すべてを捨てる

b0037269_1121580.jpg珍しくアッシジを扱った番組があったので観た。アッシジは、アッシジのフランチェスコの住んだ街。誰も信じないだろうが、フランチェスコはわたしが敬愛するひとのひとり。

裕福な家庭に生まれ放蕩を尽くした彼は、あるとき、すべてを捨てるという決断をする。イエスの生き方にならおうとしたのだ。すべてを捨てて、「小さき者」になることを彼は求める。我が物を捨て、貧しさのなかに生きることによってようやくひとを愛することもできると彼は考え、生涯それを実行した。

だが、ときどきこうも考える。貧しい家庭に生まれたならフランチェスコは聖人になっただろうか。貧しいなかで苦労して得たわずかのものであるなら、彼は捨てることができただろうかと。「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。イエスはこれを比喩的な意味も含めて言ったのだろうが、貧困に生まれた者が捨てることは金持ちが捨てることよりもはるかにむずかしいと思うのだ。

金銭にせよ、名誉にせよ、地位にせよ、愛情にせよ、一度得たのであるなら、生まれながらにしてもっていたのであるなら、たとえ捨てても「一度は得たことがある」という気持ちが残る。だから捨てやすいのだ。だが、一度も満足には得たことのない(と感じている、そう思い込んでいる)者が手のひらに握りしめたわずかの物(もの)を捨てることができるのだろうか。せめてそれを死守しようとするのではないか。それがなんであろうと。フランチェスコは「小さき者」になることを求めるが、手中にあるわずかの物さえ捨てられない、「小さき者」には到底なれないと苦悩する〈より小さき者〉の立場に、わたし自身はむしろ近い気がする。このブログのタイトルには、密かにそのような意味を込めてある。
by enzian | 2010-10-09 11:27 | ※その他 | Comments(0)

身の周り半径5メートルほどにある、なにげない日常をささやかに見つめ直します。


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