身の周り半径5メートルほどにある、なにげない日常をささやかに見つめ直します。


by enzian
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執念なのだ。

どんな小さなものでも、ゼロから作り上げていくには執念が必要だということを忘れていた。ヘーゲルは偉大なことがなされるにはパッション(ドイツ語のPassion)が必要だと言ったけど、日本語の語感では「パッション」では弱い。ぼくの個人的な語感では、パッションなんぞ、リゾート地のプールサイドで飲むトロピカルドリンクの印象なのだ(パッションフルーツと間違えているらしい)。ともかく、ぼくは「執念」と言いたい。小さな論文でもそうだけど、ゼロから組み上げていくためには執念がいる。だけど、できあがった論文自体はすっきりきれいに整理されているから(当たり前だ、ごてごてしていたら論文として人前に出せない)、その執念はほとんどみえなくなってしまっている。執念を注げば注ぐほど、それはすっきりきれいに、なだらかになっていくのだ。この矛盾に耐えられない者はなにもつくれない。そして思うのは、こういう執念を継続するには、ときどき「腹の底から笑う」ようなことが欲しいということ。執念に満ちているからこそ、仕事には笑いが欲しい。
by enzian | 2018-03-25 09:40

鬼ごっこ

鬼ごっこって不条理な遊びだと思いませんでしたか。あきるほど繰り返してやりましたが、「子」になるといつも決して捕まらないところまで逃げて、怖い「鬼」は「鬼」のままなのでした。子どもが鬼に喰われては困るわけですからこんなことになるのでしょうが、幼心に公平でないこのゲームになんの意味があるのだろうと思っていました。けっきょくのところこういうのは逃げる方が有利で、首尾良く捕まえるためには、「子」の隠れそうな場所をその「子」の性質をよく知ったうえで鋭く推測するとか、追いかけるための俊足をもつとか、「鬼」には「子」をはるかに越えた努力とか能力が必要になる、なければ必ず負ける、という教訓を教えるゲームだったのでしょうか。よくわかりませんが、辺りが暗くなって、もう夕ご飯の時間で家に帰れないといけないころになっても、「鬼」は決して見つからないでおこうとして隠れるぼくを無駄に探すのでした。

いまでも、ことあるごとに「逃げる」ひとをみていると、この不条理さを思い出します。あの夕刻からすれば、ぼくもまたあれから多くの経験を重ねて、それなりの推測能力やら、俊足ではありませんが、あきらめずに追い続ける持久力なんかを身につけたように思うのですが、やはりこういうのは逃げる者が優位です。考えうるあらゆる手段を講じて、四方八方を塞いで隙間に目張りをしても、そんなやりかたがよくないというので逆に束縛とか条件とかを取っ払ってみたりしてみても、逃げる必要などそもそもないのだと説得しても‥‥ターゲットは逃げおおすことができる。捕まえることができるのは、相手が逃げることを止めたときだけなのです。こちらに主導権はない。

それにしても思うことがあります。幼いころ、こんな不条理な遊びだとわかっていて、なぜあきるほど繰り返したのか、と。鬼ごっこにあるのは「スリル」だと思うのですが、スリルとはけっきょく一種の快感なのでしょう。そしてスリルとは不条理感を越えるものなのでしょう。すぐに捕まって、捕まえてしまうようならスリルもなにもない。いまでも、いい歳をした幼なじみが「久しぶりに鬼ごっこでもしようか?」と言えば、喜んで「やる」と答える自信があります。
by enzian | 2018-03-17 12:11