網膜剥離ということで、着々と手術に向かっているようで、ようやくゴールデンなウィークにたどりついたというのにテンションは下がりっぱなしなのである。手帳があっても、手帳に書いてある自分の字がみえなくて会議の場所がわからない。スマホのナビがあっても、ナビがみえないのでどっちに向かったらよいかわからない。じつにおもしろくない。みなさんも、視界に蚊が飛ぶような飛蚊症(老化によるものもありますが)が急に出たり、眼に光が入るようなことがあったら、躊躇せずに病院に行ってください。しばらく、ネットを最低限のものに制限しますので、ここも書かなくなると思います。いつも書いてないけどね。では、また~。

追記:手術はとりあえず免れました。( ̄。 ̄;)

# by enzian | 2018-04-28 22:35

わくわく感

新幹線をつくった国鉄総裁、十河信二の物語を観た。技師の秀雄については少し知っていたが、十河についてはほとんど知らなかった。常識では考えられないことを実現した十河の豪傑ぶりがよく言われるが、それよりも印象に残ったのは予測力と、多方面への繊細な配慮だった。番組では新幹線の経済効果のことが言われていて、十河もそれを言っていた。新幹線がなければ、高度経済成長もなかったのだろう。経済のことは詳しくはわからないけど、いくつになっても、新幹線に乗るとなるだけで楽しいことが起こるんじゃないかという期待に胸が躍る。田舎者だからなのかもしれないけど、それは何度乗っても変わらない。通勤電車のように淡々と新幹線に乗る人も多いだろうが、仮にぼくのような "新幹線わくわく人間" が十人に一人いるとすれば、いったいどれほどの数の人にわくわく感を与えていることになるのか。わくわく感を待っている人と、わくわく感を与える人とではまったく別の人類だという印象をもつ。
# by enzian | 2018-04-16 06:20

他者を造る。

夕べはあれやこれやにわずかに一息ついて、ハードディスクにたまった番組を観ていた。慶派(運慶とか快慶とかのあれです)を継いでいる仏師の番組があっておもしろかった(以前、観たような、観なかったような)。その仏師はかつて自分が造った仏像にときどき会いに行って、熱心に手を合わせて見つめていた。自分が造り上げたものに手を合わせ頭を垂れるというのはどういう気持ちなのだろう。手塩にかけて自分が造り出したもの。それはほかの誰でもない自分のものなのだけど、それがあるとき自分をこえて他者となっていく。ここまではよくありそうな感じなのだけど、この仏像は親とも友だちとも先生とも似ていなくて、身の回りのどの人間よりももっと別の他者なのだ。そしてもっと複雑なことに、この別の他者はなぜか自分に近寄ってもくる。わかりにくい文章でまことに申し訳ないこってす。
# by enzian | 2018-04-14 10:53

執念なのだ。

どんな小さなものでも、ゼロから作り上げていくには執念が必要だということを忘れていた。ヘーゲルは偉大なことがなされるにはパッション(ドイツ語のPassion)が必要だと言ったけど、日本語の語感では「パッション」では弱い。ぼくの個人的な語感では、パッションなんぞ、リゾート地のプールサイドで飲むトロピカルドリンクの印象なのだ(パッションフルーツと間違えているらしい)。ともかく、ぼくは「執念」と言いたい。小さな論文でもそうだけど、ゼロから組み上げていくためには執念がいる。だけど、できあがった論文自体はすっきりきれいに整理されているから(当たり前だ、ごてごてしていたら論文として人前に出せない)、その執念はほとんどみえなくなってしまっている。執念を注げば注ぐほど、それはすっきりきれいに、なだらかになっていくのだ。この矛盾に耐えられない者はなにもつくれない。そして思うのは、こういう執念を継続するには、ときどき「腹の底から笑う」ようなことが欲しいということ。執念に満ちているからこそ、仕事には笑いが欲しい。
# by enzian | 2018-03-25 09:40

鬼ごっこ

鬼ごっこって不条理な遊びだと思いませんでしたか。あきるほど繰り返してやりましたが、「子」になるといつも決して捕まらないところまで逃げて、怖い「鬼」は「鬼」のままなのでした。子どもが鬼に喰われては困るわけですからこんなことになるのでしょうが、幼心に公平でないこのゲームになんの意味があるのだろうと思っていました。けっきょくのところこういうのは逃げる方が有利で、首尾良く捕まえるためには、「子」の隠れそうな場所をその「子」の性質をよく知ったうえで鋭く推測するとか、追いかけるための俊足をもつとか、「鬼」には「子」をはるかに越えた努力とか能力が必要になる、なければ必ず負ける、という教訓を教えるゲームだったのでしょうか。よくわかりませんが、辺りが暗くなって、もう夕ご飯の時間で家に帰れないといけないころになっても、「鬼」は決して見つからないでおこうとして隠れるぼくを無駄に探すのでした。

いまでも、ことあるごとに「逃げる」ひとをみていると、この不条理さを思い出します。あの夕刻からすれば、ぼくもまたあれから多くの経験を重ねて、それなりの推測能力やら、俊足ではありませんが、あきらめずに追い続ける持久力なんかを身につけたように思うのですが、やはりこういうのは逃げる者が優位です。考えうるあらゆる手段を講じて、四方八方を塞いで隙間に目張りをしても、そんなやりかたがよくないというので逆に束縛とか条件とかを取っ払ってみたりしてみても、逃げる必要などそもそもないのだと説得しても‥‥ターゲットは逃げおおすことができる。捕まえることができるのは、相手が逃げることを止めたときだけなのです。こちらに主導権はない。

それにしても思うことがあります。幼いころ、こんな不条理な遊びだとわかっていて、なぜあきるほど繰り返したのか、と。鬼ごっこにあるのは「スリル」だと思うのですが、スリルとはけっきょく一種の快感なのでしょう。そしてスリルとは不条理感を越えるものなのでしょう。すぐに捕まって、捕まえてしまうようならスリルもなにもない。いまでも、いい歳をした幼なじみが「久しぶりに鬼ごっこでもしようか?」と言えば、喜んで「やる」と答える自信があります。
# by enzian | 2018-03-17 12:11

「手当たり次第」の恐怖

問題をできるだけ細かく分け、分けた部分に順番をつけてひとつひとつ、ひとつの残りもなかったと確信できるぐらいに全体に目を通す。ある哲学者は、こういうのは当たり前のことのように思えて、しっかりできている人は意外に少ないと言っている。自分もできていないだろう。自分はそうだろうけど、自分のことは棚に上げて、これと反対のことをしている人をみるとぞっとする。反対のこととは「手当たり次第」ということ。

手当たり次第な人にとっては問題の本質がなんであるかとか、相手がどういう価値をもっているかということはどうでもよくて、問題が生じる度に、それこそ手当たり次第、順序も相手のなんたるかも考えないで道具として使って解決しようとする。それでまったく解決しなければなにかを考えるきっかけになるのかもしれないが、周囲の善良な人たちが全力で尽力するものだからそこそこ解決してしまう。だが、解決してもなぜ解決したかをわかっていないものだから、新しく問題が起こっても相変わらずどう解決したらよいかわからない。手当たり次第の範囲を広げることでその後の問題に対応していくしかない。傍迷惑な話だが、それで人生を生き切る人もいる。

以前はこういうタイプのある程度の年齢の人をみても我慢したり、おせっかいにも注意しようとしたこともあったが、いまではこういうのは生き方に根づいた性質で外からどうこうできるものでもないと気づいて、「逃げる」のコマンドを選択して(古いなぁ)、早々に逃走するのがよいと思うに至った。
# by enzian | 2018-02-11 22:43